第15話 それぞれの悲しみ

ケンジは視線を逸らさず、声を落として言った。

「……遼、俺を殴ってくれ」

遼は一瞬、耳を疑った。

「……え?」

ケンジはゆっくり息を吐いた。

「俺、ずっと……お前と詩をからかってただろ。あの頃の俺のせいで、何も伝えられなかったかもしれない。ひょっとしたら、俺が余計なことをしなければ、お前達が気持ちを伝え合えたんじゃないかって、ずっと後悔してる」

目を伏せ、ケンジは続ける。

「今、綾香と一緒にいる。幸せだ。けど……その幸せの裏で、あの時の俺のせいでお前が傷ついたかもしれないって思うと、胸が苦しいんだ。……だから、せめて、俺の代わりにお前の怒りをぶつけてくれ。殴ってくれなきゃ、俺の気が済まない」

遼は拳を握る。怒りや恨みではなかった。ケンジの痛み、後悔、そして現在の幸福と罪悪感が交錯する複雑な心情を、ただ受け止めたかった。

しかし拳を下ろす。殴る必要はない、と胸が静かに告げる。

ケンジの目には、長年抱えてきた切実さと懺悔、そして幸福の裏に隠された苦しみが映っていた。

遼は初めて気づく。自分の胸に押し込めてきた悲しみや後悔は、自分だけのものではなかったのだ、と。

詩を失ったあの日から止まったままだった時間に、ケンジの思いも絡んでいたことを知る。

「……辛かったのは、俺だけじゃなかったんだな」

遼の声はかすかに震えた。

ケンジは黙って頷き、言葉は必要なかった。互いの存在が、そのまま答えになった。

人は誰も、悲しみや後悔から完全に逃れられない。

でも、その重みを分かち合える相手がいるだけで、少しだけ立ち上がる力を得られる。

遼は胸の奥で静かに思った。

「……あの日から、ずっと俺たちは止まったままだったんだな」

「そうだな……でも、少しだけ動ける気がする」

言葉にせずとも伝わる感覚。

痛みと後悔、そして微かな希望を共有したことで、未来に向かう小さな一歩を踏み出す準備ができたことを、二人は互いに感じていた。

遼は肩の力を抜き、深く息を吸った。

悲しみを抱えたままでも、誰かと共有することで、人は前に進める――

その夜、遼はほんの少しだけ、未来に向かう自分を実感したのだった。

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