第5話①:五墓日
決して心地良くは無い、体の揺れ。公共交通機関に乗っている時のような規則的な揺れなんかとは程遠く、それは乱暴で無邪気なものだった。タプに乗って数十分。未だに彼と呼べばいいのか、彼女と呼べばいいのか分からないその桃色の丸々とした体は九華を含めた四人を乗せて、最後の社へと向かっていた。
彼女はまだ『眼』の社で見た光景が頭にこびりついたままで、頭を抱えたままだった。社から出てきた記憶もそこまで曖昧で、今も気づいたらタプに乗っているという感覚。目の前にある想汰の背中に、ただ視線を落としながら到着を待つ。無闇に力を抜いていると地面に落とされてしまうから、それとなく足に力を入れ続けて。
「これが由依……さんの、家?」
「……そう」
隣で睡方が呟いたのに、由依は首を傾げながら細々と返す。目の前に聳える『耳』の社。いや、聳えるという表現はお世辞になってしまうかもしれない。
建っていたのは、こじんまりとした二階建てのアパートだった。見えるドアから察するに一階と二階にそれぞれ部屋は五つずつ。平屋かつ簡素なデザインの様相は、最近に建てられたものではなく、少なくとも二十年前には存在したであろう年季の入ったものだと思われる。
備え付けられている緩やかな階段は、段数の節々が抜けていて上るには注意が必要になりそうな印象。想汰の家のタワーを見てしまった後だからか、そもそもの建物自体が余計に小規模に見え、立っている由依もどこか体を縮こませているように見えた。
「ウチの部屋は……あそこ。一階の、右から二番目の」
「よし。行こう」
想汰が呟き、四人が足を進めようとした時だった。近くで座っていたタプが突如大きな鳴き声を上げたと思ったら、その自慢の脚力ですぐさま由依の前へと寄ってきた。
「タプ! タプタプ!」
「え? どうしたのタプちゃん? なんかあった?」
「タプタプ! タプ! タプゥ!」
二つの前足を地面から上げて、何かを必死にアピールするように空気をかいているタプ。彼女の足に何度もその前足をつっつかせるため、由依はしゃがんで話を聞こうとするが、タプはずっと荒げた鳴き声を響かせている。
想汰が九華に視線を送ってくるが、彼女は首を振る。睡方も頭の後ろに手をやって吐息混じりの声を漏らし、由依は「どうしよう」というような困り笑顔を浮かべながらタプの体を撫でていて。
「タプ!!! タプゥーー!」
「あ、ちょっとタプちゃん! 待って!」
鳴き声との押し問答が続くのかと思われた矢先。タプは堰を切ったように、突然社の方へと走り出していった。慌てて由依が、その足跡を追いかける形で走り出す。遅れて三人も彼女の後ろについて行き。
近くで見た社は、最初の印象よりももっと古ぼけたように見えた。灰白色の外壁は所々がひび割れていて、表面を優しく触れてみただけで破片がボロボロとこぼれ落ち、手の先端には粉が残るような状態だった。
タプは、由依が自分の家と言っていた一階の右から二番目の扉の前でその歩みを止めた。ドアノブを掴もうとしてるのか、その小さな体躯をなんとか跳ねさせて体を宙に浮かし、必死に前足を伸ばしている。
遅れて追いつき、由依はそんなタプを腕に抱き抱える。「勝手に飛び出しちゃだめでしょ」と強くも優しく言った彼女の目を見ながら、タプは腕の中で手足をジタバタとさせる。その様子を見て、睡方は思い出したように口を開いて。
「あれ……? そういえば、タプっていつも社に近づくこと出来なくなかった?」
「確かに……。ウチ、夢中になって追いかけてたけど。てことは……今回はタプちゃんも一緒に行けるってこと?」
「タプタプ!」
「いや待て。ここはアパート、君以外にも住んでいた人はいたはずだ。故に、この建物自体が社とはまだ言えない。恐らく対象になるのはこの部屋の中。君の家の中に入ってみないと、その真偽は証明されない」
想汰に目を合わせながら話を聞いていた由依が、彼が言い終わったのと共にゆっくりと目の前の扉に視線を移す。彼女は扉をじっと見つめてから、沈黙を置く。その沈黙を経る度に、徐々にだが彼女の呼吸が荒くなっているのを、音、そして体の動きから感じられて。
