GPT-5 (Version: 2025-08-07)

## 一幕 「再会」


 電車の発車ベルが遠ざかっていった。

 改札前に立ち尽くす沢田駿は、腕時計を見て深く息を吐いた。終電は、もうない。出版社での校正作業が長引き、気づけば日付を越えていた。タクシーを拾うには財布が心もとない。仕方なく、夜風に吹かれながら繁華街を抜け、徒歩で帰る道を選ぶ。


 眠りについた住宅街は静かだったが、コンビニの明かりだけが孤独に灯っている。明滅する看板の下で、駿は小さなざわめきを耳にした。

 酔っ払いの怒鳴り声。

 駿の視線の先には、制服姿の警備員が一人、二人組の男に絡まれていた。


「なんだよ、客に口ごたえか? あぁ?」

「すみません……お、落ち着いて……」


 掠れた声で、警備員は必死に言葉を繋いでいた。だがその舌はもつれ、発音は不鮮明だった。男たちはますます面白がり、肩を小突き、罵声を浴びせる。


 駿は足を止めた。関わるべきか迷う。日常の小競り合いに首を突っ込む勇気は、普段の自分にはない。だが、その警備員の姿をよく見ると――胸を抉られるような衝撃が走った。


 背筋の伸びた体格、鋭くも優しさを湛えた眼差し。その顔を、駿は知っていた。

 早川凌。リングネーム《疾風のハヤカワ》。かつてボクシング専門誌の誌面を飾ったスター選手だ。

 引退理由は「度重なる脳震盪」と報じられ、業界ではCTE(慢性外傷性脳症)の噂が囁かれていた。駿も編集者として情報を追った一人だった。


 ――だが、いま目の前で酔漢に罵倒されている彼は、記事の中の「情報」ではなかった。


 早川は拳を握り、肩が震えていた。暴力衝動を必死に押し殺しているのが、素人の目にも分かった。拳ひとつ振るえば、この場の空気は一変する。だが彼は、荒い呼吸を整えながら、たどたどしい言葉を絞り出した。


「……あぶない。……けが、しないで」


 その声には、怒りではなく、相手を気遣う響きがあった。

 駿の胸に、説明できない重さがのしかかる。伝説の拳を持つ男が、いまは自らの衝動を封じ込め、敵意ではなく慈しみを吐き出している。


 やがて酔漢は飽きたのか、笑いながら去っていった。

 残されたのは、街灯の下で小刻みに震える早川の背中だけだった。


 駿は知らず、足を踏み出していた。

 情報として「知っていた」悲劇が、いま目の前で呼吸している。

 その現実は畏怖に近い衝撃であり、同時に抗いがたい引力を放っていた。


 ――この人を、もっと知りたい。

 ――傍観者のままではいられない。


 駿の心に、初めてその思いが芽生えた。


## 二幕 「錆びついた剣」


 それから数日、駿の頭からあの夜の光景は離れなかった。

 編集部で同僚が次号の格闘技特集を巡って冗談を飛ばしていても、駿はどこか上の空だった。モニターの画面に視線を固定しながら、夜風に晒された早川凌の姿が何度も脳裏に蘇る。


 終電を逃した翌週、駿はあえて同じ時間に同じ道を歩いた。

 コンビニ前には、やはり制服姿の早川がいた。無線機を腰に下げ、駐車場の巡回をしている。

 声をかけるべきか迷ったが、気づけば足が勝手に進んでいた。


「……この間、助けてもらいました」


 唐突な言葉に、早川は目を瞬かせた。言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかっているようだった。やがて、小さく首を振る。


