杖、禁止なんですか?

孤室猫(こしつねこ)

第1話 幻想と現実の狭間で

 学院の入学手続き。石造りの広いホールに、長い列が幾重にも折れ曲がって伸びている。最後尾で、カノンは肩に食い込む布袋の重さを感じていた。


 中には杖。黒檀製の、立派な杖。


 父が誇らしげに「これでお前も魔術師だ」と言って渡してくれた。故郷の絵本に描かれた魔術師は、みんな立派な杖を持っていた。


 列が進み、ついにカノンの番が来た。


 父に渡された杖のことを考えていると、職員の声が聞こえる。


 「次の方、どうぞ」


 「あ、僕ですか?」


 慌てて前に出る。


 職員の視線が布袋に留まると、カノンは相手の表情の変化を読み取った。眉がかすかに寄り、申し訳なさそうな口元。これから何か悪い知らせを告げる時の表情だ。


 「その荷物、ひょっとして杖ですか?」


 予想通りの質問。カノンの手が無意識に布袋を握りしめた。


 「はい、そうですが……」


 「申し訳ございません。杖は学院内への持ち込みが禁止されているんです」


 職員が申し訳なさそうに告げる。


 「え? あの、これは……」


 言いかけて止まる。何を言えばいいのか分からなかった。


 「寮のお部屋か、ご実家にお送りすることになります」


 職員の言葉が頭の中で反響する。禁止。使えない。


 「杖、禁止なんですか?」


 声が震えているのが自分でも分かった。


 「すみません、急遽決まったので別紙で告知はしていたんですが、分かりづらかったようで……」


 職員は申し訳なさそうに言いながら、後ろの列に目を向けた。


 「昨年、生徒が杖を振り回して他の生徒の目に当たる事故がありまして。失明寸前の重傷でした。それ以来、学院内では安全のため使用できなくなったんです」


 振り返ると、新入生たちの中に数名、同じような大きな袋を抱えている者がいた。布越しに見える長い形。地方から来た者たちだろう。


 「そんな……杖が使えないなんて」


 後ろの一人が落胆した声を上げる。その声をきっかけに、列全体がざわめき始めた。


 「えぇ、うちの親、『これでお前も一人前だ』って……」


 「うちもだよ。村中が大騒ぎで、立派な杖を買ってくれたんだ」


 がっかりした声があちこちから聞こえる。カノンも黙って俯いた。


 その時、列の脇を通りかかった上級生らしき少年が、同情的な表情を浮かべた。栗色の髪に学院のローブを着こなした、背の高い生徒だった。


 「杖持ってきちゃったんだ」


 地方出身の生徒たちが一斉に振り向く。


 「だって、魔術師は杖を持つものだろ?」


 一人が声を上げた。


 「そう、よくある誤解だね」


 少年が苦笑する。


 「年老いた魔術師が杖をついてるのを見て、みんな『魔術師=杖』だと思っちゃうんだ。去年まではまだ持参してる子もいたけどね」


 少年は肩をすくめた。


 「今は事故のせいで全面禁止だけどね。まあ、今時は指輪とか腕輪の方が便利だし」


 手が震えるのを押さえながら、カノンは配送先を書いた。寮の部屋番号を記入する。実家に送ったら、父がどれほど落胆するか想像もしたくなかった。


 重い布袋を職員に渡す。職員は中身を確認した。


 金貨十二枚。父の店の三ヶ月分の売上に相当する。いや、正確には三ヶ月と六日分。母が家計簿とにらめっこしながら夜中まで悩んでいた姿を思い出す。弟が自分の誕生日プレゼントを諦めてくれた。あの子が欲しがっていた木彫りの兵隊は銀貨三枚だった。


