9-2 芽ぐむ疑惑
「―――彼女はどうしてる?」
「平和そのもので事件も何も無いよ」
「最後の影よ、嘘をつくときは今少し言葉を重ねる必要がある」
「うるさいな、その〝最後の〟ってやめてくれない?いちいち重いんだけど。早く報告書を持っていってくれるかな、僕は忙しいんだから」
黒いフードの下から鼻を覗かせた老爺はニヤリと笑みを浮かべる。同じ格好をしたカイは彼に巻手紙を手渡した。
建物の陰に隠れた2人からは街の喧騒からは遠く、だが誰かが近づけばすぐわかる場所に居る。
路地の先にあった色彩豊かな屋台の並びは、初めてこの国に訪れた時よりも多く並んでいる。黒の国はたしかに変わり始めているという証がそこにあった。
「この国も変わったものだな、お前たちが来たばかりの頃はこんなに賑やかではなかった」
「はいはい、長も監視してますよアピール?」
「そうでは無い。青の国に面していないとはいえ、主の愛娘がここにいるのだから観察くらいは頼まれる」
「よく言うよ、出奔さえ見逃していたくらい興味が無いくせに」
「昔はそうだっただろうが、今は違う。彼女の特異な気質を尊重した結果だ」
「物は言いようだね。寂しい思いをさせていたじだけじゃないか」
「分かっているだろう?あの一族は不器用なのだ」
「確かにそうだとは思うよ。僕たちを遠ざけていたのは、死を恐れていたのではなくて仕事をしづらくなったら困るだろうと思ってたんでしょ?」
「それこそ言い訳の一つだな、お前が言う通り主は死を恐れていた。彼の死はあの国を危機に陥れる……結果として民草を守るための畏怖だ」
「なぁんだ、僕は間違ってなかったんじゃないか。陛下にしてやられたよ」
「老獪なのだから仕方あるまい。だが、統べる者としての資格は持ちえている。主が抱えた愛は、広く国の民へ与えられるのだから」
「聖人君主ってこと?それが一番くだらない言い訳だよ、あんなに奥様と子供を抱えておいて」
「ふ……そう言うな。不器用なりに主は一族を愛していた。ただ、子供本人にとってそう見えなかっただけだ」
「人数が多すぎるからだよ。僕はたった一人でせいいっぱいだもの」
「まぁ、そうだな」
長は、一族の末裔を見つめた。
幼少期に才能を見出された彼は何も持たない子供だった。家族も、感情も、希望すらも。詳しい境遇は違えど、大切な何かを与えられないまま寂しく育った王女に惚れてしまい、一時期は役割が果たせないのではないかと危惧したが……それは杞憂であった。
本人は、愛おしい人の生死を握ることで欲を満たしている。危険と言えばそうだが、それは一族に入った時点で命運のようなものだ。
カイと王女の結びつきは一族のあり方を変えた。影の一族とて主に嫌厭されて笑顔でいられるほど冷酷ではない。
だが、王族も望んで得た訳ではなく自分の命を左右するモノを直視してはこなかった。
アイリスは自分の死を担う影を常にそばに置き、家族のように接した。姉妹に関係性を嗜められたがその時心底不思議そうな顔をしてこう言った。
『なぜカイを遠ざけねばならないのですか?私はとても幸せですわ、こんなに優秀なパートナーが出来たんですもの。お姉様も仲良くなさったらよろしいのに』
――と。果たしてこれを聞いたのは、何年前のことだったろうか
彼女は自分の死を目前においても恐れず、カイもその責務を忘れなかった。
そして、カイ自身にアイリスから離れるよう忠告した王に向かって『陛下はご自身の死が怖いの?アイリスより気が弱いんだね』と宣った。あの時の王の顔は、その影を務めていた長にとって……忘れられない物となっている。
その後気高い王族はぎこちなく自分の影と接しはじめ、今はその一族が姿を隠すこともなくなった。
表立って交流をすることはないが、助け合って支え合う立場に転じている。
影の一族は身体能力が高いだけではない。生まれ持った神聖力も稀で、基本的な能力が高い。王族と同じ日々を過ごせば環境に適した成長を遂げるくらいの吸収力があった。王族暗殺を生業と出来た、優秀な人魚なのだから。
