8-4 真昼の証明

 温かい紅茶を口にして、アイリスはそっとカップをテーブルに置く。豪奢な椅子に腰掛けたアステルはゆったりと背を預け、目を閉じてアイリスの言葉を待っていた。


 密かに嘆息したアイリスは、もう直ぐ別れることになるだろう最推しの姿を一心に見つめている。

 文体描写ではわからなかった繊細な作りの貌は、瞼を閉じている姿もまた美しい。長いまつ毛は目尻に向かって流れ、開いた時に奥二重に隠される揃った毛は頬に影を落とすほど長く、光の中では儚さを強調している。


 整った鼻筋と薄い唇には少年らしさが残るが、始まりが細く眉山が太い眉は凛々しい男性の印象を与える。


 少年のように純粋で儚く、強く、美しい……それは、アイリスの頭の中にあった彼の像とは変わらないものの、言葉にならないほどの美しさだった。




「……どこから、話せばいいのか……」


 ポツリとこぼされたアイリスの言葉はいつもよりか細く、小さい。静かに目を開いたアステルは彼女とまっすぐに目を合わせた。


「まずはそうだな……身の回りの人やこの世界について、過去や未来をどの程度知っている?」

「ほとんど、と申し上げます。私はアステル様がお亡くなりになるまでは、予知しておりますので」


「なるほど、じゃあオレがやってきた事も知ってるんだな?」

「はい」

 

「パナシアのためとはいえ、盗みをした事もある」

「はい。ですが、あなたは後から店主にお金を返してらっしゃいました。お城に上がってから全ての方へ謝罪をし、返済しきっています」


「……そこまで知ってるのか……」

「はい……」




 二人は互いに苦笑し、同時にため息を落とした。アイリスはドアの向こうで聞き耳を立てている人がいる以上、ここがゲームの中だという話を避けることにした。

 自分がもし『誰かに作られた虚構の中に生きる存在』だと知ってしまったら……それは、過去カイに話した時に経験している。

本人は『誇張された妄想』と結論づけたようだが、それを訂正する気にはならないほど……彼は動揺していた。


 アステルにそんな事情を知らせる必要があるのかどうかはまだ、わからない。前世での邂逅を疑問に思われれば説明が必要になるかもしれないが……アイリスは、一旦様子見をすることにした。 



「オレが死ぬのはどういう経緯だ?」

原初の龍ビギニングス慰霊祭の後、国内で戦争が起こります。火種は黒の国の聖堂で聞いた『大きな街と小さな村の争い』ですわ」

「火は、広がるか」


「ええ。同じような問題を抱えて貧困にあえぐ街だらけですわ、黒の国は。

 そして……おそらくですが、小さな村は勝利の後に大きな街を支配しようとするでしょう。

 熾火を鎮火しても、再び火をつけてしまうのが人ですから」


「そうだな。各地で争いが起きて、それが白の国とどう繋がるんだ?」

「赤の泉が力を失えば、星隔帯が崩壊いたします」

「略奪が始まるか?」


「はい。それから『白の国に聖女を差し出すように』と報せが参ります。そして、パナシア様の代わりにアステル様が白の国に行き、皇帝に刃を向けて……」

 

「なるほど、それで白の国の聖堂で殺されるのか。結局、オレは目的を成し遂げたのか?」


「………………おそらくは。白の国の皇帝の心臓を突き刺したのは間違いありません。治癒を施せる人はパナシア様の他にはいらっしゃいませんが、カイ・アリ・テオ・リュイが黒の国でお守りしていたはずです」

「その先はまだ見ていないのか?」


「はい」

「オレが死んだ先を見たくない、と思ったとか?」

 

「…………」




 アイリスは気まずそうに目を逸らし、アステルは頬と耳を赤く染める。それは、彼女の想いの深さを知らせているようなものだから。

アステルは、胸の奥を満たして揺れる暖かさの温度が上がった気がした。


「話を戻すぞ。オレは後々金を返したとしても、人から物を奪った輩だ。過去を知っているなら登城してからの諍いも知ってるんだろう?」 

「はい。力を力でねじ伏せていらっしゃいました。時には利用し、騙し、国王までも操作されてましたね」


「……何故なんだ」

「え?」


「前も聞いたが、アイリスは何故オレを想ってくれる?何がそうさせている?

