第20話 問いの始まり

 約束の朝、カノンは学院の正門に立っていた。


 目の奥が重い。ほとんど眠れないまま窓の外が白み始めても、不安が消えることはなかった。朝食も喉を通らなかった。


 「カノン」


 リアナの声に顔を上げる。ミレーネも一緒だった。二人の姿を見て、胸の奥が少しだけ楽になった。


 「おはよう」


 リアナは、いつものように微笑んだ。でも、その手は胸元のペンダントを握りしめ、時々色を確認するように視線を落としている。


 ミレーネは筆記具を握ったまま周囲を見回し、上部の魔力感知石を何度も確認していた。


 三人とも、何も言わなかった。言葉にしなくても、分かっていた。


 「お待たせ」


 ヴェルニカの声がした。振り返ると、彼女の隣に銀細工の外套を着た男性がいた。マルクスだ。


 マルクスの顔色が悪く、疲労の色が濃い。目の下には隈ができ、いつもの落ち着いた表情の代わりに、どこか浮かない様子が見えた。


 「学院には君たちの同行許可を取った」


 マルクスが言った。


 「事態は深刻化している。現時点で、君たちほど重要な情報源はない」


 その言葉の重みが、背筋を伸ばした。カノンは頷いた。リアナとミレーネも、表情を引き締める。


 「今日会う人物は……」


 マルクスが少し言葉を探すように間を置いた。


 「少し変わっている」


 ヴェルニカが複雑な表情を浮かべる。


 「私の師なの」



 王都の古い通りを抜けて、四人は建物の前に着いた。


 石造りの建物は古いが手入れが行き届いており、学院とは違う雰囲気を持っていた。


 ヴェルニカが扉に手をかけ、ノックする。


 返事はない。


 「いつものことよ。先生は研究に没頭すると、玄関の音なんて聞こえない」


 ヴェルニカが苦笑しながら扉を開けた。


 「失礼します」


 中に入ると、窓から差し込む光が、埃を浮かび上がらせている。廊下にも壁際にも階段の途中にも本が積まれていた。整理されているようで、されていない。


 「先生は、片付けるということをしない人なの」


 ヴェルニカが小声で言った。


 「でも、どこに何があるかは完璧に把握してる」


 三階の奥の扉の前で、ヴェルニカが立ち止まり、ノックした。


 「入れ」


 低く、しかし明瞭な声が返ってきた。


 扉を開けると、部屋は——本と資料に埋もれていた。


 壁一面の書棚があり、机の上にも床にも資料が積まれている。窓からの光が埃を照らし、部屋全体がどこか幻想的な雰囲気を持っていた。


 机の向こうに、一人の老学者がいた。短く刈り込んだ白髪と深い皺が刻まれた顔に、鋭い瞳を宿している。年齢を感じさせる外見の中に、揺るがない知性があった。


 「ほう、君たちか」


 老学者は三人を一瞥すると、すぐにカノンに視線を向けた。


 「アルヴィン=エル=ヴェーゼン先生です」


 マルクスが紹介する。


 「堅苦しい紹介はいらん」


 アルヴィンが手を振った。


 「マルクス君から話は聞いておる。空間の歪みが見えるというのは?」


 カノンが一歩前に出る。


 「僕です」



 「何が見えた?」


 アルヴィンが尋ねる。


 「どのように見えた?」


 質問が矢継ぎ早に飛んでくる。カノンは、図書館での出来事を説明した。


 アルヴィンは、一つ一つの言葉を逃さないように聞いていた。時々頷き、時々何かを確認するように質問を挟む。


 「装置では測定できぬものを、君は見ておる」


 アルヴィンが静かに言った。


 マルクスが測定データの入った資料を差し出す。


 「昨日の検証結果です」


 アルヴィンは資料に目を通しながら数値を辿り、時々頷いていたが、やがて顔を上げてカノンを見た。


 「確かに微弱な残滓が記録されておる。じゃが君は、それを『視覚的に』捉えた」


 カノンは答えた。


 「はい。空間が……少し揺らいでいるように」


 「なるほど」


 アルヴィンは満足そうに頷くと、リアナに視線を向けた。


 「そのペンダント、今はどうじゃ?」


 リアナが胸元を見て答える。


 「穏やかな水色です」


 少し間を置いて、続けようとした。


 「でも図書館では……」


 言葉に詰まり、表情が強張っていく。


 「記録を見た。赤黒く変化した、と」