アイリスがいうように、パートナー、補佐としてこれ以上分かり合える者などいないだろう。
影が与えられた仕事を放棄して仕舞えば、長きにわたり青の国を支配してきた海神の怒りに触れる。逃亡すれば必ず死ぬ運命にあり、禁忌を犯した王族を殺さなければ国が死ぬ。
海神によって命を支配されている立場なのは王族も影の一族も全く同じだった。
ふたつの氏族は国を守るためにあるのだ、とどちらも思い出したのだ。アイリスとカイの示した新しい関係性は、呪われた因習と確執を変えて行った。
「ふ……しかし、まさか地上でも暴れる気になるとは思わなかったぞ。訓練の時は何もかも面倒がっていた子が、こんな風に暗躍するとは」
「本当にうるさいよ。主が人魚の秘密を漏らさないようにしてるだけだ」
「愛おしむ主人を無くさないように、だろう?その考え方は一族にはなかったものだ。……お前のお陰で我々は存在価値を持ったしな」
「存在価値は元からあるさ。海神の血を引く者を殺すなんて、僕ら以外にできないでしょう?あの国では始祖がいつまでも全てを護っているんだから」
「うむ。それ故に我らへの誘惑が多い……そもそも、金をいくら積まれても故国を他に渡す気なぞないが」
「そうだね、僕たちはあそこでしか生きてはいけないから平和な方がいいよ」
「……一生陸で過ごせるのなら、お前は主を祝福してやれるのか?」
「無理に決まっているでしょう。僕はアイリスが欲しいんだから」
「そうか。では、良い結果になるよう祈っておこう」
「海神に頼むなら、恩恵はなさそうだからやめてくれる?」
「は、確かにな」
闇に溶けた長を見送り、カイは外套のフードを外した。アギアのマスクを巻き、顔を隠して路地を足早に歩く。
ふと気づくと、背後に人が居た。背の小さい男は小さな紙切れをすれ違いざまにカイのフードに入れ、次の角で消えていく。
もう一度フードを被った彼は紙切れを手にし、開いた。
「ふぅん……四公国に火種が置かれたか。さすがに動きが早いね、白の国は。さて、これが上手く炊かれるといいけど」
紙に触れた指先は、インクの文字を消し去った。カイの持つ記憶を操作する神聖力を無機物まで及ぼせるようになったのは、アイリスに出会ってからだ。そして、彼女の今後を動かすために彼はこれから一世一代の勝負をすることになる。
それは、アイリスよりも多難で苦労をしなければならないことに間違いはなかった。
━━━━━━
「ねぇ、そろそろ交代の時間じゃないの?」
「あぁ、そうだな……ゆこう」
カイに声をかけられたテオーリアは椅子から立ち上がり、休憩室のドアを開ける。2人は連れ立って石のしかれた廊下を歩いた。
「アイリスは元老院との面会を済ませて中庭にいるそうだ」
「知ってるよ」
「カイは何故、報告を聞かずともいつもアイリスの居場所がわかる?」
「従者の勘」
「そんなわけがないだろう。ごくたまに探し回っている」
「あはは、そうだね。じゃあこう言おうか……10年以上寝食を共にした、アイリスが大好きな従者の経験則だよ」
「…………」
思わず足を止めたテオーリアは、苦しげな顔をしている。それを背中で感じたカイは立ち止まり、自分の知らない世界を生きてきた赤の国の王弟に振り返った。
温かい家族に育てられて、愛を最初から知っていた同僚を。
彼はテティスの事件から以降、アイリスに恋している。黒の国に来る前は神聖力の暴走を起こしていたが、新たな力の使い途を見出されて力のコントロールを得た。
それは、アイリスのおかげだった。
「カイはアイリスが本当に好きなのか?」
「好きだよ、アイリスにもちゃんとそう伝えてきたつもりだけど」
「だが……」
彼が生み出した沈黙は、怪訝な目つきと共にカイに突き出される。「あぁ、なるほどな……」と呟いた彼をさらに鋭い目線で貫いた。
素直で、愚直な赤の国の王弟。彼はまっすぐに育って人として欠けたものは何一つない。ただ、きっかけが足りただけでこうして自分の両足で立てるほどに人として成り立っている。
