第5話③:五墓日

 薄暗い部屋。またしても夜。それなのに家には一人、由依がいるのみだった。いつも家族でご飯を食べていたあの机の近くに座り、広げた真っ白な画用紙に彼女は黙ってクレヨンで色をつけていた。近くに置かれた赤いランドセルだけが唯一、この家の華を演出していて。

 描かれているのは、どうやら、人のようだった。まだ低学年だからかそこまで上手くはないが、それでも人間を描いているのだと分かる。髪が短く、笑っている表情。九華にはそれが、祐希の顔に見えた。


 物音がする度、由依は玄関の方を振り返る。まるで誰かの帰りを待つかのように。彼女は、夢中で腕を動かし続けた。ほとんど休憩なんて無かった。描く。描く。描き続ける。果てに、それは完成した。祐希と由依の二人が笑って手を繋ぎ歩く絵。その隣には、美香の姿も小さく描かれていた。


 もうとっくに夜は更けているのに、絵が完成し切ってしまうほどの時間が経って、それでも誰かが玄関を叩く気配さえ皆無だった。由依はその絵をランドセルから取り出した簡易的な箱に入れて、父親がいつも使っていた机の上へとそっと置く。そして物置から布団を取り出し、一応といった感じで三人分の寝床を用意した。

 もう諦めた様子で布団を被る彼女。眠りに入るかと思われたその時、古めかしい玄関の悲鳴のような蝶番ちょうつがいの音がして、扉が開いた。時刻は十二時を回っていた。


 由依は飛び起きて、音の方を確認する。帰ってきたのは、片手に鞄を下げたスーツ姿の祐希だった。だがその目には光が宿っておらず、足元もなんだかおぼつかない。彼は頭を深く垂れて俯いたまま、ほぼ寝ているような状態で歩を進める。帰ってから言葉を一切発することなく玄関を開けたその足でそのまま風呂に向かおうとしており、そんな彼の元に由依が歩いてきた。帰ってきた嬉しさだろうか、彼女はほんのり笑みを浮かべながら彼に話しかけて。


「おかえり、パパ。ねえ、ちょっとこっち来て。パパに見せたいものがあるの」


 彼の腰ほどまで大きくなった背だったが、まだまだ見上げるような視線だった。そんな幼気いたいけな彼女から発された言葉。だが彼はそれに応えることもなく、ただ風呂場の方へとゆっくり足を進めるのみ。鞄を置く、ではなく落とすように床へと転がし、目線はただ進行方向を見ていて。


「パパ? 聞いてる? ちょっとこっち来てってば」


 彼の進みに合わせて、彼女も歩く。必死に目を合わせようとしながら顔を上げ、目の前の父親に呼びかける。だが返事は無い。彼女は遂に歩いている彼の腕を両手で掴み、体で引っ張りながらより大きな声で呼びかけた。


「ねえパパ! こっち来て! ねえこっち! ねえ! ねえ!」


「うるっさいんだよ!!!!」


 その時、怒号が響いた。驚いて彼女は思わず手を離す。彼は彼女を見ているのか、それとも声がした方をただ見ているだけなのか。はっきりとしない虚空を強く睨みつけたまま、がなるような声を吐き出して。


「しつこいんだよ!!! 何回謝れば気が済むんだ!!! 何度も何度も僕に突っかかって来やがって!!! 全部、全部うるさい! 僕に近づいてくるな!!!」


「…………パ……、パ……?」


「大体なあ! お前のことなんかずっと嫌いだったんだよ!!! 自分勝手で人のことを考えようともしないお前が!!! もう顔なんて見たくない!!! 分かったら僕からさっさと離れてくれ!!!」


 はぁ、はぁ、と肩を揺らしながら彼は息を切らす。由依はただただ唖然としていた。見上げたその顔は父親なのに、父親ではないというような困惑の混じった顔。遅れて、静かに涙が彼女の頬を伝っていく。喚くでも、叫ぶでもなく、何も言わないまま涙だけがぼたぼたと床に落ちる。音がするほど。


 そこで彼はやっと、我に返った。険しい表情であることは変わらないが、どこか祐希らしさが戻ったことがなんとなく分かるそんな顔つき。彼は目の前の由依に焦点を合わせると、震えるような声を漏らす。


「……あ、ああ…………。ゆ、由依か……!」


 彼女の流す涙に彼が気づいたのは、その直後だった。慌てるように両手を前に出す祐希。先ほどの怒号からは想像の出来ないような優しい声を、目の前の愛しい娘にかける。


「ち、違うんだ由依…………! い、今のは……!」


 そう言って彼が一歩、近づいた時。由依は無意識に後退りしていた。首を横に振りながら口をただパクパクさせて、彼が近づく度に呼応するように彼女は離れる。祐希は目を見開いたまま、指の先を震わせていた。


 抵抗むなしく、彼女は後退りの勢いのまま走って、奥の部屋へと入ると襖を力に任せて閉めてしまう。机の上に置いてあった絵の入った箱を自分の手に収めると、彼女は何も入っていない物置の中へと閉じこもる。そこで彼女は顔を俯かせながら、箱ごとその絵を跡がつくまで強く抱きしめていた。それはまさに今隣でタプを抱擁する彼女の姿と一致していた。

 襖の隙間から見えた祐希は玄関で膝から崩れ落ちていた。天を仰ぎ、切れかけの電灯で顔が照らされる。その時、彼は笑っていた。笑顔ではない、口角を上げているだけのそれ。同時に、彼は泣いていた。体の力は全て抜け、床に情けなく垂れてしまった両腕を伝い、その涙は鞄まで流れていった。


 虚しく。フィルムは、機械的に回転する。暗闇の部屋。玄関の開いた音がした後、すぐにスイッチが押されたようで一番手前の部屋の電気のみが点く。帰ってきたのは、赤いランドセルを背負った由依。ランドセルを床に置くと、彼女はそれを開けてその中からくしゃくしゃになった箱を取り出す。

 中央の部屋の電気をつけてその箱を机の上に乗せる。開けるとそこにはやはりあの祐希の描かれた絵が入っていた。彼女はそれをじっと見つめる。そして、大きく頷く。


「あの日、結局渡せなかったんだ」

 

 隣の由依が薄目を開けながら呟く。集中していたはずの彼女の突然の言葉に、九華は戸惑いを見せる。


「聴いてなくて……いいの?」


「全部頭にこびりついてるから。見なくても、なんなら自分の覚えている記憶だけでも記事は書けるっちゃ書ける。だけど、やっぱウチもう一度ちゃんと向き合わなきゃいけない気がするんだよね、この目でしっかりと」


 タプが由依の顔を見やる。言葉の余韻。彼女は初めてこの空間で顔を見上げ、はっきりと記憶と向かい合っていた。まるで流れる過去に太刀打ちするように。


「不思議と次の日には渡そうと思ってた。あんなに怖いパパ初めて見たのに、でも、せっかく描いたんだから渡さなきゃだめだって」


 彼女の視線を追って、九華は映っている記憶に視線を動かす。そして、目撃した。それは、記憶の中の由依が絵を手に持ち、奥の部屋の電気を点けたときだった。


 パチン。


 もう切れかけの天井灯が点滅しながら徐々に部屋を光へと包んでいく。由依が父親がいつも使っている机の上に絵を置こうとした刹那。そこに、誰かが立っていることに気づく。爪先立ちの足。彼女は不意に上を見上げた。

 いたのは、父親だった。いつも仕事に行く際に着ていた紺色のスーツ姿。だが、その日は少しだけ着こなしが違かった。いつもなら首から垂れ下がっていたはずの青ネクタイが、首を巻くようにして天井から垂れ下がっていた。


「パパ……?」


 由依は、彼の青白くなった顔を見て言葉を詰まらせる。まだ困惑の表情を浮かべたまま、彼女はゆっくりと机に近づく。触り慣れた足にそっと手を伸ばしてみて。。


「ねえ……、パパ」


 わずかに体に触れると、彼の体は左右にまるで振り子のように揺れた。ささやかな反復運動。それだけの衝撃でネクタイは外れ、そのまま大きな音を立てて彼は机の上に崩れ落ちた。四肢はそれぞれ好きな方向を向いて、もう正常な人間のそれでは無い。彼はもう、父親の形をした傀儡だった。

 彼女はいくらか呼びかける。彼の肩を叩いて。彼の目に持っている絵を近づけて。だが、今度は怒号すら飛んでこなかった。由依がやっとそれに気づいてしまった時、彼女は絵を床に落とし、自身も座り込んだ。


「…………う……、うぅ……。…………うわぁああああああん……! …………うわぁああああああん……!…………うわぁあああああぁ……!」


 耳をつんざく心の叫びが、部屋の空気を震わせる。絵に落ちていく雫が、一つ、また一つと増えていく。それでもクレヨンは水を弾き、父親の姿を崩すことは無かった。しかしそれが今目の前で倒れて四肢が曲がってしまった彼の姿を、より悲惨なものにさせていて。


「まっじかよ……」


 睡方が、思わず口から溢したのがそれだった。九華の指先はただ震えているばかり。とっくに書いてなどいない。目の前で巻き起こるこんな悲惨な状況を記すなんて、とても彼女には出来なかった。書くということは、一度頭で光景を飲み込み、それを言葉にするという咀嚼の過程も含む。彼女の本能は、それを拒んだ。それが全てだった。

 想汰は何も言葉に出さずとも、顔はわずかに由依の方を見ていた。だが視線の先の彼女は、腰を据えて立ち尽くしたまま変わらず記憶と無いはずの目を合わせていて。


「…………ごべんなざぁい……! …………パパ……! ごべぇん……!」


 幼き彼女の慟哭は、終わることを知らなかった。フィルムが進んでいき、早送りのように外の景色が流れていく。かけてある壁時計の針が回り、廻り、由依が帰ってきたばかりの十六時からすぐに十七時、十八時、十九時……と無常にも時間が経つ。彼女は部屋の中心で床に座り込んだまま、泣き続ける。二十時、二十一時、二十二時、二十三時……。

 もう声が枯れてしまって、それなのに掠れた吐息を未だ吐き続けて。月明かりが窓から差し込み、彼女とその目の前の遺体を照らす。そして、遂に日付が変わった頃。


 玄関の開く、軋んだ音がした。帰ってきたのは、ブランド物で全身を纏った美香だった。家の風貌に似つかわない真っ赤なヒールを脱ぎ、カールのかかった髪を揺らしながらその長いつけまつげを人差し指で弾いている。奥の部屋で涙を流している由依を視界に入れると、自然と舌打ちをして。


「うっさいなぁ……。なんなのよ……!」


 黙らせようとしたのか、彼女の元へと美香は歩いていく。彼女の頭を掴むが、そこで由依の視線の先にいる倒れた遺体を目撃する。一瞬、動きを止めた。そして立ち上がり覗き込むようにして誰の遺体かを確認すると、美香は頭を激しく掻き始めた。


「はぁ……。めんどくさ……」


 携帯を取り出すと、彼女はすぐに電話をした。風呂を沸かしながらだった。


「あ、もしもし警察ですか!? 家に帰ったら夫が死んでて!」


 今、見つけたような口ぶり。外向きのワントーン高い声を上げながら、彼女は警察との会話を進めていた。焦っているような言葉を並べる彼女の手にはリップが握られており、それを電話中もずっと上に投げて、キャッチして、を繰り返しているという全てを包含して現実離れした空間になっていた。


 フィルムは回り、その光景は遠ざかっていく。そのフィルムもとうとう擦り切れ始め、画面上の所々にノイズが走り始める。投影。


 次に映るのももちろん、彼女の家。壁の時計は二十三時を回っている。そして決まったように由依は、一人きり。もう彼女の部屋というより、彼女の家と言っても差し支えないほどであった。

 その時の由依の背は更に伸びていて、もうほとんど九華が中学校で出会った頃の様相と近しかった。彼女はランドセルからドリルと筆箱を取り出し、宿題をこなしている。紙面上の漢字の比率の増加がささやかに上級生への移り変わりを示しており、彼女のある程度落ち着いた様子を見るに、先ほど見たからもいくらか月日が経ったようであった。


 玄関が開く。九華はもはやその音と情景を結びつけて嫌悪感を覚えてしまい、反射的に片手で耳を塞いでいた。帰ってきたのは、いつも通り派手な格好をした美香。由依は視線を宿題から離さなかった。恐らくもう帰ってくる人の選択肢が減ったからなのだろう。

 だが、その日は美香の後ろに続くように足音がした。やっと由依は顔を上げる。そこには人の影があった。彼女が靴を脱いで玄関を上ると、続いてその何者かが姿が表す。


 女性にしては身長の高い美香を、頭一つ分超す大柄の中年男性。赤いネクタイが特徴的な色褪せたスーツ姿の上から黄土色のロングコートを羽織っており、両手をポケットに突っ込んでいる。彼女と喋りながら何の気なしに入ってきた彼は由依を見ると、眉毛をぴくりと上げて笑みを浮かべながら、まるで旧知の仲のように優しく声をかけてきた。


「君が美香さんとこのお子さんか〜。確か……、由依ちゃんだっけ?」


 由依は視線をすぐさま逸らす。本当に知らない人、といった困惑した表情。返答を言おうとしているのか口を不規則に震わせるが、そこから言葉が出ることは無かった。「いいから」と彼に言う美香はしどろもどろになっている彼女に、近づくと唐突に一万円札を差し出して。


「これ。渡すからさ、ちょっと何時間か外出ててくんね。いいって連絡したら帰ってきていいからさ」


「えっ……、えっ……。いや…………」


 由依は時計、それから窓の外に視線をやってからもう一度美香を見上げる。彼女の表情は一切変わっていなかった。自分から受け取れ、と言わんばかりの威圧感。そんな中、後ろにいる未だ正体の分からない中年の男性がコートを脱ぎながら美香の隣に来て。


「いやー、いいんじゃない? だって、小学生夜に一人で歩いてたら多分警察に声かけられちゃうよ。そしたら美香ちゃんも俺も面倒くさいことになっちゃうよ」


「えー……、でも……」


 美香が声色を変えて、まるで媚びるように上目遣いをする。男は差し出していた一万円札を彼女の手の中へと戻してやった後、腰にその隆々とした手を回して言った。


「俺はこんな時間も勿体無いと思うけどね」


 彼に目を合わせられた彼女はあっさりと頷くと、睨むような目に変わってすぐさま由依を奥の部屋へと追いやった。美香が物置を開けると、彼女は初めて自分で布団の用意をした。奥の部屋に由依用の一つ。中央の部屋に二つ。敷かれ終わったら、中央の部屋と奥の部屋とを隔てる襖は勢いよく閉められた。


「さっさと寝なさいよ」


 閉まる直前の襖の隙間から聞こえた、美香の声だった。由依は雑に退けられたドリルと筆箱をランドセルに詰めようとする。しまう時に筆箱から溢れたカッターが畳に落ち、安っぽい音を立てると、彼女はそれを握ってじっと見つめた。


「もう……、しない……。ウチは決めたんだから……」


 微かに呟きながら彼女は首を横に振ると、カッターを筆箱の奥に拳ごと突っ込んで強く押し込んだ。そのまま全てをランドセルに詰めて枕元にそれを置くと、言われた通りに部屋の電気を消し、すぐに布団に入った。


 父親がいた頃にはあった破れかけのカーテンが、気づいたら無くなっていた。彼がいなくなってからは買い足されることもなく、部屋を照らす月明かりを拒むことが出来ない。無情にもそれが照らしていたのは、今はもう壁に足を向けて横に倒れている父親のテーブルだった。


 彼女は目を瞑ったり、開けたりを繰り返す。寝つこうとしても寝付けない様子。不意に父親のテーブルを視界に入れたと思われた時、彼女は枕に顔を埋めていた。しばらくして、襖を隔てて中央の部屋から音が漏れてきた。


 リップ音だった。それも、何回も。長い一回が、場を支配する時もあって。


「ちゃんと、払ってよ」


「もちろん。今更信頼してないのか?」


「……いや。今日はいつもより高くしてもらえるかなって、ほら」


「ふっ。やけに気合い入ってるんだな」


 甘い声。乾いた声。ドスの効いた渋い声。艶かしい声。リップ音。襖越しでこもっていたが、それでも確実に部屋を貫通して聞こえてきていた。それらの音は時間を経るにつれて着実に段階を踏んでおり、故に情景を優に想像させ。由依は布団を頭から被り、その布団の上から耳を抑える。体を縮こまらせ、必死に苦痛を逃すように全身を小刻みに震わせて。

 それは、ほとんど朝まで続いた。彼女の腕にはずっと力が入っていて、血管が浮き出るほどだった。


 回転。

 

 点滅。恐らく、やっと、最後のフィルムだ。映る景色。それは、一瞬。見慣れた部屋の天井灯が時々点滅し、その度に家の中を暗闇が覆う。部屋には遂に中学校の制服を見に纏った由依と、その隣に喃語を口走る幼子が座っていた。

 彼女はその幼子の小さな両手を持ち、揺らしている。あやされているのか幼子は無垢な笑顔を浮かべており、楽しげに身を捩らせる。その様子を見て、由依は確かに笑っていた。だがその目の奥にある灯火がうっすらと揺れ始め、消えかかっているのも確かだった。


「ママ……、帰ってこないね……」


 幼子をあやす彼女の背後にかかっている壁時計は、もう二十三時を回っていた。フィルムに入るノイズ。由依の最後の言葉だけがこだまして、九華の耳はその余韻で震えていた。そしてオーロラのスクリーンは塵となって空気へと舞っていき、跡形も無くなっていった。

 白い霧、渦、光、が一斉に四人と一匹を包み、九華達を元の社へと戻す。先ほどまで見ていた場所に自分が立つ感覚。記憶に入る前より薄暗く感じられるその部屋の真ん中で、一つの石像が倒れて粉々になっていた。塵の山は、由依の父親が座っていた座布団の上にあった。



 四人は、立ち尽くしていた。今まで流れていた記憶の余韻。呆然とせざるを得なかった。初めて声を出したのは、隣にいる睡方が恐る恐る。


「あの赤ちゃんって……」


「ウチの妹だよ。萌香もか。まだ、二歳とか」


「一人で育てていたのか?」


 想汰が口を挟む。


「半分、かな。ママは基本的に日中いて夜いないから、学校が終わったらすぐにウチが家に帰ってお世話って感じで。たまにママの出勤時間が遅くなる時があって、その時だけ新聞部に行ってたっていう……ね」


 机の上に乗ったタプが、由依の顔を見上げている。口振りさながらにどこか体を縮こまらせていた彼女は、振り返ると三人の方を向いて、突然深く頭を下げた。


「今まで黙っててごめん! みんなには言ったら変な心配させちゃうと思ってずっと隠してた! だから新聞部の活動あんまり行けてなかったの、本当にごめんなさい!」


 ごめんなさい。九華はその彼女の言葉を聞いた途端、自分でも分からないが徐々に全身が震え出した。右腕の震えを見ながらそれをもう片方の手で強く握り、震えを止めようとする。だが、頭の中では先ほどの由依の記憶の映像が頭の中でずっと反芻していて。その度に声が、罵声が、慟哭が脳に直接響いてきた。


