4-3 星隔帯へ
「これが星隔帯ですのね!光が屈折して、虹色に見えるのかしら。
透明のシフォン生地……いえ、オーガンジーのようですわ!本当に音を吸収するのね、風の囁きがありませんもの!」
「アイリス……お前元気だな」
早朝の霧が立ち込め、あたり一面は白く染まっている。森を抜け、若草の草原を越えてアギア達は星隔帯へ辿り着いた。
草原に入ってから目覚め始めた鳥達の鳴き声が聞こえていたものの、星隔帯へ近づくにつれて聞こえなくなった。風の音も、自分たちの足音も、息づかいでさえも。
近距離に固まって動かなければお互いの声すら聞こえないため、全員が一塊になって馬を進める。
人を長時間乗せて走った馬達は、疲労困憊で汗をかいてしまっている。人間達も同じく疲弊し、アイリスに声をかけたアリ以外は口を開くのも億劫そうだ。場慣れしているはずの老兵達も、喉が渇いて咳き込んでいた。
「私、イルカに乗るのは得意ですのよ」
「何だそりゃ?海中の馬みたいなもんか」
「ええ。カイはイルカも馬も苦手なので、黒の国に来る時は苦労しましたが。最初から私が騎手をした方が良かったわね」
「うるさいな、ちょっと静かにしてくれる?アイリスのせいで酷い馬酔いなんだ」
「まぁあんだけかっ飛ばせばそうなるよな、ピンピンしてるのは隊長とアイリスだけだ」
「ふふん!褒めていただけて嬉しいです!
でも、アステル様は本当に凄いですわ。聖女様は全然起きませんでした。どうやってあんなふうに衝撃を与えずに走れるのかしら」
「確かに、隊長は凄腕みたいだな。俺もあんな芸当は無理だ」
騎馬に乗ったまま、緩やかに歩測を整えて彼らは先頭を走っていたアステルの後ろに並ぶ。驚いたことに、彼は聖女を馬車ではなく自分の腕に抱えて馬を走らせていたのだ。
足と骨盤の動きで自分の体を緩衝材にし、揺れによって彼女を眠りから起こすこともなくここまで辿り着いていた。
頑丈な彼も馬も息をほとんど乱していない。長時間の早駆けは乗り手の体力も消耗するが、恐ろしいスピードで駆け抜けた張本人は涼しい顔をしている。
「馬はここまでだ。しばし休もう」
「このまま研究室までは行かれないので?」
「あぁ、アイツらは朝に弱い。こんな早くに押しかけたら文句を聞くだけで日が暮れる」
「そいつぁごめんですな。焚き火を焚いて暖まりましょう」
「あぁ、頼む。目が覚めるような派手な火を焚いてやろう」
「はい!おーい、新人達は薪を集めて来い!」
ははは、と軽快な笑い声が聞こえる。早駆けを終えたアステルは少々興奮しているようだ。頬を赤く染めて冗談混じりで笑っていた。
「隊長って笑うんだな」
「アリは失礼じゃありませんか?アステル様も歴とした人間ですわ」
「あの早駆けは人間業ではないと思うが」
「確かに、恐ろしいスピードでした。馬を潰すつもりかと」
「テオには賛成ですが、リュイ……アステル様はそんな事されませんわ。彼の方は、」
「アイリス!」
「ひゃっ!?ハイ!!」
仲間と薪拾いに向かおうとしていたアイリスを呼び止め、アステルが手招している。聖女の世話を任せるようだ。
「パナシアを、日が昇るまで抱えてやってくれ」
「はい!」
「毛布を巻いて……いや、お前も包まっていろ。ここの霧は体温を奪うから」
「ひゃい……」
老兵と共に地図を広げて会話をしているアステルを眺め、アイリスは戸惑って固まっている。草原の中に座り込み、聖女と共に毛布にくるまって呆然としていた。
腕の中におさまった聖女、パナシアは瞼を閉じたままスヤスヤと眠ったままだ。アイリスは、毛布を巻き付けた体ごと彼女を抱きしめて浮かぶ笑みを抑えられなくなる。
「こんなふうに最推しの愛する方をお任せいただける日が来るなんて……幸せだわ」と小さく呟き満ち足りた気持ちで空を見上げた。
明け始めた空は青白く、空気は霧のせいで湿っているが王都よりも清々しい木々の香りに満ちていた。まるでレースカーテンのように日差しを浴びて光を返し、その度に輝く物質――『星隔帯』をアイリスは初めて間近で目にしていた。
それは前世でいうオーロラのようで、昼は薄衣のように儚くたなびく。夜は水面に満ちる月光のように深く輝き一日中ほの明るく光を放つ。
透明な膜は黎明とともにゆっくりと空に移ろい、まるで呼吸をしているかのようだった。
「この壁の向こうに、5色公国以外の国が本当にあるのね」
こうして目の当たりにしても、まだ信じられない。少し手を伸ばせば触れられる場所に、ゲームの中で物語の中核となっていた
設定通り、隔壁は確かに向こう側の世界を見せてはくれない。
ほとんど透明なのにどういう原理なのだろう?どうにか何か見えないものか……とアイリスが角度を変えて見ても全く何も可視化されなかった。
「世界はどうして、五国を隔離したのかしら」
――とひとりごちた彼女は唇を噛む。解消される事のない不安が、生まれてこのかたずっと胸の中にある。このジレンマは今後どんな展開を迎えても無くなることはないだろう。
――そう、彼女はこの5色公国が舞台となった乙女ゲームを……最後まで攻略していないのだ