「……なんか、ちょっと忘れてた。今まで人の家ばっか入ってたからなんかそういう気持ちで来てたけど。そうだよね、ここ、ウチの家なんだもんね。そうだよね……」
彼女は俯いたり、天を仰いだり、どこか落ち着かない様子を唐突に見せ始めた。腕に抱かれたタプが大人しくなり、代わりに心配そうに彼女の顔を目で追っている。
それは彼女の隣に立っていた睡方も同じだった。深く俯き、顔の下半分を手で覆うように触る由依。肩が上、下、上、下と大袈裟なぐらい動く呼吸を見つつ、想汰はわざと彼女の目線とは少し外したところを見たまま。
「大丈夫か?」
「……ちょっと待って。いけるから。絶対行く。大丈夫。だから、一旦ちょっと待って……」
息切れ気味の声に、九華は段々と胸が痛くなってくる。無いはずの目が潤んでくるような感覚。理論なんかじゃなく、勝手に体の中でそれが行われていってしまっている。
なぜ。まるで、自分の体じゃないみたいだった。誰かに勝手に動かされているような。自分が泣く必要なんてない。だって今目の前で苦しそうにしているのは彼女で、九華にとってここは初めて来た場所で。
「よし、いける。みんな行こう」
「由依さん……」
睡方の嘆くような声に、由依は彼の方を向いて大きく頷く。それを見て彼は、次にかけようとしていたであろう心配の言葉を音を鳴らして飲み込み、返すように大きく頷いた。由依は腕に抱えたタプの鼻を、人差し指で突っついて。
「タプちゃんも」
「タプ……」
「ウチは大丈夫だから! 心配しないで」
彼女の言葉を受けて、タプもこくりと頷く。由依は想汰、九華に目を合わせた後、もう一度大きな深呼吸をした。丸々としたドアノブを右手に力強く掴み、それをじりじりと捻っていく。腑抜けた金属音のようなものを響かせながら、最後まで捻り切ると彼女は勢いのままに扉を開けた。
風圧を少し顔に受ける。視線の先に続くのは小さな玄関、そして奥に続いているであろう部屋と玄関入ってすぐの小部屋を仕切っている白いカーテン。タプを抱いた由依は中に入っていき、遅れて想汰も部屋の床を踏みしめ。次に睡方が入る、と思った瞬間。彼は突然振り返って、九華の方を向いて言った。
「お前……大丈夫か?」
「……え?」
何の気無しの表情、には見えなかった。いつもみたいに思ったことをすぐに口に出すような雰囲気ではなく、強い意志のこもった口ぶり。突然の言葉に困惑し、九華は思わずたじろぎながら。
「な、何急に。大丈夫って……」
「ほらなんか、なんだろう。さっきから口数少ないっていうかさ、ちょっと元気ないみたいな感じ。ほら、前の社でのこともあるし……」
自分の頭を触りながら、睡方は呟くように言葉を並べた。その簡素な口ぶりに反して、彼の言葉は彼女にとってどれも的を得ていたため、九華はまるで心を見透かされているようで小っ恥ずかしくなった。それも、よりにもよって睡方に。
いつも無知だと馬鹿にしている奴に心配され、更には図星を突かれてしまったのが悔しく、九華は即座に顔を作り、俯き気味だった顔を無理やり上に上げる。
「べ、別に? あんたなんかに心配されるほど、へばってなんかいないわよ……! ほら、最後の儀式でしょ! さっさと行きなさいよ! あんたはいつも変なとこで突っかかるんだから」
「……あ、ああ。まあ、大丈夫ならいいんだけど」
そう言って彼は、部屋に入って行った。この広大な大地に一瞬だが、一人になる瞬間。少し強く言い過ぎてしまったと思った後に、いつものように強く言い返してくれなかった彼に対し、勝手ながらひしひしと寂しさを感じてしまった。そんな自分に、また少し驚いた。後を追うように彼女も部屋へ入り。
「友達とか入れるの初めてだからさ。三人もいると流石に……狭いよね」
「タプ!」
「タプも……入れたみたいだな」
「そだ……ね。じゃあタプちゃんも入れて、四人のお客さんってことで」
不思議そうに頭を傾ける想汰を尻目に、由依は床にそっとタプを降ろす。当たり前なぐらいに灰白色の光景。表面がある程度滑らかで、恐らく元の素材は木だと思われる床を踏んで、九華達は部屋の中心に立っている。辺りを見回す際に、床をテチテチと自由に歩く桃色の体が目に入ってしまう。
