第20話 問いの始まり
約束の朝、カノンは学院の正門に立っていた。
目の奥が重い。ほとんど眠れないまま窓の外が白み始めても、不安が消えることはなかった。朝食も喉を通らなかった。
「カノン」
リアナの声に顔を上げる。ミレーネも一緒だった。二人の姿を見て、胸の奥が少しだけ楽になった。
「おはよう」
リアナは、いつものように微笑んだ。でも、その手は胸元のペンダントを握りしめ、時々色を確認するように視線を落としている。
ミレーネは筆記具を握ったまま周囲を見回し、上部の魔力感知石を何度も確認していた。
三人とも、何も言わなかった。言葉にしなくても、分かっていた。
「お待たせ」
ヴェルニカの声がした。振り返ると、彼女の隣に銀細工の外套を着た男性がいた。マルクスだ。
マルクスの顔色が悪く、疲労の色が濃い。目の下には隈ができ、いつもの落ち着いた表情の代わりに、どこか浮かない様子が見えた。
「学院には君たちの同行許可を取った」
マルクスが言った。
「事態は深刻化している。現時点で、君たちほど重要な情報源はない」
その言葉の重みが、背筋を伸ばした。カノンは頷いた。リアナとミレーネも、表情を引き締める。
「今日会う人物は……」
マルクスが少し言葉を探すように間を置いた。
「少し変わっている」
ヴェルニカが複雑な表情を浮かべる。
「私の師なの」
◆
王都の古い通りを抜けて、四人は建物の前に着いた。
石造りの建物は古いが手入れが行き届いており、学院とは違う雰囲気を持っていた。
ヴェルニカが扉に手をかけ、ノックする。
返事はない。
「いつものことよ。先生は研究に没頭すると、玄関の音なんて聞こえない」
ヴェルニカが苦笑しながら扉を開けた。
「失礼します」
中に入ると、窓から差し込む光が、埃を浮かび上がらせている。廊下にも壁際にも階段の途中にも本が積まれていた。整理されているようで、されていない。
「先生は、片付けるということをしない人なの」
ヴェルニカが小声で言った。
「でも、どこに何があるかは完璧に把握してる」
三階の奥の扉の前で、ヴェルニカが立ち止まり、ノックした。
「入れ」
低く、しかし明瞭な声が返ってきた。
扉を開けると、部屋は——本と資料に埋もれていた。
壁一面の書棚があり、机の上にも床にも資料が積まれている。窓からの光が埃を照らし、部屋全体がどこか幻想的な雰囲気を持っていた。
机の向こうに、一人の老学者がいた。短く刈り込んだ白髪と深い皺が刻まれた顔に、鋭い瞳を宿している。年齢を感じさせる外見の中に、揺るがない知性があった。
「ほう、君たちか」
老学者は三人を一瞥すると、すぐにカノンに視線を向けた。
「アルヴィン=エル=ヴェーゼン先生です」
マルクスが紹介する。
「堅苦しい紹介はいらん」
アルヴィンが手を振った。
「マルクス君から話は聞いておる。空間の歪みが見えるというのは?」
カノンが一歩前に出る。
「僕です」
◆
「何が見えた?」
アルヴィンが尋ねる。
「どのように見えた?」
質問が矢継ぎ早に飛んでくる。カノンは、図書館での出来事を説明した。
アルヴィンは、一つ一つの言葉を逃さないように聞いていた。時々頷き、時々何かを確認するように質問を挟む。
「装置では測定できぬものを、君は見ておる」
アルヴィンが静かに言った。
マルクスが測定データの入った資料を差し出す。
「昨日の検証結果です」
アルヴィンは資料に目を通しながら数値を辿り、時々頷いていたが、やがて顔を上げてカノンを見た。
「確かに微弱な残滓が記録されておる。じゃが君は、それを『視覚的に』捉えた」
カノンは答えた。
「はい。空間が……少し揺らいでいるように」
「なるほど」
アルヴィンは満足そうに頷くと、リアナに視線を向けた。
「そのペンダント、今はどうじゃ?」
リアナが胸元を見て答える。
「穏やかな水色です」
少し間を置いて、続けようとした。
「でも図書館では……」
言葉に詰まり、表情が強張っていく。
「記録を見た。赤黒く変化した、と」
