第7話:Homeward Bound
◇再びの来訪者◇
***
「モーニング・グルービー」の午後、ひよりは、愛と錦くんの深刻な状態に心を痛めながら、マスターと共に対策を練っていた。
マスターもまた、佐伯悠一が生きていたことへの苛立ちと、再び立ち向かう決意が入り混じった複雑な表情で、黙々と豆を挽いていた。
その時、喫茶店のドアが再び開かれた。
入ってきたのは、先日マスターと謎めいたやり取りを交わした女性、ヒギョンだった。
彼女は、前回と変わらぬ冷徹な美しさを纏い、迷いなくカウンターに近づいてくる。
【ヒギョン】「マスター。そして、ひよりさん。貴方方に協力を仰ぎに参りました」
ヒギョンの言葉は簡潔で、一切の感情が読み取れない。
彼女は、セシリアと連絡を取るように、と具体的な指示を伝えた。
その口調は、まるで上官から命令を受けているかのようだ。
ひよりは、ヒギョンの言葉の端々から、見えない糸が手繰り寄せられているような感覚を覚えた。
ヒギョンの動き、その情報、そしてセシリアへの繋がり。
その全てが、まるで誰かの意志によって導かれているかのように思えた。
【ひより】『まるで、お母さんが、後ろで糸を引いているみたい……』
ひよりの直感は、鋭かった。
ヒギョンの行動の背後には、紛れもなく母・さおりの存在が強く感じられた。
マスターもまた、ヒギョンの指示に従いながら、その瞳の奥で、ひそかに何かを確信しているようだった。
◇マスターの告白◇
***
ヒギョンが去った後、ひよりはマスターに詰め寄った。
【ひより】「マスター、ヒギョンさんは一体何者なんですか?そして、どうしてセシリアさんと連絡を取るようにって……。まるで、誰かの命令で動いてるみたいに……」
マスターは、普段は決して語ろうとしない自身の過去について、重い口を開いた。
彼の瞳は、遠いエチオピアの地を見つめているかのようだった。
【マスター】「…ひより。これは、お前にも話しておくべきことだろう。俺が昔、エチオピアで傭兵をやっていたのはもう知っているな」
ひよりは、マスターの告白に小さく頷いた。
【マスター】「ある時、敵に周囲を完全に囲まれてな。絶体絶命の状況だった。その時、俺の隣にいたのが、兄でもある佐伯悠一だ。奴は、そこで見つけた植物を差し出した。『これを飲めば、どんな状況でも乗り越えられる』と。それが、現地の言葉で『コソ』と呼ばれる植物だった」
ひよりは、白い錠剤の分析結果で「コーヒーによく似た成分」と「特殊なタンパク質」が含まれていると聞いたことを思い出す。
「コソ」という言葉が、頭の中で強く響いた。
【マスター】「俺たちは、そのコソを二人で飲んだ。すると、全身に力が漲り、感覚が研ぎ澄まされた。意識が加速し、まるで時間が止まったかのように敵の動きが見えた。その力で、俺たちは九死に一生を得た。だが……その代償は大きかった」
マスターは、深いため息をついた。
【マスター】「コソの副作用は、異常なまでの眠気だった。戦いの後、俺は数日間、深い眠りから覚めることができなかった。そして、それから今日まで、その眠気に長年苦しめられてきた。モカコーヒーを飲み続けているのは、その症状を和らげるためだ。長年の習慣の理由は、そこにある」
マスターの告白に、ひよりは衝撃を受けた。
マスターがモカコーヒーを欠かさない理由。
それが今、明らかになった。
◇夢の回帰、そして故郷へ◇
その夜、ひよりは深く眠りについた。
彼女の夢の中に現れたのは、懐かしい光景だった。
【ひより】『ここは……朝顔食堂……!』
夢の中のひよりは、まだ幼い頃の自分だった。
テーブルに並べられた出来立ての料理、香ばしい味噌の匂い、そして、エプロン姿の母、さおりが、優しく微笑んでいる。
【さおり】「ひより、今日の空手の稽古も頑張ったわね。さあ、夕飯にしましょう」
夢の中のさおりは、厳しさの中に、深い愛情をたたえていた。
ひよりは、母の指導のもと、空手の基本を何度も繰り返していた。
時には厳しく、時には優しく、技を教えてくれた母。
それは、ひよりが、孤独な日々の中でも強く生きてこられた源となった、確かな絆と成長の日々だった。
しかし、夢の終わりはいつも同じだった。
ひよりが高校に入学した頃、さおりは急に食堂を畳み、ひよりに何も告げずに姿を消してしまう。
夢の中のひよりは、その喪失感と孤独に打ちひしがれていた。
しかし、今夜の夢は、少し違っていた。夢の中のさおりが、消えゆく寸前に、ひよりに向かって、何かを囁いている。
【さおり】「…私は、生きているわ。ひより、信じて……」
その言葉に、ひよりはハッと目を覚ました。
顔には、涙の跡が残っていた。
夢の鮮明さに、ひよりは胸が震えた。
死んだと思っていた母の言葉。
それは、現実でマスターが見せた手紙の言葉と完全に一致していた。
◇そして再会◇
***
マスターの告白と、夢で得た確信を胸に、ひよりはセシリアに連絡を取り、セシリアの薬局へと向かった。
薬局のドアを開けると、店内には相変わらず独特のアロマの香りが漂っている。
カウンターの向こうには、セシリアが微笑んで立っていた。
【セシリア】「あら、いらっしゃい。ちょうど、あなたに会わせたい人がいたのよ」
セシリアが奥を指差す。
ひよりの視線の先にいたのは、信じられない人物だった。
そこに立っていたのは、他でもない、ひよりの母親、さおりだった。
【ひより】「!!…お母さん……!」
ひよりの目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
死んだと思っていた母親が、目の前にいる。
その事実だけで、ひよりの心は震えた。
さおりもまた、ひよりの姿を見ると、その目から涙を溢れさせ、ひよりを強く抱きしめた。
【さおり】「ひより……!大きくなったわね……」
母娘の再会は、感動的であると同時に、複雑な感情が交錯する瞬間だった。
さおりは、ひよりに語り始めた。
失踪後、彼女は公安のエージェントとして、佐伯悠一と彼のドラッグ組織が開発していたナノマシン技術を、水面下で追っていたのだと。
【さおり】「まだ高校生だったあなたには伝えることができなかったの。でも今のひよりならもう大丈夫ね!」
【ひより】「うん、私も頑張ったんだよ!」
ひよりは、さおりの腕の中で、温かい温もりに包まれる。
遠く離れていたはずの心の故郷に、ようやくたどり着いたような安堵感がひよりを包み込んだ。
【ひより】「お母さん……!いっしょに、帰ろう……!」
ひよりの言葉は、単に喫茶店に帰るという意味だけではなかった。
それは、失われた家族の絆を取り戻し、再び共に生きる未来への、切なる願いだった。
ひよりの心の中で、母への理解と信頼が、確かな形を取り始めていた。
(第7話 終)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます