Page.0 果実の反芻
これは、"抱擁"の夜にたどり着く、直前のお話――。
脱ぎ散らかした服や積み上げられた資料、書きかけの書類や雑誌――。
足元も机の上も散らかった部屋の片隅で、女はノートパソコンに向かって、カタカタと文字を紡ぐ音を軽快に鳴らしていた。
「はい、わかりました。ではそのように修正して、また後日…はい。はい…よろしくお願いします」
どこか疲れの色が滲む声で、傍らに置かれたスマホに話しかけている。視線は真っ直ぐ、モニターに向かれたまま。
やがて、通話を終えると、胸元の重みを机に預けるように突っ伏し、深くため息をついた。
「何回直させるんだろう…まとめて言ってくれればいいのに」
ぽつりと独り言ちる。どうしようかな――と、ぼんやり画面を眺めていたが、やがて眼を閉じ、左右のこめかみを指先で小刻みに叩く。両足は落ち着かず貧乏ゆすりを始めていた。
時計の秒針だけが神経質に響く部屋で、徐々に眉間に皺を寄せて苦悶の表情を浮かべていたが――。
「ああもう!何も思いつかないよっ!」
唐突に声を上げて、何かが弾けたように身体を起こした。椅子にもたれ掛かって天井を仰ぎ、脱力したように手足を投げ出す。
しばらく力なくうなだれていたが、突如立ち上がると、真後ろにあるベッドへ足を運び、豊かな膨らみの重みなど気にも留めずに、全てを委ねるようにそのまま横倒しにどさっと倒れ込んでしまった。
枕を手に取り、胸の上に抱え込んて顔を埋める。そして、うーうー…と唸るようなこもった声を小さく響かせた。
身体を落ち着きなく揺らし、何度かのっそりと寝返りもうつ。
突然、動きがぴたりと止んだ。
しんとした室内に、またしばらく時計の秒針だけが響くなか、女は深いため息をつく。
「最近、来てくれないな…」
募る寂しさが滲むように、ぽつりと呟いた。
忙しい立場だと知っているし、あまり迷惑をかけたくないとも思っている。それでも、この唐突にできた胸の空洞は一人ではどうしようもなくて――焦がれるように、また一つ深いため息を零した。
ふと、枕を抱えながら、ゆっくりと立ち上がる。そして、机のスマホに近づいて画面を覗き込むと、指先を滑らせて連絡先をめくりはじめた。やがて、彼の名前のところで、指をぴたりと止める。
固まったように立ち尽くしたまま、じっと画面と睨めっこする。その名前に指を触れかけては止めて、また伸ばしては引っ込めて…そんなことを繰り返すうちに、女は勢いよく首を横に振った。そのまま机から離れると、再びベッドに倒れこんでしまう。
仕事の邪魔しちゃダメだよね――それが彼女の想いだった。
枕を持ち直して顔を埋め、女は徐にすんすんと鼻を鳴らす。そして突然思い立ったように起き上がると、ベッドの掛け布団やブランケット…あちこちを犬のようにくんくんと嗅ぎ始めた。
「さすがに残ってないか、何週間も前だもんな…くそう」
眉をしかめながら静かにぼやいた。どうやら、彼の匂いが残っていないかを探しているらしい。
ベッドから立ち上がると、部屋の至る所に脱いだままになっていた服を拾っては嗅ぎ、拾っては嗅ぎ…。
結局ほぼ全て拾いきったが、どこにも彼の痕跡は残っていなかった。すっかりしょげた顔をして、心なしか身体を小さくさせながら脱衣所へと歩いていく。
洗濯機のスイッチを入れて、水が注がれ回り始める様を、女はじっと見つめていた。
規則正しい音で回るその機械を眺めながら、ふと思う。
――会いたいな。
その瞬間、自分の心臓がきゅっと縮こまったような気がした。その感触を確かめるように、胸の前の豊かな膨らみの上にそっと手を添える。そして、この胸の中で、幸せそうに抱かれている彼の温もりを思い出した。
――会いたい、会いたい…。
何度も、何度も呟く。その度にきゅっと縮こまっていく感覚を、無闇に噛み締めてしまい、彼女の表情は徐々に雲行きが怪しくなって今にも雨が降りそうな程にくしゃくしゃになってしまった。
そっと撫でてあげる髪の感触、そして優しく抱きしめてくれた時にふわっと香るあの匂い――それらを反芻すればするほど、心の陰りは深まっていく。
どうして来てくれないの?
