Day by Day , Hand in Hand
ななないなない
第1話 ガルガネンの黒騎士
土埃の舞う、ガルガネン王国騎士団の練兵場。
噎せ返るような汗と鉄の匂いが蔓延する午後。
乾いた空気に、肉を打つ鈍い音とそれに続く金属の甲高い音が響く。
「馬鹿者!貴様それでもこのガブレスの従者か!」
うめき声と怒号。
拳を振り抜いた直後の姿勢で直立する黒騎士ガブレス。
その
地面に叩きつけられた衝撃で、彼女の結んでいた髪がほどけ、砂と汗にまみれる。か細い肩が小刻みに震え、かろうじて上げた顔の頬は、見る間に赤黒く腫れ上がっていく。唇の端からは、一筋の血が流れていた。
「うっ…うぅ…」
苦痛に耐えようとする少女を、ガブレスは漆黒の兜の奥の瞳で見下ろす。
彼と彼女の周りには、同じく訓練に励んでいた兵士たちがいたが、誰もが動きを止め、恐怖に凍りついていた。
助けに入ろうとする者など、一人もいない。
「俺は『打ち込め』と言ったのだ」
ガブレスはゆっくりと、血と砂が僅かに付着した鉄腕を掲げて見せる。
「ただ『三合打ちこんでみろ』と言ったのだ。ただそれだけだ!だというのに、貴様の剣は何だ!撫でるような一撃!赤子の戯れか!」
少女は震える声で、必死に言葉を紡ごうとした。
「も、申し訳…ありませ…ガブレス様…。しかし、本気で打ち込めば、お体に…」
「黙らんか馬鹿者!!」
再び轟く怒号。
ガブレスは少女の胸倉を掴み、軽々と引きずり起こす。少女の足は宙に浮き、ただただガブレスの巨大な腕に吊るされるだけだった。
「手加減だと?この俺に?貴様のような小娘が?」
ガブレスの顔が少女の眼前まで迫る。
兜のスリットから覗く眼光は獲物を嬲る肉食獣のそれだ。
「いいか!よく聞け!貴様の気遣はただの侮辱だ!!貴様のその腐った根性は戦場で真っ先に仲間を殺すぞ!!そして貴様自身を犬死にさせるのだ!!」
彼は少女をゴミでも捨てるかのように、再び地面に投げ捨てた。
「失せろ。二度と俺の前にその無価値な顔を晒すな」
少女は咳き込みながら、震える手足で必死に立ち上がろうとする。
周囲の皆は腫れ物に触るように彼女から視線を逸らした。
この練兵場では、弱さは罪であり、同情は弱さの伝染でしかない。
それが、黒騎士ガブレスが支配する部隊の、揺るぎない掟だった。
「さて。他に俺を『手加減』で侮辱したい者はいるか?」
静寂。
ただ、風が砂塵を巻き上げる音だけが響いていた。
ガブレスは満足げに鼻を鳴らし、巨大な両手剣『弱虫殺し』を肩に担ぎ直した。
その時だった。
練兵場の入り口から、厳しい声が響く。
「――そこまでだ、ガブレス卿。息巻く前にその者の手当てが先であろう」
声の主は、白銀の鎧を陽光に輝かせながら、ゆっくりと歩みを進めてくる。
騎士の中の騎士、バーデル。
彼の顔には、目の前の惨状に対する静かな怒りと、深い失望が浮かんでいた。
「わ、私が悪いのです、バーデル様…」
少女は、歩み寄るバーデルを制するように、か細く、しかし、芯のある声で言った。
彼女は自らの非力さを恥じるように俯き、唇を噛みしめる。しかし、その健気な言葉はガブレスの怒りの炎に、さらにとくとくと油を注いだ。
「わかっているならなおさらのこと!」
ガブレスの咆哮が響く。
彼は一瞬の溜めもなく、鋼鉄の具足をまとった脚を振り上げた。
狙いは、地面に手をついたままの少女の、無防備な脇腹。
「ぐっ…!」
鈍い衝撃音と共に、少女の小さな体は木っ端のように吹き飛ばされ、練兵場の硬い地面を数度ごろごろと転がった。
咳き込み、蹲る少女。肋骨の数本は、砕けているかもしれない。
「やめんかガブレスッ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたバーデルが、地を蹴った。白銀の鎧が軋む音を立て、その手は腰の剣『正義の天秤』の柄にかかっている。彼の慈愛に満ちた瞳は、今や燃えるような怒りの色に染まっていた。
だが、バーデルよりも速く動いた影があった。
ひょい、と。
まるで最初からそこにいたかのように、蹴り上げた脚で少女をすり潰そうとするガブレスの前に一人の男が立っていた。
眠たげな目をした、軽装の騎士。シュッターだ。
「それ以上いけない」
その声は、叱責というよりは諭すような、どこか気の抜けた調子だったが、その手は、追撃しようとするガブレスの腕を、軽く、しかし的確に掴んでいた。
巨大なガブレスの腕が、ピタリと止まる。
「ええい!止めるな!」
ガブレスは掴まれた腕を獣のように振り払おうとした。
だが、シュッターの手はまるで根が生えたかのように、びくともしない。
ガブレスの獣じみた筋力が、柳に風と受け流されているかのようだ。
「こいつは俺の従者だ!違うか!」
ガブレスは顔を真っ赤にして吼える。
彼の理屈では、自分の所有物をどう扱おうが、他人に口出しされる謂れはない。
シュッターは困ったように眉を下げた。
「うーん、そう言われましてもねえ…。この子、もう気を失いかけてますよ。これ以上やったら本当に死んでしまいます」
彼の視線の先では、少女が浅い呼吸を繰り返し、その瞳から光が失われかけていた。
「死ねばそれまでのことだろうが!弱者は死んで当然!」
「まあまあ。死んだら後片付けが面倒じゃないですか色々…。それにバーデル殿も本気で怒ってますし、みんな怖がってる」
シュッターは顎で、怒りのオーラを放ちながら歩み寄るバーデルと、周りで縮こまっている兵たちを示す。
「こんな大勢の目の前で、騎士団の三騎士が揉めるなんて良くないですよ。 俺は嫌だなあ、そういうの」
飄々としたシュッターの言葉は、まるで燃え盛る炎に水をかけるようだった。
ガブレスの怒りは収まらないが、その矛先は目の前のシュッターと背後のバーデルへと分散させられる。
バーデルは、ついにガブレスの数歩手前で足を止め、厳しい声で言い放った。
「シュッター卿の言う通りだ。騎士が見習いを鍛えるのは当然の務め。だが、それは指導であり、私刑ではない!貴様の行いは、騎士の名を汚すただの暴虐だ!」
「ふん、筆頭殿は言うことが違う!甘やかして育てたヒヨッコが戦場でどうなるか!知らんわけではあるまい!」
ガブレスはシュッターに腕を掴まれたまま、バーデルに牙を剥く。
三人の騎士が、一人の少女を挟んで睨み合う。
力で全てを支配しようとする黒騎士。
正義と秩序でそれを止めようとする白銀の騎士。
そして、ただ「面倒事」を避けたいがために、その両者の間に立つ影の薄い騎士。
ガルガネン王国最強の三人の、決して交わることのない価値観が、今、まさに激突しようとしていた。
練兵場の空気は張り詰め、誰かが僅かでも動けば、全てが破裂してしまいそうなほどの緊張感に満ちていた。
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