ヒーローと英雄

@ezo-murasaki

ヒーローと英雄

街には梅雨の末期を思わせるような、粘りつく雨が降り続いていた。地上150メートル。風が唸りを上げ、古い高層ビルの窓拭き用ゴンドラが、まるで木の葉のように揺れている。そのゴンドラを吊る一本のワイヤーが、軋み、ささくれ立ち、限界を告げる甲高い悲鳴を上げた次の瞬間、ぷつりと切れた。


自由落下。鉄の塊と化したゴンドラにしがみつく二人の作業員の絶叫は、眼下を歩く人々の耳に届く前に、風に引き裂かれて消えた。地上では、何人かが異変に気づき、指をさし、息を呑む。だが、それだけだ。祈ることも、目を背けることも、この悲劇の前では等しく無力だった。


その、時間が引き伸ばされたような一瞬に、重力に抗う影があった。


隣のビルの屋上から飛び出した黒いパーカーの青年――ミナトは、まるで不可視の階段を駆け下りるように、落下するゴンドラへと迫っていた。彼の足はビルの壁面を蹴り、窓ガラスを掠め、常軌を逸した軌道を描く。


ゴンドラに追いつくと同時に、彼はそのフレームを掴み、自身の体重と運動エネルギーのすべてを使って衝撃を相殺する。腕の筋肉が悲鳴を上げ、骨が軋む。だが、彼は歯を食いしばり、そのままゴンドラごと振り子のように軌道を変え、近くのビルの広々としたバルコニーへと滑り込むように着地した。


「……大丈夫ですか」


腰を抜かした作業員二人に震える声で尋ねる。彼らが茫然と頷くのを確認する間もなく、ミナトは再び身を翻した。バルコニーの手すりを飛び越え、非常階段を駆け下りていく。人々の歓声や、やがて到着するであろうサイレンの音を、彼は背中で聞く。感謝も、称賛も、彼には不要だった。それは、五年前に救えなかった最愛の妹、アカリの無念を薄めてしまう気がしたからだ。


濁流、警報、そして、離してしまった小さな手。あの日の記憶が、彼の全身を今も冷たい鎖のように縛り付けている。だから彼は走る。誰にも知られず、誰のためでもなく、ただ自身の罪を洗い流すかのように。街の人々が、いつしか彼の起こす奇跡を「ツムジカゼ」という都市伝説の名で呼び始めたことを、彼は知らない。


同じ日の午後、太陽の光がステンドグラスを通して七色に乱舞する市庁舎ホールで、長谷川誠(はせがわまこと)市長は、鳴り止まない拍手の中に立っていた。数年前、この街を未曾有の大津波が襲った。すべてが流され、絶望だけが残った瓦礫の街で、彼は復興の旗を振り続けた。画期的な防災都市計画を立案し、国や企業から莫大な資金を引き出し、そして何より、希望を失った市民の心を鼓舞し続けた。その結果が、今のこの街だ。人々は彼を、疑いようのない「英雄」として称賛し、敬愛していた。


「長谷川市長、今週末に控えた新防潮堤の完成記念式典は、この街の完全なる復活の証となります。今のお気持ちは」

マイクを向ける若い女性リポーターに、長谷川は穏やかな、それでいて少し疲れた笑みを返した。

「私の力など微々たるものです。すべては、故郷を愛し、歯を食いしばって立ち上がった、市民の皆様一人ひとりの努力の賜物です」


完璧な回答。だが、その英雄の仮面の下で、彼の心は静かに摩耗していた。復興計画の裏で、彼は多くのものを切り捨ててきた。立ち退きを拒んだ住民の地区、予算の都合で見送られた小さな漁港の再建、計画に反対した者たちへの非情な切り崩し。それら全てを、「大義のため」という言葉で正当化してきた。だが、眠れぬ夜、犠牲になった者たちの顔が、彼の瞼の裏に浮かんで消える。英雄とは、かくも孤独なものなのか。彼は、群衆の喝采の中にいながら、誰よりも深い孤独を感じていた。



街の復興の象徴であり、市民の新たな希望でもある巨大防潮堤――その名は『プロメテウスの壁』。全長数十キロに及び、最新の技術の粋を集めて建設されたそれは、いかなる津波からも街を守るとされていた。週末の完成記念式典を控え、街はお祭りムードに包まれていた。


