ちょっとだけ素直になる日

ちょっとだけ素直になる日

放課後の教室は、静まり返っていた。

西日が差し込む窓際の席だけが、オレンジ色に染まっている。


「……あれ? まだ誰か残ってたんだ」


教室に足を踏み入れた俺は、思わずそう呟いた。

そこにいたのは、同じクラスの篠原しのはら琴音ことねだった。


長い黒髪を耳にかけて、窓際の席にぽつんと座っている。

成績優秀で、顔立ちも整ってるけど、どこか他人を寄せつけない空気をまとっていて、クラスでは少し浮いた存在。

だけど、俺にだけは、なぜかやたらと絡んでくる。


「はあ? あんたこそ、なに戻ってきてんのよ」


相変わらずツンとした口調で睨んでくる。

それが篠原琴音。……いや、今は“篠原”って呼んでおこう。


「教科書忘れてさ。篠原は?」


「……別に。たまたまよ、た・ま・た・ま」


と言いつつ、彼女の机の上には、俺のプリントがきれいに揃えて置かれていた。

たぶん、帰ろうとしたときに気づいてまとめてくれたんだろう。

わざわざ何も言わずに。


「ありがとう。助かった」


「べ、別にっ、あんたが困ってたらクラスの空気悪くなるからよ! 勘違いしないでよね!」


ツン。

でも、耳の先がほんのり赤くなってるの、俺は見逃さない。


「じゃ、俺も帰るわ。一緒に出るか?」


「べっ、べつにあんたに合わせる気なんて……」


そう言いながら、なぜか彼女はすぐ横に並んできた。

歩幅を合わせて、ほんの少し後ろをついてくる。

なんていうか……わかりやすい。


ちなみに俺は、春日かすが晴翔はると

鈍感ってよく言われるけど、篠原の態度は……さすがに気づくって。


エスカレーターの前で、靴紐がほどけてることに気づいた。


「ちょっと、ほどけてるじゃない。だらしないわね」


篠原はそう言うと、しゃがんで俺の靴紐を結び始めた。

手が、ちょっと震えてるのを見逃さなかった。


「……ありがとう、な?」


「べ、別に! 見ててイライラしただけよっ!」


顔をそむけるその表情は、夕焼けの色よりも赤く見えた。


「なあ、篠原ってさ——」


「……なに?」


「ほんとは優しいよな」


その瞬間、彼女の動きが止まった。


「なっ……! なによ急に!? は!? はぁ!? 優しい!? 誰が!?」


「お、おう……ごめん」


「……他の女子にも、そんなこと言ってんじゃないでしょうね」


ぽそっと、怒気の裏に隠れた言葉が漏れた。

それは、どう聞いても——


「……嫉妬?」


「っ……! ち、ちがう!! ちがうしっ!!」


顔をそむけて、拳をぎゅっと握ってる。

でも、声が震えてる。手も、肩も。


そのまま、無言でしばらく並んで歩く。

風が吹いて、篠原の髪が少し揺れた。


「……あたし、ほんとはずっと……見てたのに」


ぽつり、と漏れたその声は、小さくて、でもちゃんと届いた。


「見てたって、なにを?」


「……あんたのことよ。言わせんな、バカ」


その一言に、心臓が跳ねた。

驚いて振り返ると、彼女は俯いたまま、顔を真っ赤にしていた。


「……それ、俺もなんとなく気づいてたかも」


「……っ、嘘つけ……バカ」


ふたりの歩幅が、自然とそろう。

肩が少し触れたけど、篠原はもう離れようとしなかった。


しばらく沈黙が続いたあと、彼女がぽつりと呟く。


「……明日も、一緒に帰ってあげてもいいよ?」


ふいに出たその言葉に、俺は少しだけ笑ってから、

いつもとは違う呼び方で、そっと言った。


「……“また”誘うわ。琴音」


一瞬だけ、彼女の足が止まる。

目を丸くして、こちらを見つめてきた。


「……今、なんて言った?」


「名前。……琴音って」


その名をもう一度呼ぶと、彼女は俯いて、小さく肩を揺らす。


「……ばか。でも、もう一回言ってもいいけど?」


その笑顔は、今日見た中で一番、素直だった。


そして、ふたりの帰り道は、少しだけ甘くなった。


——ちょっとだけ、素直になる日。

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