玄関を上がってすぐ左に洗濯機。手前側の壁に沿って置かれているそれの隣にはコンロとシンクのくっついたキッチン。そしてそこから左側の壁に沿うように、食器棚、冷蔵庫といった感じで、奥の部屋とを隔てる襖に向かって直角に隊列を組んでいる。その姿はあまりにも窮屈で、冷蔵庫に至っては側面と襖の隙間が一切無く、扉が本来の機能よりも半分しか開ききらないほどだった。
入ってすぐ右には部屋がほとんど浴槽で埋まってしまっている浴室。脱衣所は無く、浴槽も二人が入れて限界といった感じの大きさだった。そのすぐ隣の部屋にはトイレ。いずれも一部屋に一つの役割といった、遊びの無い最低限の様相。
これらの設備が基本的に玄関を上がれば、視界に全部収まる。数歩足を進めれば冷蔵庫を開けることも出来るし、風呂場に入ることも難しくない。つまり、そういう規模感の広さというわけだ。生活に最低限必要な機械、設備を壁沿いに詰め込み、真ん中に、この四人が若干体を触れ合っていなければならないほどのスペースを確保している。そのため由依の窮屈という言葉にも、本意では無いが心の中で首を縦に振らざるを得なかった。
「まあ……、たし……かに狭いかもしれないけど、でもそれはここに集まりすぎてるからっていう気がするんだよな」
「……ありがとう、睡っち。別に気使わなくていいよ。もうウチは慣れたけど、やっぱり……狭い。タプちゃんもいると、尚更。だからちょっとここ開けちゃうね、うち吹き抜けだからさ、ここ開けたら多少は広く感じられるかなって思うし」
睡方、また他の二人の目を見てから、由依は眼前の襖の持ち手に手をかける。スルスルと床と襖が擦れる特有の細い音がして、そこが
今度は長方形の部屋。先ほどの玄関すぐの部屋と違って、常設のトイレや浴室、キッチンが無い分、より横幅が広く感じられる作りになっている。とは言ってもだだっ広いなんてことは無い。
寧ろ縦幅は先ほどの部屋よりも若干短くなっており、視線の先にはまたすぐ襖があるような状態だった。何より、足で踏んでいるこの床の感触。灰白色の色味で分かりづらくなっているが、これは井草だ。故に畳、つまりここは和室。
築二十年以上はゆうに超えているだろうといったような古ぼけた雰囲気を再確認させてくれるその部屋の真ん中に鎮座するのは、床に直接置かれた四つ足の大きな四角いテーブル。その四辺のうち三辺に沿って床に座布団が置かれており、一つは無人、あとの二つには石像が座っていて、その二人は机を隔てて向かい合っていた。
「恐らく……、これなんだろうな。時原の、身内……」
「タプ〜!」
「あ、バカ! タプ! 待て!」
部屋で走り回ろうとするタプを押さえつけるように、睡方が体全体を使って桃色の体を囲み、その動きを腕の中に収めることに成功する。
「タプ! タプ〜〜〜!」
「逃がさないぞ……! 壊されたら……、たまったもんじゃないからな……!」
必死に抱え込み続ける睡方。恐らく腕の中で暴れているであろうタプの動きが容易に想像出来るような彼の唸り声が部屋に響く。
そんな中、想汰は我関せずといった形で一方の石像の顔を覗き込む。彼が見ている石像は、胸まで伸びているロングの髪型は毛先がカールしており、よく手入れがされている。目には花が咲いたような大仰なまつげが象徴的で、鼻は高く、唇は程よく丸々としている。細身の体躯や顔つきから恐らく女性だろうと推測でき、加えてチヤホヤされたであろう学生時代を想像できるような美貌であった。
街の風景の柄が入った白Tシャツの袖をまくって着ており、それにジーパン生地のハーフパンツを合わせるだけで様になっている。あぐらをかいたまま机に頬杖をつき、目の前に座っているもう一人を睨みつけながら、口を大きく開けるその姿。頬杖をついている方と反対の手は目の前の人を指差しており、彼女の姿は不思議と轟く声が聞こえてきそうな、そんな強い迫力を持ち合わせていた。
想汰が見やる中、九華は壊してしまわないように注意しながらもう一方の石像へとゆっくり近づく。同じくあぐらをかいて座っているその姿を、頭から足までをなぞるようになんとなく目で一往復させて。