だが、その喧騒の影で、不協和音が静かに鳴り始めていた。


「市長、地盤工学の権威である東都大学の山岸教授から、非公式ながら懸念が示されています」

市長室で、長谷川の忠実な秘書である小野寺が、硬い表情で報告書を差し出した。

「『プロメテウスの壁』の基礎部分、特に第3水門付近の海底地盤が、当初の想定よりも脆弱である可能性を指摘しています。近年の微細な地殻変動の影響かもしれないと」

長谷川は、分厚い報告書に目を通しながら、眉間に深い皺を刻んだ。

「非公式、か。つまり、学会で発表されたわけでも、確定的なデータがあるわけでもない、ただの懸念だな」

「は、はい。しかし山岸教授は、この分野の第一人者です。式典の前に、一度精密な再調査を行うべきだと…」

長谷川は大きくため息をつき、椅子に深く身を沈めた。式典は目前だ。国内外から多くの来賓が訪れ、この式典は復興支援への感謝と、今後の投資を呼び込むための重要なショーケースでもあった。今ここで計画に水を差すような調査を行えば、どんな憶測を呼ぶか分からない。一部のメディアが、格好の攻撃材料として飛びつくだろう。


「市長、この長雨で、山岸教授の懸念がより現実味を帯びてきます。地盤が緩んでいる可能性も考慮すべきです」

小野寺の言葉に、長谷川は苛立たしげに報告書から顔を上げた。

「設計段階で、この程度の降雨は織り込み済みのはずだ。我が国の最高の技術者たちが、雨くらいで揺らぐようなものを造ったとでも言うのか。山岸教授の懸念は、あくまで最悪のケースを想定した仮説に過ぎん」

長谷川は窓の外の空を睨みつけた。


「小野寺君、この件は私の胸にしまっておく」

「しかし、市長!」

「万が一を考え、警戒レベルを一段階上げるよう、防災課には内密に指示を出しておこう。だが、調査は式典の後だ。政治とは、時にリスクを取る決断をすることだ。この街の未来のためにな」

その声には、有無を言わせぬ響きがあった。小野寺は唇を噛み、黙って頭を下げるしかなかった。長谷川は、窓の外にそびえ立つ『プロメテウスの壁』を見つめた。あれは俺の、そしてこの街の誇りだ。一人の学者の、可能性に過ぎない警告で、揺らがせるわけにはいかない。彼はそう自身に言い聞かせた。


その頃、ミナトは高架下の薄暗い倉庫で、古びたバイクの整備をしていた。これが彼の表の顔であり、生計を立てるためのフリーランスの運び屋だった。壁には、妹のアカリが描いた、クレヨン画の家族の絵が貼られている。屈託なく笑う、五年前の自分と両親、そしてアカリ。その絵を見るたびに、彼の胸は締め付けられた。


「…また、無茶したんだろ」

背後から、呆れたような声がした。この倉庫の家主であり、ミナトの数少ない理解者である元医師の橘だった。彼は、ミナトが運び込まれた怪我人(ミナト自身を含む)を、警察沙汰にせず治療する闇医者のような役割を担っていた。

「ゴンドラの件、ニュースになってたぞ。『謎のヒーロー、ツムジカゼ』だってさ。笑わせる」

「……」

「お前のその力は、祝福じゃない。呪いだ。いつかお前自身を滅ぼすぞ」

ミナトの力は、あの大津波の日に発現した。瓦礫の下敷きになり、死の淵を彷徨った時、何かが彼の中で目覚めた。だが、その力をもってしても、アカリの手を掴み続けることはできなかった。だから、これは呪いでいい、とミナトは思っている。


夜、ミナトはバイクを走らせていた。配達の途中、彼は市庁舎前の広場で、大型ビジョンに映し出される長谷川市長のインタビューを目にした。復興の歩みを力強く語り、市民に希望を与えるその姿。人々は彼を「英雄」と呼ぶ。ミナトは、その言葉に冷めたものを感じた。英雄がテレビの中で語っている間に、ゴンドラは落ち、人は死にかける。本当に人を救うのは、そんな綺麗な言葉じゃない。ミナトはアクセルを回し、英雄の姿に背を向けた。


だが、その夜、ミナトは奇妙なものを感じ取っていた。大気が張り詰め、地面が微かに、だが確かに呻いているような感覚。彼の研ぎ澄まされた五感が、街に迫る異変の予兆を捉え始めていた。それは、五年前のあの日の直前に感じた、不吉な静けさによく似ていた。



