第11話 新たな扉の向こう

 翌朝、カノンは昨夜の手紙を手に取った。


 陽射しの中で改めて見ると、上質な羊皮紙と美しい筆跡が際立って見える。慎重に封を切ると、流れるような文字が目に飛び込んできた。


 だが、最初の数行を読んだ瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 「エリアスから話を聞いた」


 その一文が、まるで針のように胸を刺す。編入制度への挑戦の結果を、まだ報告していなかった。エリアスさんに顔を合わせることができずに、もう二日も経ってしまった。


 手紙を読み進める。数式で魔術を捉えるアプローチに興味があり、友人たちと一緒に研究室に来てほしいという内容。学院隣接の魔術研究施設三階。差出人はヴェルニカ=エル=アステリア。


 文字を目で追いながら、自分への情けなさが胸を重くする。期待をかけてもらったのに、結果を出せなかった。そのことを報告するのが、どうしても気が重くて——


 手紙をそっと机に置く。少し気まずいけれど、ちゃんと報告しなくては。



 I組の教室へ足を向けながら、カノンは手紙を握る指先に力を込めた。


 授業開始前の喧騒の中、リアナの淡いブルーのローブを見つける。ミレーネはその隣で、いつものように理論書を読んでいた。


 近づこうとして、足が止まる。I組の教室に漂う、いつもと違う重苦しい空気。あの後、二人がここでどんな思いをしているのか。


 躊躇していると、リアナがカノンに気づいて顔を上げる。一瞬の間に、彼女の瞳が僅かに細められる。


 「カノン?」


 その声音で、ミレーネも本から顔を上げた。


 「どうしたの? なんだか——」


 ミレーネが言いかけて止める。カノンの表情を読み取ったのだろう。


 「……廊下で話さない?」


 リアナの提案で三人は席を立つ。廊下の窓際まで歩く間、カノンは手の中の手紙を意識し続けていた。


 窓からの陽射しが羊皮紙を透かす。どこから話せばいいのか。


 「これ……」


 カノンが手紙を取り出すと、リアナが僅かに眉を動かした。ミレーネは手紙の材質を一瞥しただけで、差出人の格を察したようだった。


 「ヴェルニカ=エル=アステリア……聞いたことのない名前ね」


 ミレーネが手紙を受け取りながら呟く。エリアスの名前が出てくると、彼女の表情が変わった。


 「エリアスさんから数式で魔術を制御する話を聞いた、って……」


 リアナが手紙の内容を覗き込む。そして気づく。


 「でも、私たち——」


 三人の間に沈黙が落ちる。結果をまだエリアスに報告していなかった。


 リアナが小さく息を吐く。


 「気まずくて、会いに行けなくて……」


 「データを整理してから報告しようと思ってたけど」


 ミレーネが肩を竦める。


 「結局、ただの現実逃避だったわ」


 カノンは手紙を見つめる。


 「会いに行こう」



 その日の放課後。三人は足早にエリアス邸へ向かった。


 白い石造りの家の扉をノックすると、エリアスが穏やかな笑顔で迎えてくれた。


 「おや、君たちか。どうしたんだい?」


 カノンは少し躊躇したが、意を決して口を開いた。


 「エリアスさん、結果の報告に来ました」


 一息置いて、続ける。


 「編入制度への挑戦……不合格でした」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが重く沈んだ。リアナとミレーネも、静かに面持ちを伏せている。


