第18話 掴んだ手

 あれから三日が過ぎた。


 廊下を歩く生徒たちは、必ず二人以上で移動している。一人になった者を見つけると、近くの生徒が声をかけて一緒に歩く。誰も命令されたわけではないが、皆がそうしている。


 授業が終わると、寮生は急いで寮へ戻り、通学生は校門まで集団で向かう。夕暮れ時の中庭には、すでに誰もいない。


 図書館も早く閉まるようになった。日が傾き始めると、司書が館内を回って利用者に帰宅を促す。


 カノンは放課後、リアナとミレーネと一緒に図書館で勉強することが増えた。三人でいれば安全だと、誰も口に出さないが、皆がそう考えている。


 「誰が次に消えるか分からない」「魔力の高い者なら大丈夫」「学院内に犯人がいるかも」——中庭でも教室でも、囁き声が絶えない。



 この日も、三人は図書館の二階で勉強していた。


 西日が窓から差し込み、古い木の机を温かく照らしている。リアナは魔術理論書のページをめくり、ミレーネは薬草学の資料に書き込みをしている。カノンは基礎魔法の練習問題を解きながら、計算尺で数値を確認していた。


 ふと顔を上げると、周囲に人の気配がない。いつの間にか二階には三人だけになっていた。


 その時、ミレーネの筆記具が光った。


 淡い緑色の魔力感知石が、黄色へ、橙色へと変化していく。


 「何これ……」


 ミレーネが筆記具を目の前に掲げる。手が、わずかに震えている。


 「こんな色……見たことない」


 リアナが自分の胸元のペンダントに視線を落とす。既に橙色になっている。


 「これ……おかしい」


 ペンダントが赤へ、さらに赤黒く変わっていく。


 「図書館で、こんな魔力密度になるはずが——」


 リアナは家で父の高度な魔法を何度も見てきた。だが感知石がここまで深い色になったことは一度もない。


 それが今、何もないはずの図書館で——


 リアナが顔を上げる。


 「ミレーネ、あなたのも?」


 「ええ。同じように——」


 その瞬間、カノンの視界が揺らいだ。


 頭の奥で何かが弾けるような感覚。鋭い痛みが後頭部から額へ走り抜ける。


 目を開けると、世界が二重に見えた。


 いつもの図書館。古い木の机、羊皮紙の束、窓からの西日。


 そしてもう一つの——歪んだ図書館。


 リアナの周囲で、空気が捻れている。本棚の輪郭が溶け、壁が波打ち、床が傾く。まるで水面に映った景色を、誰かが手で掻き乱しているように。


 そして、歪みの中心に、リアナがいる。


 彼女の髪が、風もないのに揺れている。淡い金色の髪が、まるで水中にいるかのようにゆっくりと浮き上がり、重力を忘れたように漂っている。


 リアナ自身は気づいていない。このままでは——


 「リアナ!」


 カノンは椅子を蹴って立ち上がると、リアナの腕を掴んで引き寄せた。


 「え? 何?」


 リアナが驚いて顔を上げる。


 歪みが弱まる。だが、完全には消えない。


 空間が、ゆっくりと変化し続けている。視界の端で本棚が揺らいでいる。


 頭が痛い。


 カノンはリアナの腕を握ったまま、もう片方の手でミレーネの手を掴んだ。


 「行こう」


 三人は図書館の出口に向かって駆け出した。



 図書館を出ると、カノンは足を止めた。


 二人の手を握った両手が、離せない。


 頭の奥では、まだ痛みが脈打っていた。しかし、ゆっくりと、少しずつ引いていく。


 リアナがペンダントを見る。さっきまで赤黒かった石が、今は穏やかな淡い水色の光を湛えている。


 リアナが息を吐くと、カノンはようやく、両手をゆっくりと離した。


 リアナの腕に、赤い痕が残っている。強く握りすぎていたようだ。


 「ごめん」


 「ううん」


 リアナが首を振って、自分の腕をさする。それから顔を上げた。


 「何が……起きたの?」


 カノンは答えられなかった。何と説明すればいいのか。


 しばらく沈黙が続いたあと、ミレーネが手帳を開こうとして、止めた。何かを書こうとしたが、何を書けばいいのか分からない様子だった。


 「執行官」


 カノンの言葉に、ミレーネが顔を上げる。


 「ヴェルニカさんなら、執行官と繋がりがあるかもしれない。相談すれば、会わせてもらえるかも」


 ミレーネが頷く。


 「そうね。専門家が必要」


 三人は研究室へ向かった。



 ヴェルニカの研究室で、リアナの体調確認が行われた。


 魔力測定装置の淡い光が、リアナの顔を照らす。


 リアナは自分の手を見つめていた。


 父の高度な魔法を何度も見てきた。術式が発動する瞬間の空気の震え、魔力が集まる時の微かな圧力——そういうものを肌で感じ取れると思っていた。


 それなのに。ペンダントが赤黒く染まるほどの魔力密度。周囲の空間が歪むほどの何か。それらすべてが自分を中心に起きていたのに——何一つ、感じ取れなかった。


 風も、圧力も、熱も、冷たさも。


 何一つ。


 自分が消えていく瞬間すら、気づかないまま——


 その想像が、一番恐ろしかった。


 「物理的な異常はない。でも……魔力の痕跡が残ってる」


 ヴェルニカの声が遠く聞こえる。


 カノンが口を開く。


 「空間が歪んで見えました。リアナがその中心に」