金曜日の午後、悪夢は現実となった。


最初に異変を捉えたのは、『プロメテウスの壁』の中央管制室にいた、若いオペレーターだった。

「第3水門付近、応力センサーに異常値!規定を大幅に超えています!」

彼の叫び声が、平和な管制室の空気を引き裂いた。すぐさま、水中カメラが緊急作動し、濁った海底の映像をメインスクリーンに映し出す。そこに現れた光景に、誰もが息を呑んだ。


コンクリートの壁面に、髪の毛のように細いが、しかし確かな亀裂が走っていた。そして、その亀裂は、まるで生き物のように、リアルタイムで広がっていく。小さな気泡が、亀裂から絶え間なく湧き出していた。


「ダメだ!水圧に耐えきれていない!」

「設計上の限界を遥かに超える圧力がかかっています!山岸教授の指摘通り、地盤そのものが…!」


報告が飛び交う中、事態は刻一刻と悪化していく。亀裂はもはや隠しようのない大蛇となり、防潮堤全体を蝕み始めていた。街中に、最高レベルの警戒を示すサイレンが鳴り響く。それは、市民にとって忘れたはずの、五年前の絶望の音だった。


街は一瞬にしてパニックの坩堝と化した。人々は我先にと高台を目指し、道路は車で埋め尽くされ、怒号と悲鳴が入り乱れる。


ミナトは、そのサイレンの音を、港近くの倉庫街で聞いていた。彼の全身の産毛が逆立ち、肌が粟立つ。五年前と同じ、破滅の匂い。彼は迷わずバイクに跨ると、エンジンを咆哮させ、パニックの中心地へと向かった。目指すは、最も危険で、最も多くの人が取り残されているであろう、海に近い低所得者層の居住区だった。


「こっちだ!急げ!」

ミナトは人波をかき分け、浸水が始まった路地へと飛び込んだ。足の悪い老人を見つければ背負い、泣き叫ぶ子供を見つければ抱きかかえ、安全な高台のビルへと何度も往復する。彼の頭の中には、ただ「救う」という二文字しかなかった。なぜ、と問う暇はない。これは彼に課せられた、贖罪の儀式なのだ。泥水が彼の体を濡らし、瓦礫が彼の肌を切り裂く。だが、痛みは感じなかった。ただ、アカリを救えなかった時の無力感が、彼の心を焼いていた。


一方、市庁舎の地下に設置された災害対策本部は、野戦病院さながらの混乱を呈していた。

「市長!第3水門の亀裂、拡大が止まりません!決壊は、もはや時間の問題です!」

防災課長が、血走った目で長谷川に報告する。メインスクリーンには、コンピュータが弾き出したおぞましいシミュレーション結果が映し出されていた。このまま中央区画が決壊すれば、濁流は扇状に広がり、市街地の実に6割が水没する。死者は、数万人に達する可能性があった。


「自衛隊のヘリは!?避難誘導はどうなっている!」

長谷川は怒鳴るように指示を飛ばすが、返ってくる報告は絶望的なものばかりだった。

「道路の麻痺で、地上部隊は進めません!」

「西地区は、地形的に孤立しており、避難が大幅に遅れています!」


西地区――そこは、かつて長谷川が復興計画の中で、開発を後回しにした場所だった。古い木造家屋が密集し、高齢者が多く住む、忘れられたような地区。その地名を聞いた瞬間、長谷川の心臓を冷たい手が掴んだようだった。


対策本部の技術顧問として詰めていた山岸教授が、震える声で進言した。

「市長…もはや、選択肢は一つしかありません」

彼は震える指で、地図上のある一点を指した。そこは、西地区を守るように設置された、第3水門だった。

「第3水門を、内側から意図的に爆破するのです。そうすれば、水のエネルギーは、比較的被害の少ない西地区へと集中して流れ込む。いわば、トカゲの尻尾切りです。そうすれば、市街地の壊滅という最悪の事態だけは、避けられるかもしれません…」

「馬鹿なことを言うな!」長谷川は叫んだ。「西地区には、まだ多くの住民が取り残されているんだぞ!彼らを見殺しにしろと言うのか!」

「では、数万人の市民と共に、この街ごと沈むおつもりですか!」

山岸の言葉が、ナイフのように突き刺さる。対策本部の全員が、固唾を飲んで長谷川の決断を待っていた。



時間の猶予は、なかった。メインスクリーンに映し出された防潮堤のセンサーは、断末魔のような警告音を発し続けている。決壊までの予測時間は、あとわずか数十分。


長谷川は、目を閉じた。瞼の裏に、市民の顔が浮かぶ。復興式典で彼に手を振っていた子供たち。彼の政策を信じ、この街で新たな生活を始めた若い夫婦。そして、開発から取り残され、それでもこの街に住み続けていた、西地区の老人たちの顔。