前髪が少し眉毛にかかるほどのショートの髪型。一方の彼女と違って整えられているというよりは自然な雰囲気で、所々に跳ねっ毛が見えている。半袖ワイシャツに長ズボン。少々地味とも思える格好が痩身を隠しており、頬骨が浮き出た顔は彼女の言葉を受け流すように苦笑いを浮かべていた。
細めている目。何かを押し殺すように唇に力が入っているのが、石像なのに伝わってくる。机に乗せられた両手は、お互いの手の甲を指で触っていて、目の前の状況からどこか意識を逸らそうとしているようだった。
弱々しさを全面に見せている雰囲気。それでも、顔つきの奥にはどこか男性的な造形が隠しきれず、九華はその石像を「彼」と呼ぶことにした。そんな、身勝手な判断を下した途端。
「それは……パパだよ」
声がした方に振り向く。そこには由依が立っていた。気付かぬうちに部屋に入ってきていたのか、と思ってから遅れて言葉の意味を理解する。パパ。そうか、この人は。
「あ……ごめん」
理解してから、体を乗り出して人の親をじろじろと覗き込んでしまっていたことに申し訳なく思って、九華は部屋の隅へと退けた。
その瞬間、彼女の体で覆い被さっていて見えていなかった石像の顔が由依の視線にやっと見えたようだった。その瞬間、彼女はじっと彼を見つめると全身を震えさせ始める。
「…………。…………。…………!」
由依は、人間時代に口があった場所を手で押さえている。その手は激しく震えており、言葉になっていない叫びが、呻き声が、咽び泣くその中に何度も繰り返された。
九華は彼女のそばへと近づき、泣き崩れる寸前の彼女の肩に手を優しく置いた。見ていられなかった、あれだけ部室で笑顔を振り撒いていた彼女が涙を堪える姿を。思いだけが先行して足が動いたものの、実際どうしたら良いか分からなくて九華はただ手を置くことしか出来なかった。
「パパに……、久しぶりに会えた……」
「由依さん……」
彼女の背中を摩る。酷く暖かい。声を漏らさないように我慢してはいるが、それでも抑えきれないような悲嘆の声。それでも自分達のこのカミになった体では涙が流れる事は無かった。人間で言う目の部分は無く、ただ頭のかさが不規則に揺れるだけ。
それが余計に辛そうで、もしかしたらこのかさの中で彼女は涙を流しているんじゃないか、そんな想像さえ出来るほどだった。
「……ごめんね。ごめんね……、パパ……」
しきりに呟く彼女の声は、弱々しいものだった。九華は背中を摩ったまま、彼女の父親の石像へと視線を落とす。どこか引き攣った笑顔。それは、最近の彼女の表情と少し重なるものがあった。強くなっていく体の震えを手のひらから感じ始めた頃。タプを抱えたままの睡方がこちらに近づいてきて、耳打ちをしてくる。
「想汰がさ、そこの襖の奥にもう一つ部屋を見つけたんだ。だからその、一旦由依さんを落ち着かせるためにそっちに一回移した方がいいんじゃないかって」
目線を前に向ける。先ほどから目についていた襖。その持ち手を掴んで、少し隙間を開けて奥に広がっているであろう部屋の様子をこちらに見せてきている想汰。向けられた強い視線を感じ、九華は睡方と想汰二人に向かって大きく頷いた。
その旨を理解したのか、睡方はもう片方の襖を開けに先を歩いた。抱かれているタプは、彼の腕に前足をかけ、由依が泣き出してからは彼女の方をじっと見ていた。時々、弱々しい鳴き声も上げていて。
九華は泣きじゃくる彼女に、寄り添うように囁く。
「由依さん、今歩ける?」
嗚咽しながらも由依は、小さく頷いた。九華は彼女の肩を持ち、再び壊さないように神経を張り巡らしながら彼女の父親の石像の後ろを通る。そして、奥の部屋へと彼女をゆっくり一歩ずつ移動させた。
「大丈夫かしら……」
呟く九華の視線の先は、目の前にある襖だった。その襖を隔てて奥の部屋の真ん中に座るのは、由依。だが、今三人がいるのは石像のある一つ手前の部屋。彼女の姿は襖が閉じているせいで見えない。そんな隔離された状態で三人は各々時間を潰すように周囲を見回したり、探索を行ったりしていた。
