BAR〜caledonia〜

雨音亨

彼女とマダムと暗い未来

汗にまみれた身体が冷えて、目を覚ます。

乱れたシーツの中から抜け出し、シャワーを浴びて、床に散らばった衣服を身に着けた。

ジャケットのポケットに入れたスマホを確認すると彼女から連絡が入っていた。

一時間前に最初のメッセージ。

そこから20件の着信履歴が残っていた。

スマホはいつもサイレントにしてあるので、振動もなければ着信音もならない。

彼女からの連絡はいつも突然。

大方、今夜一緒にいるはずの相手にでも振られたのだろう。

短い髪を前から後ろに指で解いて、誰もいない部屋を後にした。

彼女が私を待っているのは、いつも同じBAR。

高層ビルが立ち並ぶ街並みの中、一際背の低い建物が集まる場所に、その店はある。

外観も内装にも派手さは無く、カウンターに席が5つ。小さなテーブル席が2つあるだけのこじんまりとした作り。

会員制などではないが、隠れ家的存在でいつも客はあまり多くない。

暗い路地を抜け、短い階段を降りた先にある深い茶色の重たい扉を開けると、小さくJAZZの調べが耳を撫でた。

「いらっしゃい」

カウンターの中でグラスを拭くマスターに挨拶代わりに軽く手を上げて、その目の前で机に突っ伏している女性に近づく。

「今夜一緒に寝る相手に振られたの?」

そう声をかけながら、彼女の隣の席に腰を降ろした。

「あ、シンディ、遅いーーーー」

すっかり出来上がった呂律の怪しい言葉を発しながら、彼女が顔を上げる。

長い金髪が僅かに乱れ、化粧も既にヨレヨレだ。

「付き合ってた彼はどうしたのよ。確かケインだっけ?」

「それは3人前の彼氏」

起こしかけた身体をまた机に預けて、空になったグラスをマスターに振る。

「マスター、おかわり」

注文しなくても出てくるようになったマティーニで唇を潤しながら、マスターに何杯目なのか目だけで問うと、6本の指が立った。

「ほら、これあげるからこっち飲みなさい」

オレンジジュースを注文して彼女の前に置く。

「あ、これも好き」

「知ってる」

しばらく無言のまま、オレンジジュースの入ったグラスが空になるのを見守った。

「美味しいよね、これ」

「そうね」

マティーニに添えられたオリーブをもて遊びながら応える。

「それで?今夜一緒にいるはずの最新の彼氏はどうしたのよ」

「年上女に取られた」

「この間も別の女に取られてたわね」

「前は幼なじみ、その前は会社の後輩、更に前は別の店の女」

「ライバルが選り取り見取りね」

「……私ってさ、そんなに魅力ないのかな……」

哀しげな呟きに、彼女の髪を撫でようと微かに動く手を抑える。

オリーブから目を離さずに、何気ない風を装って言葉を紡ぐ。

「あんたはいい女よ。誰よりもね」

空になったグラスを名残惜しそうに見つめていた瞳がこちらを見つめて笑む。

「シンディならそう言ってくれるって思ってた」

そう言って、もたれかかってくる頭を肩で受け止めた。

「まさか、その言葉を言わせる為に私を呼んだんじゃないでしょうね」

「ふふ、そうかも」

楽しそうに笑って、頬を肩に擦り寄せる。

「もう男なんて凝りごりだよ」

「じゃあ女にする?」

「うーん」

本気で考えているのか、しばらく沈黙が降りる。

「女と付き合うならシンディがいい」

その言葉にオリーブをつついて遊んでいた手が止まる。

「本気?」

「本気本気。なんか考えてみたら割といいかも。2人でさ、誰も知らない田舎の町に行って、私はファーストフードチェーンの店員をやって、シンディは……頭いいから、適当な会社で働いて、そして2人で小さな家で慎ましく暮らすの」