アルヴィンが静かに言うと、リアナは小さく頷いた。
「それほどの魔力密度——通常ではありえん」
アルヴィンは立ち上がって書棚へ向かい、古い資料の束を取り出すと、机に戻って資料をどかして紙を広げた。
「これが記録局設立時の理論文書じゃ」
三人が机に身を寄せる。
◆
アルヴィンは資料のページをめくり、指先で文字を辿っていく。
「数十年前まで、地方の村や集落で集団失踪が起きておった。ある日突然、村人全員が消える——建物も道具も家畜も残ったまま、人だけが」
リアナの呼吸が浅くなる。
「この仮説によれば、世界には『何かを消去する機構』が存在する。対象は忘れ去られた存在じゃ——外部との繋がりを失い、記憶されず記録されず関係を持たぬ者」
カノンの胸に、冷たいものが広がった。世界が、人を消す——リアナに、あの時何が起きようとしていたのか。
アルヴィンは別の文書を広げた。
「逆に言えば、防ぐ方法もある。記録を残すこと、関係性を維持すること」
文書には、記録局設立の経緯が記されていた。
「記録局は、この仮説——アストラルコレクション、世界修正仮説——に基づいて設立された。世界があるべき姿から逸脱した時、それを修正する機構が働く。忘れ去られた存在の消去も、その修正の一つじゃ」
マルクスが資料を見つめたまま、複雑な表情を浮かべている。
「そして記録局設立後、数十年間——そのような事件は一度も起きておらん」
ミレーネが口を開く。
「でも、それは偶然かもしれません」
「そうかもしれん。じゃが——矛盾はしておらん」
ヴェルニカが苦い表情を浮かべる。
「この仮説は学術界でも記録局内でも、管理強化の口実だと……」
アルヴィンは窓辺へ歩き、王都を見下ろした。
「じゃが——君たちが体験したこと、記録局のデータ、これらは事実じゃ」
カノンは、その背中を見つめた。世界が意志を持つ——そんなことが、本当にあるのか。
アルヴィンは机に戻り、三人を見た。
「信じる必要はない。じゃが、思考実験として——仮にこの仮説が正しいとして考えてみよう」
少し間を置いて、続けた。
「君たちの体験は、説明できるか?」
カノンは、図書館での出来事を思い出した。
「僕が見た歪みは……」
「『消去の過程』として説明がつく」
アルヴィンが頷いた。
リアナが、ずっと考えていたことを口にした。
「私……何も感じませんでした。父の魔法を何度も見てきましたが、高度な術式なら、発動の瞬間に空気が震えます。魔力が集まる時、微かな圧力も感じるはず——」
リアナは少し間を置いて、続けた。
「でも、図書館では何も。魔法なら、術者がいるはずです。意図があるはずです」
リアナは言葉を探すように、ゆっくりと話した。
「誰かが私を狙った、誰かが何かをした——そういう感じが、全くありませんでした」
リアナは窓の外を見ながら言った。
「誰かが『やっている』のではなく、何かが『起きている』——そんな感じでした」
リアナは胸元のペンダントに触れた。石は穏やかな水色を保っている——いつ、また赤黒く変わるのか。
アルヴィンは窓の外を見つめたまま呟く。
「……術者なき現象、か」
やがて振り返り、資料を指す。
「じゃが、君の観察——『術者なき現象』——これが事実なら、この仮説で説明がつく」
ミレーネが顔を上げた。
「この仮説では、王都では起きないはずです。人も多い、記録も残る——それなのに起きている。しかも数十年間なかったものが、なぜ今?」
その問いが、部屋に響いた。
アルヴィンが静かに頷く。
「そう。二つの矛盾——起きないはずの場所で起き、起きなくなっていたものが再び始まった。ならば、何かが変わった」
マルクスが呟く。
「何が……」
「それを、突き止めねばならん」
カノンは窓の外を見た。
何が変わったのか。見つけなければ——リアナを、ミレーネを、守れない。
窓の向こうに王都が広がっている。答えは、どこかにあるはずだ。
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