ここにいようと言い出したのは、睡方だった。彼女を奥の部屋に運んだ後、九華達は一旦彼女を置いていく形でわざわざこの部屋に戻ってきた。最初は、もちろん反対した。あの状態の彼女を一人にしたら、孤独感に苛まれ、悲しみが深化してしまうだろうと思ったからだ。
でも、今回の睡方は頑なに引き下がろうとしなかった。「とりあえず」という一点張りを貫く彼はやけに必死に語っていて、少しばかりの会話のラリーはあったがこんな状況で喧嘩なんて出来なかったため、初めて九華が折れて現に今そういう状況になっている。見飽きた灰白色の壁が何回も目に入り。
襖越しで先ほど聞こえていたはずの声はほとんど聞こえなくなっており、それゆえ彼女への心配は刻々と募っていた。それはタプも同じようで、先ほどから襖を二つの前足で擦り、どうにか彼女の元へと行こうとしているようだった。時々上げる鳴き声が掠れて聞こえる。
今どんな状態なのか、それを察する手がかりが何もない現在。見ている景色、探索になんて集中出来ず、九華は思わず襖の方へと近づく。
「……やっぱり、ちょっと私様子見てくる」
襖の持ち手に手をかけようとした瞬間。彼女の腕を掴んだのは、睡方だった。彼は首を横に振ってから、宥めるような優しい口調で。
「……由依さんを、信じよう」
彼が腕を掴んでくる力は、そう生半可なものでは無かった。眼差しがまっすぐ突き抜けて信念に満ちた顔つき。九華は持ち手を握ろうとしていた手からゆっくりと力を抜き、下ろした。
誰かを、信じる。その言葉自体の意味というよりは、彼の迫力にしてやられたという感じだった。まるで彼の強い意志が、手から腕に直接送り込まれてきているような、そんな気がしないでもなくて。
「おい、タプはどうした」
「え?」
想汰に言われた睡方が思わず足元を見る。つられて九華も視線を動かしてみると、そこにいたはずの先ほどまで襖を触っていたその小さな姿は消えていた。遅れて、襖の奥から吠えるような鳴き声が聞こえてきて。
「タプ! タプ!」
「あ、あいついつの間に……! 」
睡方は頭を掻きながら、地団駄を踏む。一瞬息を呑むと、彼は九華、想汰の順に視線を動かし。
「俺、ちょっと一旦連れ戻してくる! なんだけど……、襖開ける瞬間だけでいいから後ろ向いててくれないか」
「……なんで後ろ向く必要があるのよ」
「え?」
睡方は言葉を詰まらせる。その間もタプの鳴き声は聞こえてきていて。
「それは…………。…………泣いているところを人に見られるのは嫌だろ」
九華はその時の彼の凛々しい顔が、今まで見てきた睡方と同一人物には見えなかった。動揺しながらも彼女は腕を組んで、首をほんの少し傾げながら返す。
「……なんか、あんたがそんなこと言うなんてちょっと意外」
「そう……なのかな……」
彼は驚いたような顔で、手を頭の後ろで擦りながら呟いた。その時の顔は、不思議といつもの彼だった。そんなやりとりとは裏腹に、襖越しから聞こえてくるタプの声は徐々に細々しいものになっていた。由依の顔を見上げる時の、あの心配そうな声色。こもって聞こえる音でも、その強い感情はこの部屋にいる三人にも必死に伝わってきていた。睡方が躊躇いながらも襖の持ち手に手をかけた時。今度は、由依の声も混じって。
「タプ! タプ……。タプ……」
「…………タプちゃん、ありがとうね」
鼻を啜りながらの、喉から絞り出すような細やかな声。それはこの静寂を保つ部屋に、わずかながらも響きを残していた。聞いた途端、睡方は持ち手から手をゆっくりと離して宙に浮かせた。そして下にだらんと腕を脱力させると、顔を重々しくこちら側に向ける。
「……ごめん。やっぱり、由依さんが自分の意思で出てくるまで待とう」
「タプは?」
「由依さんには、あいつが必要な気がする」
「タプ……? タプ……」
「…………! うぅぅ……、ぅぅううぁ……」
か細い鳴き声と、吐き出すような泣き声が襖の奥で交差していた。彼の視線を受け、九華と想汰は静かに部屋の探索を再開した。
しばらく、二部屋の探索を続けていた。玄関と和室。了解はしたものの相変わらず九華は調査に身が入っておらず、腕を組んで動き回りながらこの狭い部屋をもう何十周もしている。もはや、短いと言えるほどの時間はとっくに過ぎていた。無意味に部屋を回る行為。それでも部屋の物なんかには一切意識は行かず、待つのはただ一人の大切な部員のみ。