「…………ごべんなざぁい……! …………ごべんなざぁい……!」


「なんであんたはあたしをイライラさせるのよ!」


「大体なあ! お前のことなんかずっと嫌いだったんだよ!!!」


「甘いのよあんたは! そんな弱音ばっかり!」


「愛してなかったらなんなのよ」


「由依は、パパがいるだけで十分幸せだよ!」


「……もう、黙っててくれ……!」


「…………うわぁああああああん……! …………うわぁあああああぁ……!」


 九華はえずき始める。流れていく記憶、そのどれもが鮮明で、残酷で。幸せだった頃ほど、今となっては思い出すほど苦しくなって。締め付けられるような痛みが背中から広がっていく。つんざくような強い痛みを胸の辺りに直接感じて、彼女は思わず手で患部を押さえるが。


「ぐっ……! ぅ、くっ……!」


 彼女の意識は一瞬途切れ、視界が真っ暗になった。そして気づいたら全身がバランスを崩し、床へと倒れようとしていた。それに即座に気づいた睡方が持っていた神聞紙を投げ出して、両手を落下地点へと差し出す。


「九華!」


 彼女の体は、彼によって受け止められた。想汰、遅れて頭を上げた由依も駆け寄ると、睡方はゆっくりと床に彼女を座り込ませる。「ありがとう」と消え入りそうな言葉を彼に漏らした時も、九華の頭の深部ではずっと記憶が流れていた。襲いかかる痛みにうめき声を上げそうになるが、それも含めて必死に胸を掴んで我慢する。優しく睡方が語りかけ。


「前の時みたいにまた、声が聞こえたのか?」


「いや、違う……。 大丈夫、ちょっとさっきの記憶を思い出しちゃって」


「さっきのって……、もしかして、ウチの?」


 彼女が声を震わせたのを感じて、九華はしまったと思った。それゆえに返事は声ではなく、小さく頷いて控えめに返した。痛みが再び体を襲う。部屋の壁にもたれていなければ耐えられない程の状態。だが、視界の中に床へと落ちた神聞紙が見えた時、九華は再び体を立ち上がらせようとした。その時も体はふらつき、今度は由依に支えられ。


「無理……しないでよ。九っち、すごい苦しそう」


「だい……、じょうぶ。それより……、あれ。まだ、書き終わってないの。私がやらなきゃいけないから……、」


 手で神聞紙を指す。由依はそれを見てから彼女の顔を見ると、今度は無理やり九華を座らせた。


「ウチが取ってくる。だから、じっとしてて」


「大丈夫だって……」


「いいから」


 由依に強く言われて、九華はやっと床に再び座り込んだ。部屋を歩いていき、神聞紙を拾う由依。わずか数メートルの距離。絶対に自分で取りに行った方が早いのだが、それでも彼女はその距離を往復し、九華の手に神聞紙を優しく差し出す。


「……ありがとう」


 改めて一面を見る。四分割された紙面。三つが青く光っていて、最後の一部分はまだ三分の一も書けていなかった。座りながらも右手を挙げ、紙面上に滑らすように文字を記していく。頭に流れる情景を言葉に。そしてそれを紙面に。出来るだけ、鮮明に。

 途中で再び指が震え始める。字を構成する一つ一つの線が波線になってしまって、一度崩れた瞬間ドミノのように全てが崩壊していく。戻らない日常、父親の死、家族という構造での束縛。文字にすると簡単だが、九華にとってそれは余りにも重すぎるものだった。


 由依はしゃがみ込むと、震えている彼女の手を優しく握った。


「…………一緒に、書こう」


 温かった。由依がゆっくりと自分の手を動かすのに、九華の手もついていく。一文字。また、一文字。丁寧というには、余りにも遅すぎるスピードで筆は進む。それでも、一歩ずつ確実に進んでいた。光が紙に染み込み、文字となってジンと熱くなる。

 文字は紡がれることで文章になり、情景へと変わっていく。想像される彼女の記憶が再び頭に蘇り、痛む。それでも当事者の彼女は筆を止めずに、書き続けており。


「時原さんは、強いんだね」


 言ってから初めて、涙混じりの声だと気づいた。由依は俯きながらも筆を動かし、答える。


「強くなんか、ないよ。やっと慣れてきたってだけ」


 睡方と想汰もその様子を目で追いながら、静かに見守る。緩やかに、しなやかに紡がれていく彼女の手の動きから、九華は自分と彼女が半分ほど一体化したような感覚を覚える。握られる手の力が、少し強くなった気がして。


