母の技法

神木

第1話

 俺には子宮がある。


 幅広く太い胸郭の下に格納された臓器、幾何学的にうねる腸と、角ばって旋回する大腸、そして膀胱があって、尿道が伸びて、前立腺がまとわりつき、ペニスがある。そしてどこにも繋がらない子宮がある。翼を広げた漏斗のような、あの形ではなく、それは肉腫に似ている。ホルモンをわずかに分泌するが、卵子はない肉袋。人は口から肛門を繋ぐ一本の管だ。そして同時に俺は袋でもあった。何を産むでもない、何を孕む準備もない虚ろな肉袋。


 たまの不調以外に、子宮は何も主張をしない。大学を卒業して実家を出て、フルリモートで働いて、マッチングアプリで友人を見つけて生活をした。そこに子宮の入る込む余地はない。同棲することになった斉田にも子宮の話はしなかった。


 そうやって都会の生活を送っていると、実家の父から連絡がきて、母親の葬儀をした。パートナーは連れていかなかった。いらない面倒を起こしかねないし、両親には語らなくていい話だった。


 葬儀を終えて神奈川に帰る。パートナーの名で買ったマンションは、うっすらと潮の匂いが混ざっている。父も母も海辺の街の生まれだったから、俺もどことなくその雰囲気が好きだったのだ。3LDK、二人で暮らす分には申し分のない広さ。どうせ子ども部屋を考えることもない。斉田は玄関先で、俺の肩に塩をかけた。そのあと、久々に斉田と寝た。俺たちはシャワーを浴びて、しかるべき準備を終えて、正しくない臓器に正しくない器官を挿入した。空の子宮に斉田の精子が放たれたなら、精子としても本懐を遂げられるだろうが、あいにく、この子宮には入り口も出口もないのだ。斉田の精子は本来の役割を果たすことなく全員死んだ。ティッシュの上に吸い取られて燃やされ、バスタオルのループに絡めとられて下水に流れていった。


 翌日から、不調が始まる。虚ろな子宮が呼び込む不調だ。痛み、頻尿、下痢、頭痛、その他。機序としては分泌されるホルモンによる自家中毒だ。数日休めば収まる。嵐が過ぎ去るのを待つように、部屋でじっとしていれば終わる。いつもそうしてきた。でも今回は明らかに違う。不調は更に深く重くなっていく。精神が痛みにリソースを割くせいで、斉田に当たりがちになる。こんなことは今までなかった。俺の不調は定期的なものだから、斉田はにこやかに俺をいなす。そして俺は部屋に閉じこもるようになる。


 仕事以外の時間、俺は眠って過ごす。暗闇と静寂が重たい布団のように部屋に敷き詰められていく。ずっしりした休息の時間でも、俺の子宮はうねり、不吉に震えて、何かの予感をけたたましく叫びたてていた。


 眠りの中で俺は何度も母の夢を見る。父から見た母、俺から見た母、仕事相手から見た母、母から見た母、それは反転して、母から見た父、母から見た俺、母から見た仕事相手。母。母。母。母。俺の血は母からできている。海の匂いがする。乳の匂いがする。


 母は俺を知らない。知らないまま母は死んだからだ。独身で、東京で働いていて、一人暮らしで、仕事が楽しくてまだまだ結婚しないあなたの息子。全部嘘だ。そんな人はいない。パートナーがいて、二人暮らしだ。あなたは俺のパートナーの存在も知らないまま死んだ。俺はあなたの葬式のとき、一人だけ別の意味で酒を開けた。間に合った! これで親のプレッシャーが一つなくなった! あとは父だ! そうすれば俺は本当の意味で自由になれるだろう。


 部屋の匂いが濃くなっている。横須賀だとかの海の匂いだ。そして北海道の海の匂いがする。石狩湾の海水浴場。そこで俺たち家族はバーベキューをした。おにぎりを持って行って、冷凍の肉を買って、浜辺で焼いた。母は俺に野菜の切り方や、米の炊き方、おにぎりの握り方、食器の洗い方を教えた。


「簡単な料理くらいできるようにならなくちゃ。あなたが結婚して、嫁さんが子どもにかかりっきりになったら、あなたがご飯を作ってやるくらいはできないと」


 ああ海の匂いがする。母親の声がする。長い時間をかけて俺の身体は少しずつ丸みを帯びていく。腹のずっと奥で何かが騒めく。波打つ。誰かが泣く。誰かがその涙を拭う。誰かがお前を愛する。斉田にこの子宮のことを話さなかったのを、俺はひどく悔やんでいる。俺はどこにいたって一人なのだ、それを俺は知っているのだ。


 強烈な便意がこみ上げる。しかしそれは便ではない。寝間着をずらして、脚を開く。間髪入れずに、柔らかく硬いものが俺の肛門を裂いて、腸の蠕動によって吐き出される。血と糞便と精液を纏った肉塊がベッドにこぼれる。そっと抱える。

 料理、掃除、洗濯、アイロン、様々な方法を母は俺に教えた。でも子供の抱き方だけは教わらなかった。背と首を支え、膝の裏と尻にかけてを手の平に乗せる。あっているかは分からない。でもやるしかない。そのしわくちゃの猿、真っ赤な顔は、確かに母の顔をしている。


 産んだ母を抱えて、俺は少しの間休む。そしてそのまま部屋を出ていく。海が近い。帰らなくてはならない。正しくならなければならない。愛さなければならない。母から教わった技法を活かさなくてはならない。俺の背後でマンションの扉が閉じて、生ぬるい海風が俺と、俺の産んだ母を撫でた。


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母の技法 神木 @kamiki_shobou

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