 「カノンのためだから」と言って、みんなが笑っていた。村の人たちも「魔術師の道具だ」と言って感心していた。


 でも、それは全部間違いだった。


 カノンは頭の中で素早く計算を始める。癖だった。金貨十二枚で、学院指定の魔導具なら何が買えただろう。価値を数字に置き換えないと落ち着かない。


 魔導具として使えるとはいえ、学院では使えない。何より、上級生の言葉が胸に刺さる。「よくある誤解」「杖をついてる」


 父や村人たちが誇らしげに語っていた「立派な杖」は、魔術師の象徴ではなく、ただの歩行具だったのだ。知らなかった。誰も教えてくれなかった。



 重い沈黙が流れた時、上級生らしき少女が立ち止まった。黒髪を三つ編みにした、穏やかな顔立ちの生徒だ。地方出身の新入生たちの落ち込んだ様子を見て、少し表情を和らげる。


 「まあ、学院内では使えないけど、外では禁止されてないから」


 慰めるような口調で続ける。


 「休みの日とか、寮で練習するときに使ってみなよ。魔導具の感覚を掴んでおくのも大切なことだから、無駄にはならないよ」


 「まずは自分の魔力制御をしっかり身につけることが大事だけど、道具を使う技術も立派な魔術の一つだから」


 微笑みながら去っていく彼女の言葉に、少しだけ救われた気がした。


 カノンは小さく折りたたんだ預かり証を胸ポケットにしまった。杖は寮の部屋に送られる。いつか使える日が来るのだろうか。


 足取り重く、教室へと向かう。廊下には他の新入生たちの姿があった。指輪や腕輪などの小さな魔導具を身につけている者もいる。それが普通なのだ。


 近くを歩く新入生たちの会話が耳に入る。


 「聞いた? 今年はヴェル=クレア家の令嬢も入学するらしいよ」


 「ああ、あの魔術師の名家の」


 「どんな人なんだろうね」


 カノンにとって、それは遠い世界の話だった。名家の令嬢など、自分とは無縁の存在だろう。


 自分は何も知らずにここに来てしまった。でも、もう後戻りはできない。



 翌朝、「魔法学基礎」の最初の授業。


 階段状に並んだ机に三十人ほどの新入生が座っている。神秘的な魔法陣も、光る水晶球もない。代わりに黒板の前で教授が手を振ると、見たことのない複雑な記号列が宙に浮かび上がり、黒板に吸い込まれるように定着した。


 新入生たちから驚嘆の声が漏れる。古代文字のような記号が、青白い光を残しながら精密な規則で配置されていく。


 「魔法とは、諸君が想像しているそれとは程遠いものです」


 白髪の教授が振り返る。肩から羽織った黒いケープの下には、体に沿った深灰色の長衣。腰の革製ホルダーには幾つかの魔導具らしきものが見える。その手には杖ではなく、金属製の計算尺らしきものが握られていた。


 教室がざわめく。


 「魔術とは精神集中によって魔力を制御する技術です。イメージや感情ではありません——」


 計算尺を黒板に向けると、複雑な記号列が浮かび上がる。教授の声に熱がこもる。


 「——正確な公式と、厳密な手順が必要です」


 記号列はまるで数式のようで、想像していた魔法とはかけ離れていた。


 「皆さんがここにいるのは、魔力適性検査に合格したからです。魔力適性を持つ者は全体の三割ほどですが、学院で学べる水準に達する者はその中でもごく一握り。諸君は選ばれた存在です」


 教室に静寂が流れる。生徒たちの表情に、驚きと誇らしさが入り混じる。


 カノンは思い出す。あの緊張した適性検査の日。水晶球に手を置いて魔力量を測定し、魔力制御の素質を調べる装置での検査。数値がギリギリで合格ラインに届いた時の安堵。自分でも才能があったのだと実感した瞬間。


