旅館『宵待』にて その六

 淡墨の指の隙間から、言葉を発する。


「前の……お客様は?」

「あの子はまだ自覚がなかっただけ。だから入ってこれたのよ。あなたが声を発して呼んでしまったら、自覚がある連中がやってきちゃう。だから『やばいの』とか『あぶないの』とかでいいから言葉を濁してちょうだい。お願いよ」


 二人に口を押さえられたまま、こくりと一度首肯した。


「とにかく、M機関の話だったわね。あそこは、私たちの感覚だと、保守的な秘匿派ね」


 そう言いながら、彩良さんは両手を離した。続けて淡墨も手を離す。離れ際に俺の唇をひと摘みしていった。もうそういうのやめて。恥ずかしくなって、淡墨をちらっと睨んだが、当の本人は少し目を細めてこちらを流し見るだけだった。むぅもうしらん。


 露骨ではあるが、気を遣った話の変更に感謝しつつ、彩良さんの話に耳を傾ける。


「何か事件があっても迅速に穏便に、できる限り大事にならないよう、最終的に何もなかったかのように解決することを方針にしてると思うわ」

「そんなこと可能なんですか?」

「だから保守的なのよ。ちょっとくらい公になったって然程困らないのに、秘匿……というより隠蔽することに固執しているきらいがあるわ」


 なるほど、まあ変なことが起きちゃうと世間様が混乱しちゃうもんな。わからなくはない。


「逆に言うと、隠蔽できるなら多少の犠牲は厭わないって感じね。人命救助最優先の秘匿の秘の字も考えていないような神和祇かんなぎとはある意味正反対なの」


 神和祇とは、兄貴がいる政府内組織の名前だ。もちろん公じゃないところ。俺は稀人様向けの政府窓口だと思っていた。違ったけど。


「協力できるならしたいなぁと思ってるんですけど」


 俺の言葉に、彩良さんはうーんと唸った。


宵待ここがなくなったりしないかしら」

「うわ、物騒なことをおっしゃる。一応、神和祇からは観察対象扱いになってるはずなんで、そのM機関? が勝手に宵待うちを潰すようなことはない、はずです」

「なら大丈夫かしら。万が一の場合は、私も公社を頼るわ」


 ありがたい話だ。

 公社とは彩良さんたちの勤め先で、神和祇とは付き合いがあるらしい。そこからの連絡なら、万が一でも助けが入ると思う。さすが彩良さん、頼りになる。


「やっぱり何が起こっているのか分からないと、対処も心構えも出来そうにないわよね」

「だめですよ? だめですからね???」

「まだ何も言ってないじゃない」


 彩良さんが可愛らしげに唇をツンっとさせたが、俺だって大体の予想はつくんですよ。くだんの場所に行くとか絶対にだめですから。先んじて止めないと。俺の心配をフラグにしちゃあならない。


「できることなら協力しますよって言ってあるので、その時にでも私が聞いておきますよ。ちゃんと報告しますから、変な行動力は出さないでください」


「いいですね?」と念を押せば、彩良さんは渋々頷いた。

 ほらぁ、やっぱり行ってみようかな〜とか思ってたんでしょ。油断も隙もあったもんじゃい。


「それじゃあ、私たちは戻りますね。淡墨も夕餉の準備をしなくちゃならないんで」

「分かったわ、ありがとう」


 彩良さんはしゃがみ込んでじゃれつく上弦さんを撫でながら、空いている手をこちらに振ってみせた。


「何か分かったらちゃーんと報告しますから、絶対に神社に行かないように! 約束ですよ」


 そう念を押して、静かに玄関を閉めた。はーいと呑気な声を聞きながら、俺と淡墨は母屋へ戻った。



 楽しく盛り上がったバーベキュー、のどかな町の散策、夜の庭にキャンプ向けリクライニングチェアを並べての星空観察、淡墨の美味い食事にお猫さんたちののんびり接待を堪能して、麗しい稀人さまたちの葦船旅行は、半月ほどの滞在を持って無事に終わった。

 結局M機関からの連絡はなく、彩良さんの心配は杞憂に終わり、俺の心配はフラグにはならなかった。

 楽しい時間はすぐに去ってしまう。

 四人のお客様をお見送りした頃には、九月の上旬が終わりそうになっていた。




 ――それから数日後のことだ。


 今年の夏は結構長いなぁ。


 切子グラスに氷を浮かべた麦茶を飲みながら、俺はそんなことを考えていた。


 淡墨の膝の上で。


 お客様が帰ってから待ってましたとばかりに淡墨はべったりで、上弦さんや下弦さんをはじめとするお猫さんを労う暇もなく囲い込まれた俺は、今日は何とか淡墨の膝の上にいる。

 俺が世話をするのが久々だからか、餌やりもブラッシングも各所の掃除も、お猫さんたちがついて回った。慕っているというよりも、生きとったんかワレと興味津々なだけの気がするけど。

 今も淡墨の膝の上の俺の膝の上でお猫さんがゴロゴロと大人しくしていた。


 身体の端々に疲労を感じる。


 はあぁとため息をつく俺のうなじを、淡墨はべろりと舐め上げた。ぴりっと小さな痛みが走る。


「淡墨、痛いから舐めないで」

「噛みすぎた」

「そうだよ、痕が残ったらどうするんだよ」

「だから舐めている」

「舐めて何とかなるわけないでしょ」


 作務衣の襟を引っ張るが、たかが知れていた。ぶすっとした顔で睨みつけるも、淡墨はいつもどおりどこ吹く風だ。


 淡墨は、俺からいい匂いがすると言う。よく匂いを嗅ぐし、舐めもするし、食みもする。気分が高ぶると噛みつきもするから、結構困るのだ。

 あぁあ、俺はいつか言葉ので、美味しくいただかれてしまうんじゃないかな。そんな気がする。


 早くお客様いらしてくれないかなぁ。このままでは怠惰な爛れた日々を過ごすことになってしまう。ほんと誰でもいいから来て欲しいな。


 そんなことを考えていたせいなのか――



 その日、事件は起こった。


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