「ウチ、新聞部好きなんだ。文字書くのとかっていうのは、あんま得意じゃないんだけどね。なんか、あの部室の雰囲気がもう一個の家って感じがするの。それは多分このメンバーだからで、楽しくて、いるだけで心地よくて、なんでもやって良い気がして、心から笑える場所なんだ」


 もしもこれが、鉛筆だったら筆圧が濃くなっていただろう。そんな更なる力強さを、九華は手に感じた。


「みんなには、感謝してる。そして、その環境を作ってくれた九っちにも。ウチの居場所を作ってくれて、ありがとう」


 記事に、最後の句点が打たれた。四分割された紙面が一斉に点滅する。青い光が全体に行き渡った神聞紙は一瞬空間を真っ白に染めるほどの眩い光を放った。四分割されたそれぞれの文章に、目を通す。部員の記憶が、想いがそこには詰まっていて、それは文字以上の意味を為していた。


「時原さん……、ありがとう」


「ウチは、何もしてないよ」


 困り笑顔だったが、久しぶりに見た彼女の微笑だった。その表情が九華の頭に流れる記憶に、薄らとカバーをかけるように蓋をした。睡方は見下ろすように、紙面を覗き込む。腕を組んだまま立ち尽くす想汰も後ろから神聞紙に目をやっていて。


「遂に……、全部埋まった」


「後は、一人を決めるだけだな」


 想汰の言葉で思い出す。一人を、決める。この世界に残り、神様になる一人を。その事実が、彼女へと強くのしかかった。三人の顔へ視線を動かす。大切な部員、大切な友達。そして自分。この中から一人を選ぶ。そんなの。

 睡方、想汰、由依、それぞれは違う方向を向いていた。わざと目を合わせないようにしているその表情は苦虫を噛むような雰囲気を醸し出していて、一瞬の沈黙を誘った。想汰が仕方なく、といった感じで言葉を続ける。


「……とりあえず。部長は、立てるのか?」


 言われてみて、手で床を押してみる。だが、自分の力では腰が少し浮いただけで、再び地面への強い重力を感じて座ってしまった。少し治ったとはいえ、全身の倦怠感や疲労感は未だ残ったままでその余韻も大きく、全体的に力が出なかった。


「ごめん。今は、無理かも」


「……そうか」


「待って、ウチが肩貸すよ」


 由依は率先して九華の腕を持ち上げ、肩に乗せてそのままの勢いで立ち上がらせる。難なく立ち上がれた彼女はまだフラフラとしていたが、それも由依が支えてくれていてなんとか歩けるようにはなった。その様子を見て彼が腕組みを解き、玄関の方へと歩き出そうとした時だった。


「タプ! タプタプ!」


 タプが突如激しく吠え出す。繰り返されるその鳴き声は、奥の部屋の方向へ響いてた。想汰が初めにそちらに体を向けると、三人も遅れてその方向へと視線を移す。そこには、部屋を埋め尽くすほどの大きさの黒い渦が蠢いており。


「なんなんだ……、これ……」


 まるで、裂け目。その広がっている漆黒は、段々と自分達に近づいてきていた。想汰や二人が困惑を見せる中、九華はこの渦、いやこの裂け目に既視感を感じていた。どこで見たのかと思い出そうとした刹那、その裂け目は突如スピードを上げ、四人と一匹の体を一瞬で飲み込む。

 声も出ない叫びのまま黒い光に包まれて次に目を覚ました時、四人と一匹は塵の降り注ぐ見慣れた灰白色の世界、それもツカイに会った芽留奈市を再現した場所に立っていた。


「戻って……来たのか……?」


 その場を歩きながら周囲を確認する想汰が呟く。気づかず彼の足元に当たった何かが倒れて。それは、ツカイによって置かれた期日を示す時計だった。


 針は、残り三日を示していた。

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しんぶんしぶ 氷星凪 @hapiann

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