「……おれ、なにも……してない」


 その口調はぎこちなく、言葉を探すたびに長い沈黙が挟まった。それでも駿は引かなかった。雑談を試み、休日の話題を振る。

 だが、早川はうまく答えられない。断片的な単語だけが落ち、やがて気まずい沈黙が訪れる。


 ――普通の会話さえ困難なのか。


 駿は胸の奥に重いものを覚えた。

 だが同時に、その沈黙の背後に、まだ折れていない何かがあると直感した。


 数日後、駿は再び現れた。

 深夜のビル裏、誰もいない駐車場。街灯の下で、早川がひとりシャドーボクシングをしている姿を見つけた。

 拳は鈍く、足取りもぎこちない。だが、その一撃一撃には確かな軌跡が刻まれていた。

 汗に濡れた横顔は、たとえ錆びついてもなお鋭さを宿す「剣」のように見えた。


 駿は息を呑み、心の中で呟いた。

 ――まだ、消えていない。


 やがて小さな交流が生まれた。

 駿は夜食を差し入れたり、ボクシングの話題を振ったりした。早川は多くを語らないが、ときおり懐かしむように目を細める。駿が昔の試合を覚えていると言うと、彼は少しだけ誇らしげに微笑んだ。

 その笑顔に、駿は確信する。

 彼はまだ、ここにいる。


 しかし同時に、早川のCTEの症状は着実に進んでいた。

 会話の最中、言葉を思い出せずに固まる。巡回の順路を忘れ、上司に叱られる。鍵を閉め忘れたせいで同僚に迷惑をかけたこともあった。

 小さな失敗が重なるたび、早川は顔を歪め、自分を責めるように拳を握った。


 ある晩、駿は偶然その場面を目撃する。

 誰もいない倉庫裏で、早川が壁を殴り続けていた。拳から血が滲んでいるのに、止めようとしない。

 駿が慌てて駆け寄ると、早川は狼のような目で睨み、震える声を吐き出した。


「……ちがう。……おれは、こんな……じゃない」


 その目の奥にあるのは、ただの怒りではなかった。

 過去の栄光と今の自分との落差に耐えきれない苦悩――自分を自分で壊そうとする絶望の色だった。


 駿は言葉を失いながらも、彼の拳に手を伸ばした。

 だが早川は、その手を拒絶するかのように背を向け、暗闇の中へ消えていった。


 駿の胸に、冷たい痛みが残った。

 彼の剣は、いまや他者を守るものではなく、自分自身を傷つける刃へと変わりつつある。


## 三幕 「折れた誇り」


 夏の夕暮れ、商店街の小さな公園。

 巡回を終えた早川は、ベンチに腰を下ろしていた。制服の胸ポケットには無線機、右手にはまだ固く腫れた拳の痕。汗を拭いながら、遠くで遊ぶ子どもたちをぼんやり眺めていた。