 許されない行いをしていたアステルを」

 

 彼は自分のしてきたことを正しく認識している。軍内部でのしあがるために汚い事もした。同僚を利用して使い捨てた事もある。

 貧困の最中に街で盗んだパンは、その日の稼ぎを店から奪っていた。


 一度やってしまった事は無くならない。それは、軍内部で嫌厭されていた彼にとって厳然たる自業自得だったのだ。




「オレは、アイリスの同僚のように『国を救う』とか綺麗な事情はない。ただ、パナシアを守るために利己的な行いばかりしてきた」 

「アステル様は私欲でそうされたのではありません」


「だとしても、オレの行いによって困った人は間違いなく存在する。後から精算なんてできやしないような事もした。

 戦場で見捨てた仲間もいる」

「生きるために手段を選ばない事は、心を曇らせるものではありません」


「…………」

 

「あなたの抱える闇の中の正義は、心の中に掲げたただ一つの信念は、何があっても変わりませんでした。

 あなたは『妹の幸せ』を願っておられたのです。……それを、私は綺麗だと思うのです」

「そうだろうか、自己評価ではとんだクズだぞ」


「おやめください。それは私への侮辱です。……私も悪事を行って参りました。前世でも、今世でも人を殺めています」

「前世でも、か。今世では軍人だから当然とは思うが」


「軍人が人を殺すのに『大義名分』はございます。ですが、前世……アイリス・セレスティアルになる前に、この手は血に染まっておりました」

「それは、どういう?」




 アイリスは瞼を閉じ、天を仰ぐ。それは毎朝してきた祈りと同じ思いを抱えていた。

 許しを乞うのではなく、自分を罰して欲しい……そう、前世からずっと祈ってきたのだ。




 ――彼女は生まれすぐ、当時の戦禍に巻き込まれた。成長とともに世界は激しく争い、空から降る焼夷弾で人々の住まいは燃え、たくさんの人が死に、生きる世界は黒に染まり続けた。

 食料の配給は、子供を複数抱えていれば到底足りるはずもない。母は毎日水を飲んで空腹を凌ぎ、子供に食べ物を与え続けてあっという間に骨と皮になった。

父は駆り出された戦争の最中に亡くなり、戻ってこない。7人いた兄弟姉妹で身を寄せ合って生き抜いたが、成人を迎える前に下の子を生かすため……上の子たちは人身御供となっている。



 

 何も持たない子らは、様々な意味で自分を売るしかない。そして、戦争で人の数が減った世の中は……金を持つ人間は人を金で買う。〝身寄りのない少年少女を救う〟といえば聞こえがいいものの、あれは間違いなく人身売買だった。


 乱れ切った世で生き残るために、目の見えない彼女はいつ切り捨てられてもおかしくはなかった。けれど、兄姉は末子の彼女を守り続けた。

奉公先でどんなに理不尽な目に遭っても、自分自身を汚されたとしても。


 守られ続ける自分に絶望しながらも、前世で『生きなければならない』と思っていたのはそれが理由だった。

だからこそ、彼女は祈りつづけた。生きる事こそが罪だったから。それを赦されてはいけないと思っていた。




 ――自分を守った兄が、不貞の輩に殴り殺された時も。自分のために体を使い続けた姉が病に伏して、そして苦しみながら亡くなった時も。

 知らない人たちに蹂躙された人生は、近代になるにつれて穏やかになっていった。だが、彼女にとっては生まれてから続く地獄は何一つとして変わらなかった。罪の数が増えた、それだけを除いて。





「世の中が落ち着くまでは、アステル様と同じく飢えた子供で徒党を組み、強盗の真似事をしました。失敗すれば逃げ遅れた子供を見捨てました」

 

「…………そうか」


「直接この手で刃を振るわずとも、それは私が殺したも同然です。ですが、兄や姉が守ってくれた命を捨てることだけはできなかったのです。

 自宅の相続の際も小狡い手を使い、身内に財産放棄を促して自分の生活だけを守りました」


「相続……と言うのは?」

「家業を継ぐ事です。この国での爵位を受け継ぐようなものですわ。私は前世で、聖職者のようなことをしていました。〝神社〟の管理人です」


「ジンジャ、と言うのは?」

「聖堂と同じく崇拝対象をお祀りする施設ですわ。前世では『神様』をお守りしていました」

 

「それはアイリスしか守れなかったのか?」

「いいえ。正しい手順を踏めば専門の組織がございますから、そこから管理人を呼べます。神様をお守りすることは、資格があればどなたでも可能ですわ」



 

「ふむ、ジンジャで原初の龍ビギニングスのような神を戴いていた、と」

「はい。ドラゴンと同じ種族とでも申しましょうか。彼の方たちは国が変わって、名前が変わってもその存在は変わりません」 


「それに仕える神子ならば、龍が前世からアイリスを守っているのならば……君の清らかさは証明できるのではないか?」

「いいえ、前世の神様はとても寛容ですわ。多少は目を瞑ってくださるでしょう。あの国は食物にも、おトイレにも神様がいらっしゃるんですから」


「それは……すごいな」

「そうですね、神々が住まう国と言われておりました。

 歴史書にも記されておりましたが、神もまた人のようにいろんな側面をお持ちでいらっしゃいます。

 ですが、一つ違うのはどこまでも広い心をお持ちという事です」




 アステルは足と腕を組み、思い悩んでいる。難しい顔をして数回頷いた後、アイリスの手を握った。


「オレたちは同じだったのかもしれない。アイリスは戦禍の最中で、オレは貧困の中だから比べてはいけないかもしれないけどな。

過去の話を聞いても、出会ってから今までの君を見ていたら印象は変わらないよ」

「…………」


「悪事の事実は覆らない。それなら、これからいい事をしていくしかない……昔を悔やんで歩みを止めても、未来はやってくる」

「は、い」


「夜明けのない朝はない、そう言っていただろう?テオーリアに」

「はい。でも、それはアステル様がおっしゃっていたのです」



 アイリスは瞳の中に熱が生まれるのを感じた。彼の言葉を信念にしてきたのだから、口から勝手に出てしまったのだ。

 前世で珠玉の言霊を語ったアステルの声色が耳の奥に甦り、涙が溢れる。





「オレはアイリスを尊敬している。出会ってからずっと、君は一貫して色んなことをやってきただろう?オレを生かすために」

「…………」

 