 隣の席で、ひとりの生徒が姿勢を正した。みんな同じように、自分たちの立場を再認識しているのだろう。


 「では実技に入ります。この記号列を正確に記憶し、指定された順序で魔力を流してください」


 教授が再び手を動かすと、新しい古代文字が空中に現れ、黒板に定着する。五つの記号が矢印で繋がれていく。


 「これも魔力制御の一例です」


 教授が微笑む。


 「文字を空中に描くだけでも高度な技術で、教授でも専門外だと難しいものです。ましてや物質に定着させるとなると——まだまだ皆さんには遠い領域ですが、目標として覚えておいてください」


 生徒たちの目が輝いた。今目の前で見ているのが、いかに高度な魔術なのかを理解する。


 「……こんなに美しく魔力制御できるんですね……」


 一人の生徒が感嘆の声を漏らす。


 教授の表情がふっと緩んだ。


 「……そうだろう? 本当は、もっと見せたいくらいなんだ」


 少し得意げな様子を見せてから、慌てたように咳払いする。


 「……いや、話を戻しましょう」


 その時、窓の外で突然オレンジ色の閃光が上がった。学院の敷地と隣接する研究施設から黒煙が立ち上る。ドンという鈍い爆発音が遅れて教室まで届く。


 新入生たちが驚いて窓の方を見る。カノンも目を向けて——息を呑んだ。


 研究施設の三階部分が——二重に見える。同じ窓が微妙にずれた位置に重なって映り、まるで水面に映った建物を見ているような歪み。煙は普通に立ち上っているのに、建物だけが現実と少しずれた場所に存在しているかのようだ。


 カノンは周りの生徒たちを見回した。みんな爆発の煙に気を取られている。この奇妙な歪みに気づいているのは、自分だけなのだろうか?


 「……またヴェルニカさんか」


 教授は振り返りもせず、小さくため息をつく。


 「気にしなくて大丈夫です。隣に魔術研究の施設があり、しばしばこういうことが起こるのです」


 苦笑いを浮かべて、つい本音が漏れる。


 「音の方は慣れが必要ですが」


 教授が計算尺で黒板の記号列を指し示す。新入生たちの注意を引き戻すように。


 「さて、話を戻しましょう。皆さんが今から学ぶのは、あのような派手な実験ではなく、地道な基礎訓練です。詠唱はあくまで初学者のための補助手段です。無詠唱でできる方はそれでも構いませんが、まだ慣れていない方は必ず声に出して練習してください」


 カノンはもう一度窓の外を見た。研究施設の歪みは既に消えていたが、あの違和感は目の奥に焼き付いていた。


 教室に声が響き始める。


 「アル、ベ、ガ、デ、エプ——」


 機械的な音の羅列。神秘性のかけらもない。


 「はい、ストップ。三番目で魔力が漏れていますよ、そちらの君」


 指された生徒が顔を赤くする。


 カノンも同じような失敗を繰り返した。頭で理解していても、実際に魔力を制御するのは全く別の技術だった。


 壁に掛かった魔導具が低い音を響かせる。魔導具に組み込まれた鉱石が、決まった時間に音を発する仕組みのようだ。教授が「今日はここまで」と告げ、生徒たちはほっとした表情で教室を出ていく。


 昼休みの中庭。石のベンチが点在し、新入生たちが小さなグループに分かれて座っている。


 「魔法陣って、あんな数式みたいなもんなの?」


 「うちの村では光る円を描くのが魔法だと思ってた」


 「結局、暗記と計算ばっかりじゃん」


 愚痴をこぼす声があちこちから聞こえる。でもカノンは羊皮紙の記号を指でなぞりながら、別のことを考えていた。


 教授の手の動きと、記号が現れるタイミングが完全に同期していた。五つの記号は独立しているようで、実は一つの流れを形成している。空中に描かれた軌跡と、黒板に定着した記号の配置。その間には目に見えない何かの法則があった。まるで川の流れのように、魔力が決まった道筋を通っているかのような——