「前にも田舎で2人で暮らしたいとか言って、翌日には新しい男捕まえて3カ月連絡寄越さなかったのはどこの誰だったかしら?」

「えー。寂しかった?ごめんね。でも一番愛してるのはシンディだけだよ」

肩に寄りかかった頬がスリスリと甘えるように動く。

「全く。一生言ってなさい」

「ふふっ」

楽しそうな笑い声が急に力をなくす。

「シンディ……大好……」

肩に掛かった重みが増して、言葉が消えた。

JAZZの音色の中に、小さな寝息がアンサンブルを奏でる。

しばらくの間、無防備な寝顔を見つめ、肩に染み込んでくる彼女の体温を感じていた。

やがて彼女の身体が椅子からずり落ちそうになるのを片手で支え、マスターに声を掛けた。

「上の部屋、空いてる?」

「勿論。今日辺り来るかと思って掃除してあるわ」

野太い声が厚化粧の奥から響く。

「ほら、しっかり。立てる?」

マスターに礼を言ってから、彼女に声を掛けて立たせる。

「ぅー」

辛うじて立っているものの、起きる気配のない彼女を連れて、奥にある隠しエレベーターへと運び、そのまま上階へと移動する。

扉が開くといくつか部屋の入り口があり、その中の一つのドアの中へと入った。

ビジネスホテルと同様の作りなのは、昔は小さなホテルとして運用されていた名残だ。

清潔な室内の真ん中には大きめのベットが鎮座している。

「ほら、上着脱いで」

ベットの上に彼女を横たえ、靴を脱がした後、上着を引っ張っる。

うねうねと身体を動かす彼女に合わせて上着を剥ぎとると、近くのハンガーに掛けた。

「シンディ、大好き……」

寝言なのかモゴモゴと彼女の口から不明瞭な声が漏れる。

「はいはい、ありがとう」

そう言って背を向ける。

部屋を出る寸前に足を止め、部屋の中へと引き返すと、ベットに横たわる彼女の唇に自身の唇を重ねた。

寝ぼけた唇が曖昧に口づけに応えてくる。

深く何度か重ねてから、そっと唇を離した。

「ん……もっと……」

意識不明瞭なまま伸ばされる彼女の手にそっと指を絡めて「いつか、ね」優しくベットに戻した。

階下に戻ると客のいなくなった店内で、マスターが1人、片付けを始めていた。

「いつもありがとう」

カウンターに宿泊料金と口止め料を兼ねた輪ゴムで束ねた札を一塊置いて、そのまま店の出口へと向かう。と、背中からマスターの声が追いかけてきた。

「いつまでマダムの仔猫でいるつもなの?」

「……さぁ」

足を止めて、振り返らずに応える。

いつまでなんて、それはマダムの気まぐれ一つ。

「いくら私が隠しても、いずれあの子はマダムに見つかるわよ。そうしたら……」

二人とも無事では済まない。

そんな事は分かってる。

振り返ると、思ったより真剣な瞳がこちらを見つめていた。

「いつまでこんな事、続けるつもりなの?」

「彼女に会わない方がいいってのは、分かってるわ」

「そっちじゃなくて」

「え?」

「さっき言ったでしょ。いつまでマダムの仔猫でいるつもりなのって。彼女に飼われ続けて、貴女にはどんな未来があるっていうの」

「未来……」

シンディより前にマダムに可愛がられていたはずの人達が辿った末路。

「運が良ければ、部下の男共に提供された後、薬漬けにされて娼館に放り込まれるかな。運が悪ければ、即日、川に私の死体が浮くかもね」

肩を軽く上下させて、何でもない風に応える。

けれど、確かに見てきた現実。

14の時に父親の暴力から逃げ出し、マダムに拾われてから10年の間、ずっと見てきた。

裏切り者がどうなるか。

そして。

飽きられたペットがどうなるかも。

「分かってるのにどうして逃げ出さないの?」

マスターの言葉に唇の端が斜めに持ち上がる。

「逃げてどうするの?飼い犬たちに追われて犬の餌?それとも一生マダムから隠れてコソコソ生きていけっていうの?」

「日本にね、盛者必衰って言葉があるの知ってる?」

「ぎょうしゃ……何?」

「どんなに強い者もいつかは衰えるってこと。今はこの街に絶大な影響力を持つマダムも、いつかはその力を失う。マフィアなんて、ただでさえきな臭い世界なんだから、いつマダムが殺されたっておかしくない」