襖が内側から開いた。ほんの少しの隙間が、襖同士の間に生まれる。その微かな空気を震わすように由依は声を発して。
「こっち、来ていいよ」
いつもよりもトーンが低く、少し乾いた印象を受ける声色。三人は見合わせる。睡方がそっと襖を開けて一番最初に部屋に入ると、続くようにして二人が順番に奥の部屋へと入り、中心に座る彼女の周りで円を描くように一人一人座っていった。
最後に入った九華が襖を閉める。広がる景色は殺風景なものだった。左の壁沿いには、机とクローゼット。右の壁沿いには襖が半開きになった押入れと、タンス、姿鏡、メイク台。押入れの中には布団が入っていた。座る由依の後ろに見える窓は外のちょっとしたベランダに繋がっており、同時にその先にもう部屋は無いと無慈悲に表す。
畳に座り込む九華。由依と向かい合うような状況、膝の上にはタプが座っている。正座をしている彼女はまだ少し俯きがちで、でも先ほどよりは落ち着いた様子で、タプを撫でながらゆっくりと口を開く。
「ごめんね。さっき、大丈夫って言ったのに」
「いや、そんな……」
言葉が地面にすぐさま落ちていく様子を見て、九華は思わず声をかける。かけたはいいものの、次の言葉選びに少し戸惑う。先ほどの悲しそうな姿が目の前の彼女に投影されてしまい、どうにかしないとという気持ちが激しく渦巻いてまるで原稿を書く時のように頭の中で最適な表現を書いたり、消したりを繰り返す。
「聞こえてたよ」
「えっ?」
「ありがと、九っち」
由依は微笑を浮かべながら優しく呟いた。前に乗り出していた体が、元に戻っていく。言葉に詰まっていた彼女を解放するような、そんな思いやりの含みさえ感じられる短い感謝。
「睡っちも、想っちも、ありがとう」
「お、おう」
「ああ」
「タプちゃんも、心配してくれてたんだよね。ありがとう」
「タプ……」
一人ずつ視線を合わせる彼女。睡方は目線を逸らしてどこか恥ずかしそうに返事を返し、想汰は冷たく芯のある返事をまっすぐに届けた。タプが彼女の顔を見上げたまま、細やかに呟く。九華は正座した状態で膝の上の拳を強く握り、一度大きな深呼吸をすると、無いはずの彼女の目に合わせるように丁重に顔を上げた。
「あ、あの、聞いてもいい? あの石像のこと」
「……あれは、ウチのパパとママ。パパが
「久しぶりに会った、っていうのは……」
「…………」
出来る限り気を遣いながらも、抑えきれなかった知的好奇心のまま飛び出した九華の言葉に由依は口を噤んだ。虚空を見たまま、目を泳がせる彼女。深く息を吐きながら体を左右にゆらゆらと揺蕩う姿は今にもふわり、と浮き出しそうだった。そして、その体の揺れからは迷いが見えた。
「…………ん。…………っと、ね……」
彼女の肩はまた少し震え始めていた。九華はその様子を見て、無い目を見張る。そして自分のしてしまった質問に悔い、なるべく間を空けずに言葉を続けた。
「……やっぱり、言わなくていいわ。申し訳ない」
頭を下げて、再び彼女の顔を見た時。彼女は先ほどよりもどこか悲しそうな顔をしているように感じられた。両親のことを思い出しているのか。だが、彼女の視線は九華の方へとじっと向けられている。震えたり、声を漏らしたり、そんな顕著な動きはしていない。
「……ごめん。気使わないでって言ったの、ウチなのに」
だけど由依の表情を見ているうちに、九華は目の前の彼女が不思議と実際の距離よりも遠くにいるような感覚がしてたまらなかった。
「で、儀式の方だが。いけるのか、実際」
想汰が腕を組んで由依に視線を向ける。
「……するために来たんだもんね」
由依は立ち上がった。膝に乗っていたタプが飛び上がり、床に着地する。彼女は無いはずの涙を拭うように腕で顔を擦ると、こちら側に歩き出して襖の持ち手に手をかけた。勢いよくそこを開けることで、コンフォートゾーンであった奥の和室と、石像のある部屋を繋げた。彼女は振り向き、三人と一匹の方を見て。
「やろう、やるしかない」
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