第4話 言葉なき顔

 夕焼けの色を見たとき、泣きそうになる自分に気づいた。


 理由はなかった。ただ、あまりに朱が濃くて、空が泣いているように見えたからだ。

 そんなふうに感じたのは、いつぶりだっただろう。あるいは、生まれてはじめてだったかもしれない。


 泣く、という行為を、僕は長いあいだしていなかった。

 最後に泣いたのがいつか、思い出せない。映画でも、失恋でも、親の葬儀ですら、涙は出なかった。

 代わりに、頭が働いてしまう。「今、自分はどう振る舞うべきか」を計算する。

 それが“大人”だと信じていた。


 沙耶からの返信はなかった。既読はついたままだった。

 LINEのスタンプがひとつ、送ったままで止まっている。

 それを指先でタップし、メッセージ履歴を見返す。それだけのことを、何度も繰り返してしまう。


 ──結局、何も伝えていなかったのだ。


 好意も、不安も、怒りも、寂しさも。

 相手に負担をかけたくないと思っていた。でも、それはただ、自分が傷つきたくなかっただけかもしれない。


 


 週末、岩淵の墓へ向かった。

 郊外の斜面に立つ小さな霊園。電車を乗り継ぎ、駅からバスで十分ほどの場所にそれはあった。

 静かだった。枯れ葉の舞う音と、自分の足音だけが聞こえた。


 墓の前で手を合わせながら、何を祈ればいいのかわからなかった。

 「ごめん」と言うには軽すぎた。

 「ありがとう」と言うには何もしていない。

 結局、また無言で、手を合わせただけだった。


 後ろから声がした。


「……来てくださって、ありがとうございます」


 振り返ると、夏実がいた。黒のカーディガンに身を包み、手には小さな菓子箱を抱えていた。

 頭を下げる姿が、かすかに震えていた。


「兄は……ほんとうに、堀江さんのこと、最後まで話してました」

「自分では届かない言葉を、堀江さんなら届けられると思ってたみたいです」


 僕は黙って聞いていた。

 風が一瞬止み、遠くで鳥の声がした。


「でも、もう……そういうの、意味ないですね」


 夏実の声は乾いていた。感情があるのに、表に出さない声。

 僕と同じ声の出し方だった。


 


 駅までの道すがら、彼女が言った。


「兄は、たぶん、恨んでたんじゃないと思います。ただ……堀江さんから、何も返ってこなかったことが、寂しかったんだと思います」


 僕は何も言えなかった。ただ頷くだけだった。

 沈黙がまた、会話を埋めていった。

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