どちらを救い、どちらを切り捨てるのか。


神にでもなったつもりか、と内なる声が彼を嘲笑う。だが、今、この決断を下せるのは自分しかいない。それが、市民から「英雄」という名の重責を託された者の、宿命だった。


「……やるしかない」


長谷川が絞り出した声は、ひどく掠れていた。

「第3水門を、爆破する」

対策本部に、悲痛な沈黙が落ちる。誰もが、その言葉の重みを理解していた。

「急げ!自衛隊と連携し、爆破準備に入れ!西地区の住民には、可能な限りの避難勧告を続けろ!一人でも多く救うんだ!」

彼の声は、もはや英雄のものではなく、罪を犯すことを決意した、一人の男の悲痛な叫びだった。小野寺秘書が、蒼白な顔で彼を見つめている。その目に、長谷川は軽蔑ではなく、深い同情の色を見た。それが、唯一の救いだった。


その頃、ミナトは西地区で、文字通り泥水の中を駆けずり回っていた。古いアパートの二階に取り残された家族を救出し、屋上へと導く。彼の超人的な活躍は、パニックに陥った人々の間で、いつしか希望の光となっていた。「ツムジカゼだ!」「彼が来たなら助かる!」。そんな声が、彼の耳にも届いていた。


だが、ミナト一人の力には限界があった。救うそばから、助けを求める声が次々と湧き上がる。水位は容赦なく上昇し、彼の足元にまとわりつく。焦りが彼の冷静さを奪っていく。


その時だった。偶然、彼が背負っていた老人が持っていた防災無線が、雑音と共に、対策本部の通信を拾った。

『――こちら対策本部。市長の決断が下された。第3水門、爆破準備に入れ』

ミナトの動きが、ぴたりと止まった。

なんだ?今、何と言った?爆破?


『――西地区への最終避難勧告!繰り返す、西地区の住民は、直ちに高台へ避難せよ!』

無線から流れる無機質な声が、ミナトの頭の中で反響する。意味を理解した瞬間、彼の血が逆流するような感覚に襲われた。

見捨てるというのか。この、今まさに助けを求めている人々を。


「やめろ…」


ミナトの唇から、か細い声が漏れた。

彼は、近くの建物の屋上に駆け上がった。そこには、不安な表情で寄り添う十数人の住民がいた。幼い少女が、母親の服を掴んで震えている。その姿が、アカリと重なった。


『――第3水門、爆破シーケンス開始。爆破まで、60秒』


絶望的なカウントダウン。ミナトは無線機を掴み、叫んだ。

「やめろ!聞こえるか!ここにはまだ人がいるんだ!やめてくれ!」

彼の声が、対策本部に届くはずもなかった。だが、その必死の叫びは、近くで活動していた消防隊員の無線には届いた。

「なんだ!?誰だ、この声は!」

「西地区からだ!民間人か…いや、違う!『ツムジカゼ』だ!彼が、現場で救助活動を…!」

その報告は、すぐさま対策本部の長谷川の耳にも届いた。スクリーンに、西地区の拡大図と、消防隊からの報告がテキストで表示される。


『現場に、正体不明の救助者、通称「ツムジカゼ」あり。多数の住民を避難させている模様』


長谷川は、その文字を睨みつけた。都市伝説だと思っていた存在が、今、自分が切り捨てようとしている場所で、命を懸けて人々を救っている。一人の理想を貫くヒーローが、そこにいた。そして自分は、全体の未来のために、そのヒーローごと、人々を濁流に沈めようとしている。


「市長…」

小野寺が、懇願するような目で彼を見る。


『爆破まで、10秒…9…8…』

カウントダウンは止まらない。


「やめろぉぉぉぉっ!!」


ミナトの絶叫は、遠くで上がった閃光と、地を揺るがす轟音に飲み込まれた。

次の瞬間、第3水門があった場所から、巨大な壁のような濁流が、凄まじい勢いで西地区へと流れ込んだ。それは、あらゆるものを飲み込み、破壊し、押し流す、圧倒的な暴力の化身だった。