 中心——


 リアナは息を呑んだ。


 ミレーネが報告する。


 「魔力感知石が赤黒くなりました。二十秒程度で」


 ヴェルニカが息を呑む。


 「赤黒く……転移実験と同じレベルじゃない。それが自然に発生するなんて」


 沈黙が落ちる。


 リアナは胸元のペンダントに触れた。今は穏やかな淡い水色に戻っている。


 なぜ、自分の周りで。


 「執行官を……呼べますか?」


 カノンの声。


 ヴェルニカが頷く。


 「記録局に報告する。明日の放課後、執行官に来てもらうわ」



 研究室を出る時、既に夕暮れだった。


 ミレーネが手帳を見つめている。いつもなら何か書き込んでいるが、今日は開いたまま動かない。


 「魔力感知石が、あんな色になるなんて」


 ミレーネが小さく言った。


 「でも、私は何も感じなかった。リアナは?」


 リアナが首を振る。


 「何も……何が起きたのかも、わからない」


 三人とも黙り込む。


 「三人で一緒にいたのに……」


 リアナが小さく言った。石畳を踏む足音だけが響く。


 空が暗くなってきた。街灯に光が灯り始めている。


 カノンが立ち止まった。


 「二人を送るよ。もう遅いし」


 リアナとミレーネが顔を上げる。


 「それじゃカノンが一人で帰ることになる」


 「でも僕には歪みが見える。危険を避けられる」


 カノンがリアナの目を見ると、リアナは口を開きかけて、閉じた。


 「リアナの家が一番遠い。先に送ってから、ミレーネを送って帰れば、僕が一人で歩く距離が短くなる」



 リアナの家の前に着くと、三人は足を止めた。


 「ありがとう。二人とも」


 リアナが二人の方を向く。月明かりの下、金色の髪がふわりと揺れる。


 ミレーネが一歩近づく。


 「本当に大丈夫? 何か変わったことがあったら、すぐに——」


 「大丈夫」


 リアナが微笑む。でも、その笑顔は少し硬い。


 「心配してくれて、ありがとう」


 カノンに視線を向ける。


 「あの時……何が見えたの?」


 カノンは言葉を探した。でも、どう説明すればいいのか。


 「よく……わからない」


 嘘ではない。何が起きたのか、カノン自身も理解していない。ただ、危険だと感じた。それだけだ。


 リアナが頷く。それから、少し迷うように視線を落とした。


 「もし……また、あんなことが起きたら」


 声が小さくなる。


 「私、気づけないかもしれない」


 カノンは答えられなかった。リアナは自分の周りで空間が歪んでいることに、何も気づいていなかった。もし一人でいた時に同じことが起きたら——


 「明日、また学院で」


 リアナが顔を上げる。不安を押し込めるように、もう一度微笑んだ。


 「気をつけて」


 ミレーネが頷く。


 「無理しないでね」


 門扉が開く。リアナの姿が暗闇の向こうに消えていく。重い金属音が夜に響いた。


 カノンはしばらく、閉じた門を見つめていた。



 カノンとミレーネは、来た道を戻った。


 夜の静けさが、二人を包む。石畳に落ちる足音だけが響く。


 しばらく歩いて、ミレーネが口を開いた。


 「本当に見えてるのね」


 ミレーネは前を向いたまま歩いている。


 「……わからない。何が見えてるのかも」


 「空間の歪み。ヴェルニカ先生も驚いてた」


 ミレーネが少し歩調を緩める。


 「感知石が赤黒く変わるほどの異常を、目で捉えられるなんて」


 カノンは答えなかった。あの時、リアナの周りで空間が揺らいでいた。それが何を意味するのか——


 「リアナ、怖かったと思う」


 ミレーネの声が、少し低くなる。


 「自分に何が起きてるか分からないまま。でも……あなたがいたから」


 「僕は……ただ」


 言葉が続かない。見えたから手を伸ばした。それだけだ。でも、もし見えなかったら——


 街灯の下、二人の影が石畳に落ちている。


 ミレーネの家の前に着くと、ミレーネが立ち止まった。


 「ありがとう、カノン」


 いつもの軽い調子ではなく、静かな声だった。


 「リアナのこと……お願いね」


 カノンが頷くと、ミレーネは扉に手をかけて、振り返った。


 「あなたも、無理しないで」


 扉が閉まる音を確認してから、カノンは寮へ向かった。


 距離は短い。すぐに寮の明かりが見えてきた。


 それでも、一人で歩く夜道は静かだった。



 寮の自室に戻っても、眠れなかった。


 ベッドに横になると、図書館での光景が蘇る。赤黒く変わっていくペンダント。歪む空間。その中心にいたリアナ。


 あれは何だったのか。もし引き離さなかったら——


 行方不明になった生徒たちにも、同じことが起きたのだろうか。


 リアナの家が安全だとは限らない。ミレーネの家も。今この瞬間、二人の部屋であの異常が起きていたら。翌朝、学院で二人が現れなかったら——


 起き上がって、窓辺に立つ。夜空に月はない。


 何もできない。何も分からない。


 窓の外で、ただ夜が深まっていく。

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