 指でなぞった記号から、かすかに手のひらが温かくなる。小さな、頼りない感覚。でも確実に何かがある。


 魔力。


 見た目は地味でも、そこには確かに不思議なものが宿っている。


 魔導具が再び音を響かせ、午後の授業開始を知らせる。生徒たちは実習室へと向かった。



 初めての火魔法実技。


 実習室は教室より小さく、木製の机が整然と並んでいる。机の上に、一人一つずつ配られた小さなガラス瓶。中には細い蝋燭が立てられ、口は完全に密閉されている。術式文には、五つの記号とその組み合わせ方が書かれている。


 「各自のペースで構いません。正確な詠唱と魔力制御で確実に点火してください」


 教室にため息が漏れる。


 「これ、マッチ使った方が早くない?」


 「火打石なら一瞬だろ」


 周りからそんな声が聞こえる。カノンも同じことを考えたが、やがて気づく。ガラス瓶は密閉されている。マッチや火打石ではどうやっても中の蝋燭に届かない。魔力だけが、ガラスを通り抜けて火を生み出せるのだ。



 「アル、サ、フィ、ガ、エン……」


 十回目の挑戦で、ついにカノンも成功した。指先からじわじわと熱が伝わり、ガラスを通り抜けて蝋燭の芯にふわりと火が点った。


 火打石なら一瞬。これに一時間。だが、魔力だけが物理的な障壁を通り抜けて火を生み出せるのだ。


 隣の席では、まだ成功していない生徒が額に汗を浮かべている。反対側の生徒は、もう諦めて机に突っ伏していた。


 その時、前方の席で小さな悲鳴が上がった。


 「あ、あの……」


 一人の生徒が震え声で手を上げる。その生徒のガラス瓶を見て、カノンは息を呑んだ。瓶の側面が黒く煤け、ガラス自体が熱で歪んでいる。


 「変換が早すぎます」


 教授が駆け寄り、瓶を確認する。


 「しかし……瓶を焦がすほどの出力が出るとは」


 教授の顔に困惑の色が浮かぶ。明らかに想定外の事態だった。


 「通常の初心者が出せる魔力量を遥かに超えている。君、以前に魔術の経験は?」


 「い、いえ……今日が初めてです」


 教室がざわめく。カノンは思わず自分のガラス瓶を見下ろした。小さく頼りない炎が、静かに揺れているだけだった。


 教室全体を見渡すと、三十人中半数ほどが成功していた。余裕の表情で炎を見つめる者もいれば、額に汗を浮かべてようやく点火できた者もいる。経験の差が如実に表れていた。


 これが魔法の現実だった。


 「火魔法は『火をつける』ためのものではありません」


 教授が厳しい表情で教室を見渡す。


 「魔力を意思通りに制御できるか。術式を正確に再現できるか。その基礎訓練です」


 「便利さを求めるなら道具を使いなさい。しかし魔術を学ぶということは、それ以上の魔法を生み出す力を身につけるということです」


 壁の魔導具が再び低い音で授業終了を告げ、生徒たちがぐったりと教室を出ていく。


 蝋燭の炎は既に消えていた。一時間かけて灯した火は、わずか三分しか持たなかった。


 それでも、確かに自分の力で火を灯せた。その事実だけが、ただ一つの慰めだった。


 夕暮れの廊下を歩きながら、カノンは振り返る。家族の期待、村の人たちの祝福、そして学院の現実。


 父さんには、まだ本当のことは言えないだろう。杖が使えないことも、魔法が地味な作業の連続だということも。


 でも、今日一つだけ確かなことがあった。自分の力で、ガラスを通り抜けて火を灯せたこと。それは間違いなく魔法だった。


 窓の外、夕日に照らされた中庭で、淡いブルーの上質なローブを着た女子生徒が一人で何かを練習している。肩まで伸びた金色の髪、その手のひらには既に安定した光の球が浮かんでいる。


 詠唱もなしに、まるで呼吸をするような自然さで魔法を操る姿。その優雅さに、カノンは見とれていた。


 理想と現実の狭間で——明日もまた、新しい発見が待っているのかもしれない。

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