 そのとき、ふざけ合っていた子どもたちが、早川の方を見て笑った。

 ――あーあー、かーえーるー。

 幼い声が、彼の舌のもつれを真似していた。


 胸を抉る痛みが走った。

 思わず立ち上がり、低く怒鳴る。

「やめろ!」


 子どもたちは一斉に泣き出し、近くにいた親たちが駆け寄る。

「何してるんですか!」

「不審者よ! 子どもに何を――」


 説明しようとしたが、言葉がうまく繋がらない。

「ちが……おれ、ちが……」

 もつれる声は、弁解にならなかった。


 通報を受けた警察がやって来て、事情を聞かれる。勤務先からも連絡が入り、結果、早川は「しばらく自宅待機」を命じられた。

 唯一の居場所だった夜勤の仕事さえ奪われ、彼は完全に孤立した。


 その知らせを駿が耳にしたのは翌日の編集部だった。

 同僚たちは面白半分に話題にしていた。

「聞いたか? 元ボクサーの警備員、子どもに怒鳴ったんだってよ」

「やっぱり頭ヤバいんだろ? 脳の病気ってやつだろ」


 軽口に、駿の胃が掴まれるように痛んだ。

 黙っていれば、これまでと同じ「傍観者」でいられる。

 だが――

 気づけば、声が飛び出していた。


「……何も知らないで、笑うな!」


 編集室の空気が凍りついた。

 同僚が戸惑う視線を向ける中、駿は立ち上がり、机を叩いた。

「彼がどんな人か、お前らは知らないだろ! 拳で人を倒すんじゃなく、自分の衝動と戦ってるんだ! ――何も知らないで!」


 叫んだ瞬間、胸の奥で何かが切り替わった。

 自分はもう、外側から記事のように「情報」を並べる立場ではない。

 彼を守るために動く、当事者になるのだ。


 駿は編集部を飛び出した。

 電車を乗り継ぎ、早川の住む安アパートへ向かう。

 呼び鈴を押しても応答はない。鍵の隙間から洩れる微かな灯りを頼りに、管理人に事情を話して扉を開けてもらった。


 中に入った瞬間、息が止まった。

 散乱する空き缶、血に染まった包帯。

 そして部屋の隅に座り込む早川がいた。両拳は腫れ上がり、床に赤い滴が落ちている。虚ろな瞳は、駿を見ても焦点を結ばなかった。


 駿の足が震えた。

 ――このままでは、本当に壊れてしまう。


 胸の奥から、熱いものが込み上げた。

 いま抜かねばならない。

 自分の中に眠っていた「剣」を。


 駿は早川に近づき、その傷だらけの拳を両手で包み込んだ。

 言葉は要らなかった。ただその体温で「一人じゃない」と伝えた。


 やがて、早川の唇が震え、掠れた声がこぼれた。

「……剣、なんて……どこにも……ない」


 涙が拳に落ちた。

 駿はその痛みを抱き締めるように応えた。

「一人で持てないなら、二人で持てばいい。俺が一緒に持つ」


 その瞬間、早川の硬い表情が崩れた。

 嗚咽が部屋に響き、駿はただ黙って彼を支え続けた。


## 四幕 「新しい剣」


 その夜を境に、駿と早川の関係は変わった。

 崩れ落ちた心の奥底をさらけ出し、泣き疲れて眠りについた早川を見守りながら、駿は静かに誓った。――彼を一人にしない、と。


 翌日から駿は行動を起こした。

 まず、スポーツ医学に詳しい知人を頼り、専門医のカウンセリングにつなげた。

 初めて診察室に入ったとき、早川は緊張で手を震わせていたが、駿が横に座っていると、かすかに肩を預けてきた。その小さな仕草に、駿は胸が熱くなった。


 治療がすぐに劇的な変化をもたらすわけではなかった。

 物忘れは依然として起こる。言葉は時に途切れ、衝動に苛まれる夜もある。

 それでも、以前のように拳で壁を殴り続けることはなくなった。衝動が来ると、駿に電話をかける。受話器の向こうで「大丈夫だ、一緒にいる」と応える声が、彼を繋ぎ止めた。


 駿自身も変わっていった。

 編集部で同僚の軽口を聞いても、もう動じなかった。必要なら静かに言い返し、時には笑い飛ばすこともできた。彼の中に芽生えた「勇気」という剣は、確かに日常の中で輝きを増していた。


 季節は巡り、春。

 桜が咲き始めた並木道を、二人は並んで歩いていた。

 休日の昼下がり、駿はコンビニの袋を片手に提げ、早川は少しゆっくりした歩調でその横を歩く。


「……あのとき」

 早川が、不意に口を開いた。

 まだ滑らかではないが、言葉を選ぶ目は真剣だった。

「おれ、もう……全部、なくしたと、思った」

 握りしめた拳が震える。

「でも……駿が、いた。……ありがとう」


 駿は足を止め、笑みを浮かべた。

「俺の方こそ。あなたが諦めなかったから、こうして隣にいられるんです」


 二人の間に、沈黙が流れた。だが、それは不安ではなく、穏やかな安らぎに満ちていた。

 風に舞う花びらが、光の中で剣のきらめきのように瞬いた。


 かつて孤独に握りしめ、己を傷つけるばかりだった剣は、もう存在しない。

 いま二人の間にあるのは――支え合い、共に持つことで輝く、新しい剣だった。


 その剣は、誰かを傷つけるためではなく、互いを守り、未来へ進むためにある。


 静かな春の午後、二人の影は並んで伸びていった。

 物語は、希望の光の中で幕を閉じる。

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