マダムの庇護がなくなる。

それは現状においてシンディの人生の終了を意味する。

「マダムがいなくなれば、ペットでしかない貴女に成す術はない」

「随分、はっきり言ってくれるじゃない……」

軽く睨みつけてはみるものの、マスターの表現は間違ってはいない。

シンディが、出会った日からゆっくりと躾けられたマダムの大切な愛玩物である事は、周知の事実であり、シンディの組織内における価値はそれだけだ。

「マダムにバレたら殺されるって分かっててあの子に会うのはどうして?」

マダムはシンディに執着している。

マダムの許可なしにシンディの指の先にでも触れようものなら、その場で射殺されてしまう程に。

そんなマダムが自分に隠れて、従順なはずのお気に入りのペットが、勝手に古い友人に会っているなんて事を知ったら、絶対に二人とも無事では済まない。

マダムの事だ。複数人に彼女を痛ぶらせ、そんな彼女を見て苦しむシンディを眺めて楽しむだろう。そしてきっと、彼女に見せつける様にシンディを抱き、壊れるまで犯す。

親しい友人がいた事に激怒した彼女からの仕置きがどの程度のものになるかは分からないが、想像しただけでも背筋が凍る。

恐らく、左肩の後ろに押されたマダムの名前の焼印くらいじゃ済まない事だけは確かだった。

「それは……」

分かっている。

彼女を守る為に自分の人生から切り離すべきなのは。

それでも、マダムに全てを染め変えられる前の自分を知る唯一の存在は彼女だけ。

彼女だけが、自分だった頃のシンディを覚えていて、今もそうであるように接してくれる。

そして……。

「彼女の事、好きなんでしょ」

「別に、そんなんじゃない」

声が動揺に半トーン上がってしまった事に軽く舌打ちする。

「もし逃げる気になったら、教えて」

「そんな未来は来ないわ」

「そうかしら。未来は未知数よ」

未知数。

そんな未来はない。

一生逃げ隠れする人生に彼女を巻き込む事なんて出来ない。

けれど1人で逃げれば、シンディの痕跡を追っていずれマダムは彼女を見つけてしまうに違いない。

結局、マダムから逃げる事も、彼女から離れる事も出来ずに、ズルズルとこのBARで時折会う関係を続けている。

「好きな相手に好きだと伝える事の難しさ、マスターなら分かるでしょ」

BARの扉を開き、言葉だけを残すと返事を待たずに扉を閉めた。

ビルとビルの間に月が薄く輝いている。

二階部分を見上げ、彼女の唇を思い出す。

「田舎暮らしなんて、貴女には耐えられないでしょ」

2人で暮らす未来など来ない。

来てはいけない。

自分に待つのは、悲惨な未来だけだ。

それでも。

彼女を連れて行く事も、置いていく事も出来ない以上、今の状態を続けるしかない。

彼女の存在を、マダムから完全に隠して。

「私も大好きよ、アンジェリカ」

小さくキスを投げ、背を向けて歩き出す。

大きな道路に出てしばらくそのままブラブラ歩いていると、1台の車が猛スピードで近づいてきた。

「どこ行ってた」

車のウィンドウが下りて、男の恫喝が響く。

「散歩」

「早く乗れ。マダムがお呼びだ」

後部座席から現れた別の男がドアを開いて、車内へと促した。

後部座席の真ん中で、左右を男たちに挟まれながら、足を組む。

男たちは両端に寄り、窮屈そうにその大きな身体を極力縮めていた。

シンディに触れていた事が知れれば命が危ういのだから当然だ。

「勝手に出歩くなと何度言ったら分かる」

「帰り道くらい分かるわよ」

「マダムにどやされるのは俺なんだぞ」

「知らないわよ、そんな事」

怒気を孕んだ男の声に涼やかな声で返す。

舌打ちが響く車内で、腕を組んだままフロントガラスから見える街並みを眺めた。

マダムに飽きられたら、この男達からどんな仕打ちを受けるかなんて、想像するより簡単。

ましてや、マスターが言った様に、マダムが殺されでもしたら……。

分かっている。

それでも。

遠ざかって行く小さなビルで眠る彼女に想いを馳せる。

身動きが取れない。心も身体も人生さえも、全てがままならなくて。

やがて車は組織の所有する屋敷へと到着した。

部屋へ連れ戻されると、マダムが椅子に座り、肘置きに肘を立てた状態の指先で自分の顎を軽く支え、シンディを待っていた。

微笑を讃えた口元と笑っていない目。

「遅かったわね」

声に籠もる怒りの片鱗に、先ほどシンディを恫喝していた男の身体が縮み上がる。

「まぁ、いいわ。下がりなさい」

軽く手を払われ、男は部屋の外へと出ていった。

「いらっしゃい、シンディ」

呼ばれるままにマダムの前まで行くと、そのまま頬を打たれた。

口の端が切れて血が流れる。

「今週は勝手に外出しない約束じゃなかったかしら」

「近所を散歩するだけだから大丈夫だと思……」

言い終わらない内に、反対の頬が打たれた。

「口ごたえしろと私が言った?」

「いいえ。ごめんなさい、マダム」

立ち上がるマダムに従いベットへ向かう。

「最近少し甘やかしすぎたのかしら?」

凍える程に冷たい声と共にマダムが振り返った。

全身から冷や汗が噴き出し始める。

怒りを讃えた瞳に射抜かれて、指先一つ動かせない。

マダムの爪が頬をそっと撫でた。

「躾け直してあげるわ、シンディ。たっぷりと、ね」

耳元で囁く声が、絶望の始まりを告げていた。



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