 エリアスの表情に、一瞬の影が差す。だが、すぐに彼が静かに頷いた。


 「そうか……」


 その短い言葉に込められていたのは、失望ではなかった。深い理解と、そして温かい慈しみのようなものだった。


 「さあ、中に入りなさい。そんなところで話すことではないよ」


 三人は白い石の家に招き入れられた。居間の温かい灯りの中で、エリアスが三人に椅子を勧める。


 「君たちは十分頑張った。三週間の努力を、私はずっと見ていたからね」


 エリアスが窓の外を見つめる。夕刻の薄い光が彼の横顔を照らし、目尻に小さな笑いじわができている。


 「結果がすべてではないよ。本当に大切なのは——」


 エリアスが三人を見つめる。その瞳に、温かい慈しみがあった。


 「君たちが互いを支え合い、成長したことだ。その絆があるからこそ、次の機会が生まれる」


 エリアスの優しさに、カノンの胸が詰まった。こんなにも温かく受け入れてくれる人に、なぜもっと早く報告できなかったのか。情けない気持ちと、ありがたさが入り混じった。


 鞄からヴェルニカの手紙を取り出す。陽の光に透ける羊皮紙が、まだ信じられない出来事のように思える。


 「実は、この手紙をいただいて。エリアスさんから話を聞いたと……」


 エリアスが手紙を受け取り、静かに読み始める。三人は息を詰めて待った。羊皮紙をめくるかすかな音だけが、白い石の家の居間に響いている。


 「ヴェルニカから連絡が来たか。思った通りだ」


 エリアスの口元に浮かんだ笑みは、単なる嬉しさではなかった。まるで期待していた展開が始まったかのような、静かな満足感があった。


 エリアスがカノンの困惑した表情に気づいて、少し申し訳なさそうに微笑む。


 「すまない、君たちに相談せずに話してしまった。でも、君の数式的アプローチのことを、どうしても彼女に伝えたくなってね」


 その笑みは温かく、優しいものだった。だが、カノンにはそれだけではない何かが含まれているような気がした。計算されたような、まるで駒が予定通りに動き出したかのような満足感。


 「彼女は本当に優秀な研究者だ。何より——」


 エリアスがふと窓の外を見つめ、遠くを見つめるような眼差しになる。そして静かに、しかし断定的に口を開いた。


 「君の手法の真の価値を、正しく理解してくれるはずだよ」


 エリアスがカノンを見つめる。


 「この機会を大切にしなさい。君にとっても——」


 エリアスがふと窓の外に視線を向ける。学院の尖塔を夕方の斜陽が赤く照らしている。


 「この世界にとっても、重要な一歩になるかもしれない」


 その言葉には、単なる期待を超えた、何か確固たる意図が込められているような響きがあった。まるで長い間温めていた計画の一部が、ついに動き出したかのような。


 言葉に込められた何か大きな意図に、カノンは漠然とした緊張を覚えた。


 カノンは少し戸惑った。自分のやり方が「この世界にとって重要な一歩」だなんて。


 でも、断る理由もない。


 「明日の放課後に、伺わせていただきます」


 カノンが答えると、リアナとミレーネも頷いた。三人の表情には、期待と不安が入り混じっていた。



 翌日の放課後、三人は学院隣接の魔術研究施設へ向かった。


 学院とは全く違う空気だった。石造りの建物は実用一点張りで、装飾らしい装飾もない。


 管理員が三人に近づいてくる。


 「どちらにご用でしょうか?」


 カノンが手紙を差し出すと、管理員は便箋の印を小さな魔導具にかざした。魔導具が淡く光る。


 「ああ、ヴェルニカ先生の魔力印ですね。こちらをどうぞ」


 管理員が小さな魔導具を手渡した。


 「三階の突き当りです。使い方はわかる?」


 カノンとミレーネが首をかしげる中、リアナが頷く。


 「はい、大丈夫です」


 「なら問題ないね。他の階には立ち入らないでください」


 三階に上がった途端、三人は歩みを止めた。


 廊下の壁という壁に焦げ跡があり、「爆発注意」「実験中——立入禁止」といった物騒な札が貼られている。空気が微かに焦げ臭い。


 ミレーネが眉をひそめる。


 「……こんなところで研究をしているのね」


 リアナも少し緊張した面持ちだった。


 階段の上には、3階フロアへの扉がある。リアナが門番から受け取った魔導具を扉の装置にかざすと、淡く光って錠が外れた。


 扉を開けると、長い廊下が続いている。両側に複数の研究室があるようで、それぞれの扉に研究者の名前が書かれた札がかかっている。


 廊下の奥まで進むと、突き当りに「ヴェルニカ=エル=アステリア」と書かれた扉があった。


 三人が近づいた時、突然その扉が開いた。


 高く結い上げた黒髪の男性が現れる。一瞬で場の空気が変わる。銀細工の外套の下、胸元に何かの徽章が光っている。腰には精巧な魔導具が並び、右手には細身の剣が携えられている。だが、どこか学者めいた佇まいも持つ。


