道々にすがる明日もなし

クニシマ

◆◇◆

 裏山が崩れるかもしれない、と宗久そうきゅうさんが青ざめた顔で僕のところへ飛んできたのは、僕がちょうど夕食の後片付けを終えた時分のことでした。閉めきった窓の外では日暮れの頃から降り出した雨がだんだんと勢いを増して風に乗り吹きつけてきていました。

 去年の冬、僕と宗久さんのふたりで、宗久さんの歳の離れた弟、多治郎たじろうさんの遺体を裏山に埋めたのでした。多治郎さんは白痴で、宗久さんは彼をとても愛していたけれど、やはりたまりかねることはあって、それは数年前に彼ら兄弟の父が他界してから以前にも増して顕著になったようで、だから殺してしまったのでした。殺してしまったというのもちょっと違うのかもしれません。宗久さんが殺していないと言うなら、僕はそうなのだろうと信じます。

 日差しはあっても寒い午後でした。僕が宗久さんに呼ばれたとき、彼はどこも怪我をしていないようなのに鮮やかな血にまみれていて、その足元には多治郎さんが真っ白い顔で倒れていました。けれど、弟が死んでしまった、と宗久さんが言ったから、僕はそれを受け入れました。そして裏山に埋めてしまいましょうと提案をしました。

 暗くなるのを待って、僕らは勝手口から多治郎さんを運び出しました。手車が軋む音と吐く息の白さをまだよく覚えています。山道を歩く間、宗久さんはずっとうつむいて、道の先を照らす灯りを受けて仄かに浮かびあがる多治郎さんの顔を見つめていました。もとより人の立ち入りなどほぼない山ですから、奥まった場所でなくても大丈夫でしょうと、それも僕の案でした。宗久さんはうわの空に返事をしただけでした。山の中腹あたりで僕らは穴を掘りました。枯れ木の枝の隙間から月光が差していて、静かでした。

 それほど深く掘ることはしませんでした。穴の底に多治郎さんを横たえて布団のように土をかぶせていく宗久さんの顔はなんだかどっと老け込んだふうに見えましたが、ときたま僕に短く指示をする声音はどこかひとごとのようでもありました。

 あらかた埋め終えた頃には日付が変わっていました。朝になったら僕がまたここへ来て確認しておきますからと言って、それから僕らは行き道につけてきた手車の轍を消すようにわざわざ靴底を土にこすりつけながら帰りました。親類縁者やご近所には、多治郎さんはどこかへ出かけたきりいなくなってしまったと言えば、それで不思議がられることはないでしょうと、そうやって事実そのとおりになったのでした。そのときから何週間も経たないうちに以前から物忘れの増えていた多治郎さんの母の容態がひどくなって寝たきりになったのも、それはそれで僕らにとっては都合のいいことでした。

 僕と宗久さんは歳が同じです。僕は赤ん坊の頃に宗久さんの家にもらわれて、母のいない宗久さんの身の回りを世話する役として彼と一緒に育てられました。宗久さんと同じものを食べて、同じ本を読んで、同じ布団で眠ってきました。それは決して強いられていたというわけではなくて、きっといつだって出ていくことはできたのでしょうけれど、僕がそうせずに成人してからも十年以上こうしてずっと宗久さんの傍で下男のようなことをしているのは、彼ら家族への恩義と、そしてそれよりも他に、もっと簡単な理由がひとつ、ただ、今、そんなことはどうだってよくて、僕らは何より裏山へ急がなければいけなかったのでした。

 納戸からシャベルを持ち出して、僕と宗久さんは裏山に登りました。この山が崩れて誰かに多治郎さんが見つかってしまったら、まずいことにならないはずがありません。暑気がやや残る生ぬるい大風をかきわけるようにしながら、多治郎さんが埋まっているあたりをとにかく掘り返しました。そうしているうちにもどんどん雨足は強まり、雷鳴が轟き始めました。掘っている場所が違うのか、それとも、どうでしょう、多治郎さんは見つかりません。泥を浴び、視界も悪くなっていく一方です。

「もう」ふと、宗久さんが叫ぶように言いました。「やめよう」稲光が僕らを照らし出します。「きっと、だめだろう」

 宗久さんがシャベルを放り出したのがよく見えました。

「逃げるんだ。ついてきてくれ、頼むから。楽に暮らせるようにしてやる。いくらだってほしいものなら与えてやるから。行こう、頼む、もうおまえが、いないとおれは。だめなんだ、いけないんだ、どうにもならないんだ。おまえだけが、もう、おれには。……」

 宗久さんの顔じゅうを絶えず水滴が伝っていきます。頭に、血がのぼるような気がしました。。気がつけばそんなことを口走っていました。どろどろ唸っていた雷が、ばしゃん、とどこかで落ちました。

「なに」

 宗久さんはこちらへ一歩踏み出して、僕の口元に耳を近づけようとしました。

「聞こえない。」

 その拍子に姿勢を崩して足を滑らせたのは、僕だったでしょうか、宗久さんだったでしょうか。いずれにせよ僕らはとっさに互いの体を支えようと腕を伸ばし、しがみつき合ったままぬかるんだ斜面を転がり落ちていきました。

 しばらくあって、僕らの落下はようやく木の根だか何かに引っかかって止まりました。ふたりともあちこちを強く打ったようで、なんだかとてもぼんやりとしていました。

 すぐ近くに雷が落ちました。内緒の話をささやくような、宗久さんの掠れた喘鳴が耳元に触れます。幼い頃、寝床の中で聞いていた、あの寝息によく似ています。

 うるさい雨音に混じって、遠く、地鳴りが聞こえる気がします。

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