ミナトは、傍にいた少女を咄嗟に抱きしめ、建物の最も高い給水塔にしがみついた。濁流は、彼らの足元を舐めるように通り過ぎ、彼がさっきまでいた場所、彼が救おうとしていた人々の悲鳴を、無慈悲に飲み込んでいった。


対策本部では、誰かが嗚咽を漏らした。

長谷川は、モニターに映し出された、濁流に沈む西地区の映像を、ただ呆然と見つめていた。

市街地の水位上昇を示すグラフが、緩やかになっていく。街は、救われたのだ。

非情な決断によって。



事件から、三ヶ月が過ぎた。


長谷川の決断は、結果として、街の壊滅という最悪の事態を防いだ。彼は、国内外のメディアから「苦渋の決断を下した、偉大なリーダー」として、改めて英雄の名を不動のものにした。復興された市街地では、彼の功績を称える声が溢れていた。


だが、その裏で、長谷川は犠牲となった西地区の遺族から、殺人罪で告発されていた。毎日のように市庁舎には抗議の声が寄せられ、彼の家の壁には、赤いスプレーで「人殺し」と書かれた。彼は夜ごと、濁流の悪夢にうなされた。眠るのが怖くて、ソファでウイスキーを呷り、意識を失うように夜を明かす日が増えた。


ある雨の夜、長谷川は誰にも告げず、一人で車を走らせた。向かった先は、水が引き、今は立ち入り禁止となっている西地区の一角に建てられた、小さな仮設の慰霊碑だった。降りしきる雨の中、無数の白い菊と、犠牲者の名前が刻まれたプレートが並んでいる。彼は傘もささずに車を降り、ずぶ濡れになりながら、その前に立った。


英雄とは、最も多くの人間の幸福を、最も少ない人間の犠牲の上に築き上げる者のことなのかもしれない。だとしたら、その犠牲の重みを、一身に背負い続けることこそが、英雄の宿命なのだろう。長谷川は、答えの出ない問いを自問しながら、ただ静かに頭を垂れた。


慰霊碑の片隅に、他とは少し違う花束が供えられているのに、長谷川は気づいた。それは、どこにでも咲いているような、素朴な野の花だった。


ミナトは、あの日以来、一度も「ツムジカゼ」として姿を現してはいなかった。

彼は、自分の無力さに打ちのめされていた。どんなに速く走れても、どんなに力があっても、巨大な悪意や、あるいは大局的な正義の前では、ちっぽけな存在でしかないと思い知らされた。彼は、運び屋の仕事も辞め、橘の倉庫の片隅で、抜け殻のように日々を過ごしていた。


「いつまでそうしているつもりだ」

橘が、一杯のコーヒーを彼の前に置いた。

「お前が救った命も、確かにあったんだぞ」

橘は、一枚の新聞の切り抜きを見せた。それは、地方版の小さなコラム記事だった。

『あの日の西地区で、名もなきヒーローに救われたという少女が、退院しました。彼女は「黒いパーカーのお兄ちゃんが、風みたいに助けてくれた。いつかお礼が言いたい」と語っています』

記事には、はにかみながら笑う少女の写真が添えられていた。あの日、ミナトが最後に抱きしめて守った、あの少女だった。


ミナトは、その写真から目を離せなかった。

彼の心に、小さな、だが確かな光が灯る。

自分は、街を救う英雄にはなれない。多くの命を天秤にかけるような、非情な決断もできない。だが、目の前で助けを求める、たった一人の手を掴むことならできるかもしれない。救えるのが、一人でもいい。誰にも知られなくてもいい。それが、自分の戦い方なのだ。


数日後、深夜の街で、一台のバイクが走り出した。黒いパーカーのフードを目深にかぶった青年が、夜の闇へと溶け込んでいく。向かう先は、彼を必要とする誰かの元だ。


人々の記憶に刻まれ、光と影の中で苦悩し続けるのが「英雄」の道ならば。

ただ己の信じる正義のために走り続けるのが「ヒーロー」の道。


二つの道が交わることは、おそらくない。だが、あの雨の夜、慰霊碑に供えられた素朴な野の花のように、彼らの存在は、この街のどこかで、確かに繋がっている。


長谷川は、これからも英雄として街の未来を背負い続けるだろう。

そしてミナトは、名もなきヒーローとして、今夜も風になる。


二つの正義の物語に、終わりはない。

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