 アルヴィンが静かに言うと、リアナは小さく頷いた。


 「それほどの魔力密度——通常ではありえん」


 アルヴィンは立ち上がって書棚へ向かい、古い資料の束を取り出すと、机に戻って資料をどかして紙を広げた。


 「これが記録局設立時の理論文書じゃ」


 三人が机に身を寄せる。



 アルヴィンは資料のページをめくり、指先で文字を辿っていく。


 「数十年前まで、地方の村や集落で集団失踪が起きておった。ある日突然、村人全員が消える——建物も道具も家畜も残ったまま、人だけが」


 リアナの呼吸が浅くなる。


 「この仮説によれば、世界には『何かを消去する機構』が存在する。対象は忘れ去られた存在じゃ——外部との繋がりを失い、記憶されず記録されず関係を持たぬ者」


 カノンの胸に、冷たいものが広がった。世界が、人を消す——リアナに、あの時何が起きようとしていたのか。


 アルヴィンは別の文書を広げた。


 「逆に言えば、防ぐ方法もある。記録を残すこと、関係性を維持すること」


 文書には、記録局設立の経緯が記されていた。


 「記録局は、この仮説——アストラルコレクション、世界修正仮説——に基づいて設立された。世界があるべき姿から逸脱した時、それを修正する機構が働く。忘れ去られた存在の消去も、その修正の一つじゃ」


 マルクスが資料を見つめたまま、複雑な表情を浮かべている。


 「そして記録局設立後、数十年間——そのような事件は一度も起きておらん」


 ミレーネが口を開く。


 「でも、それは偶然かもしれません」


 「そうかもしれん。じゃが——矛盾はしておらん」


 ヴェルニカが苦い表情を浮かべる。


 「この仮説は学術界でも記録局内でも、管理強化の口実だと……」


 アルヴィンは窓辺へ歩き、王都を見下ろした。


 「じゃが——君たちが体験したこと、記録局のデータ、これらは事実じゃ」


 カノンは、その背中を見つめた。世界が意志を持つ——そんなことが、本当にあるのか。


 アルヴィンは机に戻り、三人を見た。


 「信じる必要はない。じゃが、思考実験として——仮にこの仮説が正しいとして考えてみよう」


 少し間を置いて、続けた。


 「君たちの体験は、説明できるか?」


 カノンは、図書館での出来事を思い出した。


 「僕が見た歪みは……」


 「『消去の過程』として説明がつく」


 アルヴィンが頷いた。


 リアナが、ずっと考えていたことを口にした。


 「私……何も感じませんでした。父の魔法を何度も見てきましたが、高度な術式なら、発動の瞬間に空気が震えます。魔力が集まる時、微かな圧力も感じるはず——」


 リアナは少し間を置いて、続けた。


 「でも、図書館では何も。魔法なら、術者がいるはずです。意図があるはずです」


 リアナは言葉を探すように、ゆっくりと話した。


 「誰かが私を狙った、誰かが何かをした——そういう感じが、全くありませんでした」


 リアナは窓の外を見ながら言った。


 「誰かが『やっている』のではなく、何かが『起きている』——そんな感じでした」


 リアナは胸元のペンダントに触れた。石は穏やかな水色を保っている——いつ、また赤黒く変わるのか。


 アルヴィンは窓の外を見つめたまま呟く。


 「……術者なき現象、か」


 やがて振り返り、資料を指す。


 「じゃが、君の観察——『術者なき現象』——これが事実なら、この仮説で説明がつく」


 ミレーネが顔を上げた。


 「この仮説では、王都では起きないはずです。人も多い、記録も残る——それなのに起きている。しかも数十年間なかったものが、なぜ今?」


 その問いが、部屋に響いた。


 アルヴィンが静かに頷く。


 「そう。二つの矛盾——起きないはずの場所で起き、起きなくなっていたものが再び始まった。ならば、何かが変わった」


 マルクスが呟く。


 「何が……」


 「それを、突き止めねばならん」


 カノンは窓の外を見た。


 何が変わったのか。見つけなければ——リアナを、ミレーネを、守れない。


 窓の向こうに王都が広がっている。答えは、どこかにあるはずだ。

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