第2話 エンジョイ熱海!
四ツ谷駅での訓練から半月が過ぎた。
日本列島は梅雨真っただ中で、ここ二、三日はしとしととした小雨が続いていた。
しかし自称晴れ男の晃が本人いわく有徳だったため、出発の日である土曜日の午前八時頃、自宅から亀有駅までの徒歩十分だけ、一時的に雨脚が止まった。駅まで来られればあとは電車移動だ。
緑の常磐線各駅停車は綾瀬駅から東京メトロ千代田線に接続する。平日のこの時間帯は呼吸も苦しい満員電車だが、土曜日の今日は息ができる。
西日暮里までのわずかな時間、祥子は座席に腰をおろした。その目の前に、晃が立つ。今日は少し歩く予定があるので、汗をかくことを念頭に置いてTシャツに薄手のパーカー、スニーカーだ。晃は細身の筋肉質で体幹を鍛えており背筋がまっすぐなので、こんな格好でもそれなりに決まっている。一緒にいる祥子もTシャツにUVカットのパーカーだったが、背中を伸ばして堂々と歩かなければと思った。
西日暮里で山手線に乗り換え、東京駅に向かう。車内のドアの上でころころとよく動くCM動画を見つめているうちに、あっという間に東京駅に着いた。
東京駅からはオレンジ色の東海道線だ。
実はぎりぎりまで新幹線と普通電車で悩んだ。新幹線だと一時間弱、普通電車だと二時間だ。新幹線のほうが旅行っぽいが、たったの一時間のために特急料金を払うのも馬鹿らしい。
最終的に決め手になったのは、定期的に温泉旅行を楽しんでいる美咲の一言である。「東海道線って、熱海が近づくと綺麗な海が見えるのよね」。海が見たい、とっても見たい、と思った藤牙親子は、普通電車での旅行を決めた。
東海道線は東京駅から横浜駅まで平日のような混雑だったが、藤沢を過ぎたあたりから乗客が減り、小田原からはがらがらになった。
祥子と晃は進行方向に向かって左側の座席に座り、東に見えるはずの海を待った。
美咲の言ったとおり、小田原を過ぎると相模湾が見えた。雨が降る中で見る海はぼんやり灰色だったが、それでも雲の下で寄せては返す様子は雄大で心が躍る。
「わあ、海だ」
幼子のようにそう言ったのは、祥子ではなく晃である。
祥子は、晃の横顔を盗み見て、少しほっとした。ここ数日の彼はなんとなく緊張していたように感じたのだ。
ひょっとして、熱海で待っているという誰かは晃にとって心安らげる相手ではないのかもしれない。だが、祥子の力を封じるために、無理をして会いに行こうとしているのかもしれない。そう思うと、祥子は少し罪の意識を感じていた。
けれど、いよいよ熱海駅についてコインロッカーに荷物を預けると、すべてが吹き飛んだ。
駅舎から見て右側に商店街があり、大勢の人でにぎわっている。二人はWebサイトやSNSで調べたおいしいものを求めて歩き回った。まずは昼食で海鮮丼を食べる。おやつでヨーグルトとプリンを食べる。もちろん写真もいっぱい撮る。温泉饅頭から放たれる湯気、どこかで干物を焼いているのか香ばしくていい匂い、熱海駅の周りは食欲をそそるものでいっぱいだ。
商店街を出るとそこは急な坂道である。この坂をずっとくだっていけば、熱海の繁華街に通じる。右手は熱海の温泉街のルーツである七つの湯という温泉が湧くスポットの説明書き、左手は旅館や店舗の狭間から海が見える。
三十分ほど歩いて、ふたたび坂をのぼったところで、JR伊東線の
「こういうのは地元の神様に筋を通しておいたほうがいい」
駅の右手にまた坂道があって、ほどなく森にたどりついた。こんもりとした木々は祥子にもはっきりそうとわかるほど清浄な空気を漂わせていた。
来宮神社だ。
鳥居をくぐって中に入る。時々参拝客とすれ違う。
境内に入ると、右側に巨木があった。来宮神社のご神木で、樹齢千年ほどらしい。
「これだけ立派だと、悪いものは悪さできないなあ」
晃があっけらかんとした声で言って、大きく伸びをした。晃がそう言うのであれば、ここはそういう守られた土地なのだろう。熱海の住民はここに来れば安心だ。観光客の祥子も安心だ。
社殿に向かい、賽銭を投げ、柏手を打つ。頭がすっきりする。パワースポット、という言葉が浮かぶ。旅先で土地神様に手を合わせるのは、晃たち退魔師にとって必要なことらしい。遊び半分でスタンプラリーのようにめぐるのはちょっとどうかと思うが、と言いつつ、晃は長々と手を合わせて何かを祈っていた。
記念に来宮神社のお守りを手に入れると、神社を出た。その時点ですでに十五時頃だった。宿のチェックインは十七時の予定だ。二人はまた坂をくだってはおり、熱海駅のコインロッカーで荷物を回収して、今度は先ほど来宮駅で見たJR伊東線に乗った。
