第9話 咲く花と 溶けた氷の パラドクス

日曜日の午前九時前、名花の家の二階でけたたましいベル音が鳴っている。これは、多くの人にとってストレスに変換される音である。

しかし、名花の家の近辺には住宅がない。

ストレスを受けるのは、そのベル音によって起床する人間だけだった。


「めーちゃんーーー! 目覚まし止めてー!」

一階の台所で、氷乃が叫んでいる。

約二十秒後、静寂が訪れた。


パタパタと木板を鳴らす音がして、名花が一階に降りてきた。

ナイトキャップのボンボンを顔の前に垂らしながらフラフラしている。


「ひょーちゃん……おはよぉ〜……」

生まれたばかりの雛のような目をしている名花。


「おはよ」

台所に立っている氷乃が振り返って言った。

「昨日、鍵閉めなかったでしょう。だめだよ、閉めなきゃ」


「ひょーちゃん来るかな〜って思って……ふわぁぁ」

名花はあくびをしている。


「私は鍵持ってるでしょ。閉めないとだめ、わかった? 窓もだからね」

氷乃が歯切れよく言葉を並べた。


「ふぁあい……」

とぼけた返事をした名花が縁側に座った。

スンスンと匂いを嗅いでいる。

「お味噌汁〜……!」


「めーちゃんの好きな油揚げ入ってるよ」


白米、味噌汁、納豆、味のり。

氷乃が用意した朝ごはんは、まさに日本の朝食だった。


「ひょ〜ちゃんの〜、お味噌汁ってどうして〜こんなに美味しいの〜」


「めーちゃん、音の数、めちゃくちゃだよ」

氷乃が微笑む。


「このお味噌汁には五七五も勝てないよねぇ〜……」

ずずず、と味噌汁をすする名花。


「わぁ……」

氷乃が右の口角を上げた。

「めーちゃん、ねぼけてる?」


「起きてる〜」


「ん、それで、今日はどこに行くの?」


「決めてないんだ〜……」


「あら、珍しい」

「いつもなら、『きょーはねー、お月様に手が届くところにねー、いくんだよー』とか言うのに」

氷乃が目をパチパチさせながら名花の声真似をする。


「えぇ〜……そんな感じなの〜? わたし〜……」

名花が味のりの袋を開けながら言った。

「ひょーちゃんはどこか行きたいところある〜?」


「めーちゃんの行きたいところかな〜」


「だめー」


「えー?」


「私がいきたいところはね〜、ひょーちゃんの行きたいところだよ〜」

名花が眉間に力を入れようとしているが、どうもうまくいかない様子だ。


「だからね、それがめーちゃんの行きたいところなんだってば」


「だめー」


「日曜朝ドラ、目的地のパラドクス」

氷乃が低めの声を作って言った。


「わ〜、ひょーちゃんのドラマ監督ぅ〜」

名花は楽しそうに笑っている。


「監督兼メインキャストかぁ」

氷乃が右上を見始めた。

「それじゃ、適当に散歩しよっか」


「そーしましょー!」

名花が右手を高らかに上げた。


* * *


太陽燦々。

心地よい春風が名花たちの間を抜けていく。


「今日も良い天気だねぇ……」


「雨降るよ」

氷乃が空を見上げながら言った。


「えぇ〜〜っ!?」

名花が素っ頓狂な声を上げる。


「大丈夫、傘持ってきてるから」


氷乃の周りをぐるぐると歩き回る名花。

「ん〜、どうやらね〜、ひょーちゃんは傘持ってないよ〜?」

心底残念そうな顔をしてそう言った。


「いいえ、折りたたみ傘が二つ、こちらのバッグに入っておりますよ。お嬢様」

氷乃は微笑みを絶やさない。


「流石だねぇ〜……! ういやつですよ、ひょーちゃんさんは〜」

名花が大仰そうに頷いている。


「めーちゃん……お嬢様のイメージ、それなの?」


「違う〜?」


「合ってる合ってる」


「あーーーっ!」

突如、叫ぶ名花。


刹那、名花の手を素早く引く氷乃。

名花を抱きとめ、辺りを警戒するように睨んでいる。

「……?」

辺りに変わったものは見受けられない。


「違うよ〜ひょーちゃん〜、あれ見て〜!」


名花が指した先に、トボトボと歩いている黒髪の少女がいた。


「ん、あれ……」

氷乃が口元に右人差し指の第二関節を置いた。


「さいちゃんだよぉ〜!」

名花がそう言って駆け出していく。


十数秒で西木に追いついた名花がダイビングタックルを仕掛けている、ように見えるが、名花の身長の方が十センチほど高いため、抱きつこうとするとそういった形になってしまうのである。


背後からの衝撃に耐えられなかった西木がバックアタッカーともみくちゃになりながら倒れ込んだ。


「あらあら……ラグビー同好会の勧誘かしら」

氷乃が右頬に掌をあてて、お嬢様っぽく呟いた。

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