彼を立ち上がらせたのはアイリスで、他の者にはできなかった。テティスでの出来事は一生を左右するものだった。
だからカイの秘密を知ったのだ。失態に気づいた本人は何食わぬ表情を貫き、疑惑の眼差しを受け止める。
自分と同じようにアイリスに救われ、同じように彼女を求めながらも決して手に入れようとしない男を眺め、不思議な気持ちが湧いた。
テオーリアは本気で彼女を守りたいと思っているが、本気で手に入れようとはしていない。キスやハグをしたいと思うことはあってもそれを表すことも無い。そして、アイリスに愛を囁いていても見返りを求めたりしない。
アイリスが幸せであれば、何もかもを許容している。
同じ気持ちを抱えているはずなのに、テオーリアとカイはまるで違う道を歩いていた。カイにとってはそれがとてもとても、不可思議なものに見えた。何をしてもアイリスを手に入れたいと思い続ける彼にとっては、テオーリアこそが聖人のように見える。
どうやってこの『ドロドロした気持ち』を『綺麗なもの』に変換しているのだろうか。泡のように浮かんだ疑問は彼自身によって握りつぶされる。聞いたところでなんの参考にも改善にも繋がらないからだ。
「テオーリア、はっきり言いなよ。早くアイリスのところに行きたいんだけど」
「……カイは、アイリスの敵なのか味方なのか――それだけ聞かせて欲しい」
「さて、どうだと思う?」
「先ほどはアイリスを好いていると言っただろう」
「テオーリア・ロゴス……赤の国の王弟である君は本当にまっすぐだ、愚かなほどに。
人の世の穢れを知らず、愛憎を知らずに生きてきた」
「……」
「僕は確かにアイリスを愛してる。この世界の誰よりも早くから彼女のそばにいた。
寂しさも、悲しさも、憎しみも、愛しさも……全てアイリスがくれたんだ。彼女は僕のすべてだよ」
「…………そう、か……」
二人はそれだけの言葉を交わすと、中庭でゾーイと語らうアイリスの元へ向かう。すぐそばの建物からこっそり彼女を眺めていたアステルを横目に、警護にあたっていたリュイと交代した。
「アイリス、そろそろ休憩したら?」
「カイ!あら、テオもきたの?」
「……あぁ」
「あーもう、その服で地面に座り込むのはやめてって言ったのに」
「ごめんなさい、ここに珍しい薬草があったからゾーイと二人で採取してたの」
「そうなの?毎日来ていた中庭なのに今まで気づかなかったんだね」
「ワシらだってそうそう毎日ここに来てたわけじゃわないよぉ〜。最近他の国から人が来たから、種が渡って来たんじゃない?」
「ゾーイが言うならそうかもね?でも僕は……今まで隠れてたんじゃないのかなって思うけど」
「そうなの?どうして?」
ゾーイの問いかけには答えず、カイは立ち上がったアイリスのスカートの裾をたたき、手を握ってくるりとターンさせる。
不思議そうな顔をしていた彼女を自分に引き寄せて、抱きしめた。
柔らかな彼女の感触に胸がずきりと痛み、彼は瞑目する。
「カイ……どうしたの?何かありましたか?」
「うぅん、何にもない」
「そう?ほんとうに?」
「うん」
アイリスはカイの背中に手を回し、彼を抱きしめ返す。ゾーイは『やれやれ』と言いつつも止めずに、書きかけのメモに視線を戻す。アイリスも突然抱きしめられたのにも関わらず拒否はしない。
その様子を見てしかめ面をしているのは、アステルとテオーリアだけだ。だが、カイは何の疑問も抱かず手の中に収まって柔らかに笑みを浮かべる彼女を見つめ、愛おしい気持ちを噛み締めた。二人の男の視線を感じつつ、ほくそ笑みながら。
(――これくらいさせてもらわないと。僕の方が好きになった歴は長いんだからね。恋の新人たちはこんなふうにアイリスを抱き寄せたら大変なことになるんだって……今はまだ、この場所は僕だけのものだって思い知ってもらわなきゃ)
静かで意味のない抱擁は、やがて暗い影を背負ったアステルに止められるまで続いたのだった。
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