嫌われちゃったの?
もう、会えないのかな…。
考えれば考える程、後ろ向きなことばかり思いついてしまう。
終いには、こんなに辛くなるなら出会わなければよかった――そんなことまで考え始めてしまった。
しかし、それと同時に、そんなわけない、忙しいだけだから、大丈夫だから…という感情のせめぎ合いも起こっている。彼女の心はそんな葛藤でぐちゃぐちゃになってしまっていた。
――ピロンッ。
突然、奇妙な機械音がそれを断ち切った。女は、はっとしてその音の方へ顔を向ける。
恐らくスマホに何かの通知が来た音であろう。もしかして――と女は思った。しかし、こう言う時は大抵違うものだ。淡い期待を振り払うように小さく首を横に振って部屋へと戻る。
机のスマホを手に取り、ベッドに腰掛け、枕をそっと抱える。微かな動悸を感じながら、ふうと一呼吸。そして、意を決して通知に表示されている名前を確認した。
それを見た瞬間――彼女は目を見開かせた。咄嗟に身を乗り出し、いそいそとその名前に指を触れる。
『今日会えますか?』
たった一言。それだけで先程までの葛藤が嘘のように、女の曇っていた心が一気に色付き晴れ渡った。
見る前は、彼からの連絡であるわけがない、といった気持ちが強かったためか、その反動で喜びが今にも溢れ出しそうになり、思わず口元を手で押さえる。
『大丈夫だよ。何時頃に来れそう?』
平静を装っているつもりだけど、通知とほぼ同時に返事をしている時点できっとバレてる…。それでも、もう構わない。むしろちょっとくらい伝わってもいい――そんな気持ちが心の奥にあった。
『大分遅くなっちゃうと思う…いつも曖昧でごめんなさい』
『いいんだよ!来れそうになったらまた連絡ちょうだい?』
『わかった』
心をうきうきと弾ませ、枕をぎゅっと抱きしめながら、静かなやりとりをする。
ふと指を止めると、画面にはまだ送信していない言葉が残されていた。
"早く会いたいな"
その隣では、カーソルが心臓の鼓動のように瞬いている。
――送ったら、迷惑かな…?
何度も悩んで首を傾げながら、視線をあちこちに滑らせる。
ついに決心したように画面に向き直ると、力強く指を押し当てその文を送信した。
会話画面に表示されると同時に、すぐに既読がつく。その瞬間、どきっと心臓が跳ねた。鼓動が早くなるのを感じながら、まじまじと画面に釘付けになる。
『俺も早く会いたいです』
返ってきたその言葉を見た瞬間――
「……!」
声にならない歓喜が胸いっぱいに膨らみ、花が咲き誇ったようにぱあっと満面に顔を綻ばせた。すかさず、控えめににっこり笑った顔のスタンプだけを彼に送り返すと、綻んだ顔を隠すように枕に埋めながら、ベッドに倒れ込んで、脚をぱたぱたと弾けさせた。まるで心の鼓動が、脚を通じて外に飛び出してきたかのように。
「俺も早く会いたいです…早く会いたいです、だって!早く会いたいですぅっ…!」
上ずった声で同じ言葉を何度も、自分の心に擦り合わせるかのように反芻する。彼も私と一緒の気持ちなんだ――言葉を繰り返す度に、心がきゅんと温かく包まれていくようだった。
一頻り喜びを爆発させていたが、突然ぴたっと動きが止まる。
「仕事しようっ」
そう言って、ばっとベッドの上に立ち上がり、天井を見上げながら胸を張って、大袈裟に両の握り拳を高々と掲げた。そして、よしっ、と前に向き直り、何か決心したようにベッドを降りて机へと向かう。
しかし――
数分後、机の前に彼女の姿はなかった。ベッドの上では、枕に顔を埋めながら、うーうー…とこもった声を響かせて身体を揺らす、女の姿があるのだった――。
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