 男性は三人に気づくと、礼儀正しく短く頷いた。その瞬間、彼の視線がカノンと一瞬だけ交差する。深い灰色の瞳に、何かを読み取るような鋭い光が宿った。そして音もなく、まるで影のように階段へ消えていく。


 沈黙が流れた。カノンが小声で呟く。


 「すごい存在感だった……」


 ミレーネが首をかしげる。


 「魔導具と剣って……普通、どちらか一方よね? 魔力制御と武器戦闘は訓練体系が違うから、両立は難しいはずなのに」


 リアナの表情が少し緊張する。胸元の徽章、装身具の組み合わせ——あれは執行官の証だった。何故こんな場所に?


 「あの人……」


 言いかけて、リアナは口をつぐんだ。今は関係のない話かもしれない。


 リアナが扉をノックすると、すぐに扉が開いた。


 「はい?」


 銀髪を適当に束ねた女性が現れる。左右で違う色の瞳が、来訪者を見つめた。


 「あの、ヴェルニカ=エル=アステリア先生でしょうか」


 カノンが手紙を差し出すと、女性の表情が明るくなる。


 「あら、あなたたちが!エリアスから聞いてるわ、数式で魔術を制御するって話」


 彼女の瞳に純粋な好奇心が輝いているのが見えた。


 研究室は、カノンが想像していたものとはまるで違った。机という机に実験器具が積まれ、本棚は理論書でひしめいている。床には計算式を書いた羊皮紙が散らばり、壁には図表が無造作に貼ってある。


 「三人とも、座って。お茶でも淹れましょうか。それとも——」


 ドンッ!


 部屋の奥で爆発音が響いた。


 「あら」


 ヴェルニカが振り返ると、実験台の上で何かが煙を上げている。彼女は興味深そうに近づいて、しばらく煙の様子を観察している。


 「ちょっと待ってて」


 煙が収まると、ヴェルニカが小瓶を手に取り、中の緑がかった液体をじっと見つめる。


 「新作の飲み物なんだけど——」


 振り返って三人に小瓶を差し出す。


 「飲んでみる?」


 三人は思わず身を寄せ合った。


 「あ、あの……」


 カノンが慌てて手を振る。


 「お気持ちはありがたいんですが……」


 「あら、そう?」


 ヴェルニカが小瓶を机に置く。まるで天気の話でもするような軽やかさで。


 「じゃあ、お茶にしましょう」


 ヴェルニカが実験器具の合間から普通のティーポットとカップを取り出す。手慣れた様子でお茶を淹れながら、カノンを見つめた。その瞳は好奇心に輝いているが、同時に研究者としての真剣さも感じられた。


 「エリアスから聞いた、数式で魔術を制御する方法……実際に見てみたいのよ。どんな風にやるの?」


 カノンは手のひらを見つめる。エリアスさんが紹介してくれた人だ。自分のやり方を、正直に見せよう。


 静かに魔力を集中させる。数式が頭の中で組み上がり、魔力の流れが計算通りに制御される。手のひらに、穏やかな光の球が浮かんだ。


 これが自分なりの魔法。


 ヴェルニカの視線が光の球に釘付けになった。数秒間じっと観察した後、彼女の口元の微笑みがすっと消えた。背筋がわずかに伸び、瞳孔がわずかに開く。先ほどまでの気楽な雰囲気が嘘のように消え、研究者としての鋭い集中が彼女の全身に満ちた。


 「……これ、どうやってるの?」


 その問いかけに、カノンは戸惑った。今まで聞かれたことのない種類の質問だった。いつもなら表面的な感想で終わるのに、今度は本質的な何かを探ろうとしている。


 「数式で、魔力の流れを計算して制御しています」


 答えながら、カノンは相手の表情を窺った。


 「数式で? 具体的には?」


 ヴェルニカが身を乗り出す。その瞳に宿る真剣さに、カノンの心臓が早鐘を打った。


 「魔力の放出量を時間に対する変化率で表して、数式で安定化を……」


 「いつから?」


 ヴェルニカが遮るように聞く。


 「学院に入ってから……半年ほど前です」


 その瞬間、ヴェルニカの動きが完全に止まった。まるで時が凍ったように。その瞳に浮かんだのは、驚愕と困惑、そして何か計り知れない感情だった。

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