ネットゲームという性質上、人気が続く限りメインストーリーは終わらない。通常主要人物は死なず、イベントやifストーリーが重ねられていく。
しかしアステルは物語の途中で殺され、多くのファンが離れた。
彼は間違いなく主要な攻略キャラとして人気があり、主人公と結ばれてもおかしくはなかったはずなのに。
アイリスはその後『アステルが救われる』というストーリーが追加になると聞き、プレイヤーに復帰していた。ウキウキしていたところに自分の死が先に訪れてしまったのだ。
星隔帯を睨みつけ、彼女は腕の中にいる最愛の人の最愛をそっと抱きしめる。
「何が起きても、私がお二人を守ってみせます。大丈夫、覚えていることを一つ一つ変えていけばいいの。
アステル様を、絶対に死なせない」
彼女のつぶやきは星隔帯の特性によって、音を吸われた誰にも聞こえないはずだった。一番近くで目を瞑っている、聖女パナシア以外には。
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「では、突然ひび割れたと?」
「はい、アステル殿。私たちが観測している目の前で『パキパキ』と音を立てて星隔帯がひび割れましたなぁ」
「作為的な物ではないのか?以前のように誰かが壊した、とか」
「いいえぇ、本当にどなたにも影響を受けていません。ここ、300年の間にはなかった筈ですよぉ」
「記録上では聖女様の〝神聖力〟があれば、星隔帯は自らを回復します。
今代の聖女様は力が低いから足りないのでしょうな。過去にもこの事例はありました。記録ではちょうど500年前ですねぇ」
「…………」
無表情のまま、問いに淡々と答えていた研究者。彼はアステルの逆鱗に触れたことに気づいていない。
アイリスの隣で慣れない草地を危うげな足取りで歩くパナシアは、その言葉に俯いた。
「『現聖女が歴代と比べて劣っている』という噂はお前たちが広めたのか?」
「いいえ、ただし国境から一時期故郷に帰った研究員から漏れたかもしれませんねぇ?」
「…………そのような、」
「アステル様、これは事実として起きた事件に於いて曲げられない真実ですよ。何百年も積み重ねられてきた研究書を学んだ私たちが出した結論ですねぇ」
「だとして、民心を惑わすような発言はやめろ。お陰でこちらは身辺警護にしょっちゅう命を賭さねばならない」
「あぁ、なるほど」と呟いた彼は大きな声でケタケタと笑い出した。
ほおまでかかった丸い大きなメガネ、それを支える魔女のように大きな鷲鼻まで前髪がある。眉毛も髭も顔の輪郭を隠している研究員は、誰の目も見ていない。
「現代の聖女が死んでは困りますし『その話はするな』と言っておきます。でなければ星隔帯が壊れてしまいますからねぇ」
「……そう願いたい物だ」
「人の世から離れて久しいのでね、ワシはねぇ、はっきり言わなきゃ通じませんよぉ?星隔帯の研究に没頭している者は皆、狂っておりますから!えぇ、えぇ、ワシももちろんそうですが。ハハハハ!!」
星隔帯研究者は、各国からの有志がなるものだ。仕事には果てがなく、何百年経ってもほとんど何も解明されない星隔帯を相手に。
そして誰かから認められ、褒められることもない研究。国から支給される賃金は少ない。そんな物に身をやつしているというのは確かに狂気じみている。
目の前にいる聖女を蔑み、彼女と共に育った肉親にも等しいアステルを目の前にしても言葉を選ばない様は、皆が顔を顰めるような醜悪さだった。
「さあさぁ、前置きはこの辺りでいいでしょう。聖女様に星隔帯を治していただかなければなりませんからねぇ?」
研究者は足早に星隔帯に沿って歩き出し、アギアと聖女はおし黙ったままそれに続く。やがて草原の一部が若草色を失い茶色く焼けたようになった土地が見えてくる。
「あそこにヒビがある。ワシらは近づけないから後は頼みますよぉ、聖女様」
「……はい」
パナシアはぎこちなく礼をとり、嫌味な笑いを浮かべて去っていく研究者を見送った。アステルと老兵たちは大きなフードの端についたボタンでマスクの上からさらに覆いを作る。
「草が枯れているから、星隔帯の向こうから毒の空気が入り込んでいるのだろう。お前たちが身につけたアギアのお仕着せは、ガスマスクにもなる」
「そりゃ便利なこって。まるでこうなることを予見して与えられたみたいだな。新入隊員で、得体の知れない俺達にもこんな装備を渡すなんておかしいと思ったぜ」
「星隔帯の向こうの毒に、龍の革は効くのですか?」
アリの揶揄とリュイの質問に、アステルは目を細めて意味深な笑いを送る。そこにはゾッとするような冷たさが含まれていた。
「この装備の生地は原初の龍と言われる『ビギニングス』だ。あれは聖女のために働くとされる。馬車の中でパナシアと仲良くなったお前達にも祝福があるのか試すとしよう」
彼の冷たい言葉にパナシアが頷き、握り拳を作った。
「私が想えば、アギアのお洋服は本領発揮できるのです。お任せください!」
互いに怪訝な顔を見合わせた隊員達は先輩を見習い、フードをマスクに重ねて忌まわしい一角へと近づくのだった。
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