「オレも同じだ、パナシアを生かすために色んなことをした。それを全て知っていてもアイリスはオレを想ってくれている。

 じゃあ、それは君への『特大ブーメラン』ではないのか?」


「あはっ……アステル様が、そう仰るのは」

だろ?それでもいい、オレたちは人を想ってやってきた。君は特にその中でも綺麗なことをしている。

 救ったのはオレ一人じゃなかっただろ」


「それは結果であって、極論ですわ。アステル様だって、見捨てた隊員の方が逃亡できるようにしておりましたでしょう。他のことに関しても同じです。

 厳しい態度を取られていたのは、危ないお仕事に巻き込まないためです。それから……」

 

「ん゛っん……なぁ、お互いその辺にしよう。ゾーイの眉間にペンが挟めそうだ」




 沈黙を貫いているゾーイは離れた場所にあるソファーに座って、渋い顔をしている。アステルへの視線に『イチャついてないでさっさと話を進めて』と言う気持ちがこもっていた。

 厳しい目線に苦笑いで返し、アステルはそうっとアイリスの手を撫でる。アカギレがたくさんできて、爪が割れて。王室で暮らしてきた彼女がするはずもなかった苦労を思い、乾燥した手の甲に口付けた。



「正義は一つではなく、誰かの涙の上になりたつものもあるだろう。血の海に沈む時もあるだろう……それでも芯の色が変わらないのなら、意味は変わらないんだ」

 

「本当に、そう思われますか?私は、」


「〝アイリスが正義を証明する必要なんかない〟。いや……すでに証明しているだろう?この国だけでなくここに集まった五公国の後継を救おうとしているんだから」

 

「……」


 


 カイはそもそも後継ではないけれど。リュイ、テオーリア、アリストもまだ道半ばだ。けれど、今までの人生を肯定されるその言葉を。前世を支えてくれたアステルの声を直接聞くことができた今、アイリスは泣くしかなくなってしまった。


 アステルがくれる言葉たちは、『赦し』を得るためのものではない。苦難に満ちた現実を受け止め、自身の罪を自覚した上で『自分の掲げた正義を貫け』『そばにいるから、一緒に新しい光に向かおう』と言っているから響く。

 

 単純な慰めや救いの言葉ではなく、彼は逃げずに全てを受け止めて、手を添えてくれる人。だからこそ……アイリスは惚れたのだ。


 どんなに辛いことも受け止め、自分の命さえも捧げてただ一人を守り抜いたアステルは、彼女の生きる指針であり、目標だった。何があってもぶれない軌道は、前世の曲がりくねった道を明るく照らしてくれたのだ。

 今、窓から差し込む強く暖かい真昼の光のように。それを思うと、たまらなかった。

 



「なぁ、そんなに泣かないでくれ……オレ、変なこと言ったか?」

「いいえ」

 

「それならいいけど……もしかして、これも前世で聞いたか?」


「はい、はい……そうです。私があなたに支えていただいたのは前世からなのです。

 ですから、あなたの様に誰かのために生きてみたかった。誰かの役に立ちたかった。その、誰かはアステル様以外にあり得ませんでした」


 ほろほろと泣き続けるアイリスを見て、アステルはゾーイに視線を送る。彼は仕方ないと言うふうに両手で目を塞ぎ、頷いた。




 転がる真珠たちを避けて歩み、アステルはアイリスの横に腰掛ける。肩に手を回し、彼女の頭を自分の肩に引き寄せて目を閉じる。

 手を握り直し、寄り添うと彼女の温もりが体の芯まで沁みてくる。



 呼吸もその温度に染まり、アステルは長い時を超えてここにいる彼女を『奇跡』だと感じていた。

 今そばにいられる現実は、アイリスが引き寄せたものだ。そして、前世でどのようにして出会っていたのかは聞かずともいいと思える。彼女の役に立てていた事が、過去の罪の意識を綺麗なものに変えてくれる。前を向く力をくれる。

 

 消えることのない確かなものは、未来へ向かうための鍵として生まれ変わった。


(パナシアを守りたいと言う気持ちは変わらない。けれど、これからを生きていくのは、彼女のためにしたい。彼女がそう思ってくれたように)




 二人は光の中で身を寄せ合い、雫を重ねた。



  




 

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