伊東線は一時間に一本しかない。生活の足としては不便そうだが、乗ってみると中にいたのはほとんど観光客のようである。対面式の座席でぺちゃくちゃとしゃべる年配の人々を見て、この人たちもみんな温泉に浸かりに来たのだ、とちょっと笑う。
来宮駅を通り過ぎると、電車はトンネルの中に入った。熱海駅から来宮駅までは歩いてこられたのでもっと狭い間隔で駅があるのだと思い込んでいたが、いつまで経っても次の駅が見えてこない。
「もしかしたら、神社のために駅を作ったのかもしれないな」
晃がそう言った。昔の人々の信心深さを思う。
ようやく
駅舎を出ると、閑散としたロータリーに、旅館の名前が入ったマイクロバスが止まっていた。運転手がおりてきて、「皆様こちらにお乗りください」と言う。同じように網代駅でおりた他の乗客二組四人も全員同じ旅館に宿泊する予定らしく、みんな乗り込んだ。
車で、十五分か二十分くらいだろうか。海と山を見ながら、その間にある細い国道を進み、山のほうにのぼり始めたあたりで、山の中に旅館の巨大な威容が姿を現した。
「おおー……」
マイクロバスをおりて、晃と祥子は並んで二人で旅館を見上げた。立派な宿だった。さぞかし高い宿泊料を取られることだろう。しかし祥子はさすがにこのタイミングで晃にいくらなのか聞くことはできなかった。
チェックインカウンターで鍵をもらう。
二人の部屋は二階である。
ドアノブの上のセンサーにカードキーをタッチして、ドアを開ける。現代的なカードキーとはまったく違って、部屋の中は古式ゆかしい和室だった。窓からは川が見えた。
「わ、わ、わ、すごい、お父さん川が見えるよ、川」
「まあ待て、ちょっとお茶を淹れよう、なんかここに茶菓子もあるし。なに、これ、伊豆の踊子っていうの? パッケージかわいいー」
「伊豆の踊子!」
祥子の脳内に川端康成の世界が浮かんだ。自分たちははるばる伊豆まで旅をしてきたのだと、祥子の気持ちは高ぶった。
晃がチェックインの際に受け取ったプリントによると、夕食は十九時に部屋に運んでもらえるそうである。二人はそれまで温泉に入ることにして、下着の替えと浴衣、タオルを持って部屋を飛び出した。
眼鏡をはずして入る大浴場は不安だったが、それよりも温泉に浸かれるという喜びのほうが大きい。祥子はいそいそと服を脱いで、ガラス戸の向こうに出た。
露天風呂だ。
といっても、屋根の下なので雨に濡れることはない。しかも、温泉の湯気に包まれていて、温かい。眼鏡がなくても、雨雲の中でも、まだ日が沈む前の明るい空の下にある海を感じられる。
湯に浸かった。
「はあー……」
極楽気分だった。
温泉でたっぷりくつろいで、体の芯までほぐす。自宅の浴室にも文句はないつもりだったが、やはり違うものである。
風呂から上がると、いよいよ、待ちに待った夕飯だ。
着物を着た仲居が、次から次へと料理を運んでくる。ひとつひとつの料理の皿は小さくても、数え切れないほどの皿が卓の上に並んだので、お腹はいっぱいになりそうだ。しかも、器のひとつひとつが洗練されていてしゃれている。
「すごい! これ、なに? 貝?」
「あわび」
「すごいね、ねえこれ、ちょう大きい! これ海老? こんなに大きいのも海老?」
「伊勢海老。……ねえちょっと祥子ちゃん、はしゃぎ過ぎじゃない? お父さんがちゃんとご飯食べさせてあげてないみたいじゃない?」
「おいしい! お鍋おいしい! おいしい!」
「まあ……そうだね、おいしいね……!」
たっぷり二時間かけて海の幸と山の幸を味わい尽くした。
仲居が片づけに来てくれたところで、二人は寝る前にもう一度と、大浴場に向かった。今度は浸かるだけなので、さほど時間をかけずに上がった。
部屋に戻ると、布団が二組、ぴったり隣同士にセットされて敷かれていた。カップルだと思われたのだろうか。こんなに顔が似ているのに、と思うとおかしい。
「あー、寝よ寝よ」
晃は特に気にした様子もなく、ころん、と寝転がる。
「明日はビッグイベントだからな。今日はゆっくり寝ておかないと」
祥子も晃の隣に、ころん、と転がった。
少しの間、沈黙した。
明日誰に会いに行くの、と、聞けなかった。祥子自身も不安だったが、それ以上に、晃が緊張しているのを感じていた。彼がすることに口を出してはいけない。晃は一応父親なのだから、彼の何かを突き崩すようなことはしたくない。そんなことを考えながら、祥子は目を閉じた。
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