触れた瞬間

ぴぴ之沢ぴぴノ介

触れた瞬間

 朝、意識が覚醒した瞬間の瞼の重さが身体の怠さを実感させる引き金となった。近くに感じる昨日の体温、肌触り。目を開けるとやはりそこには君が居た。

 天使のように生まれた儘の赤子のように、愛おしく、愛らしい。愛らしかった。僕がその白に触れて穢してしまった罪悪感が脳の起動と共に襲ってきた。

 これまで一度たりとも触れることなどできなかった柔いくちびるを気が狂ったかのように、侵した。いや、本能ならば寧ろそれが正常だったのか。

 触れた瞬間、君は僕と同じく人間であることを確信させた。

 いたずらっ子の誘いに見事に乗っかってしまった。もしかしたら君は悪魔だったのかもしれない。

 翻弄されるしかなかった昨夜の寝床。

 そろそろ君は目を覚ますだろうか、そうしたら僕を軽蔑するだろうか。長い睫毛を見つめながら昨日まで触れることを躊躇っていた髪の毛を掌で優しく撫でた。

 つい数時間前の記憶が肌から蘇ってくる。好奇心に満ちた君はもう一度、なんて言うのだろうか。それならば、僕はまた踊らされてしまうのだろうな。

 いつの間にか蝉が鳴いていた。窓と二人を隔てる障子が心地良く吹く風に煽られる葉の影を映し出す。時間の経過を知らず君の瞼が動く瞬間を捉えた。小さな唸り声を出しながら身体をゆっくりと捻り、口を開いた。

「も……あさ……?」

「うん、朝」

「……そっかあ」

 曖昧な発音でも意思疎通は可能だった。

「あ、そっか……そっか、お泊り会してるんだったね」

 朦朧とした意識が明瞭としてきたのか、発音に輪郭が伴ってきた。君は目を開けて僕を捕らえた。力無く微笑み、放りっぱなしの僕の腕を撫でた。浴衣の薄い生地は君の体温をおよそ正確に透過した。

「ご飯、食べいく?」

「うん」

 いつも通りの甘い君。睡眠で取り切れなかった疲労感を紛らわすためにも僕らは朝食を摂りに行った。




「ね、今日は何する? 一日中空いてるよね」

 朝にしてはやや多い量を半分程度腹に入れた時、君から問が投げられた。元はと言えば行き先すらも決めず逃げるようにここへ来た。遠い遠い場所へ。君はここが何処かなんて把握し切れていないようだ。

「うーん、どうしようか。暑いしずっと宿でも良いよ」

「それはつまらないでしょ。一緒にお散歩しよ」

 ね? と満面の笑み。一応尋ねておくが、やはり君はやりたいことが大体決まっていた。暑さなど、きっと君と居れば忘れられる。

「そうしようか」

 食事を終えてゆったりと身支度をする。着替えはある程度持ってきたし、最悪何処かで買えば良いと考えているが、限界は来るだろう。ただ二人、手を取り合って逃げた。地元から、現実から、確定された詰まらない「明日」から。何か不幸があったわけではない平均的な人生を送っていたはずだが、君と出会ってからは君に釣られて非日常の刺激を求めるようになっていた。それと同時に全てから解放されたかった。




 支度を終えた僕らは宿を出て猛暑の中を並んで歩いた。自然に囲まれていながらも観光地ではある。数十分歩けば何かあるだろう。

 腕や手が触れそうになる距離に必要以上に気を張り詰めてしまう。今更何を緊張しているのか。僕の肩辺りに君の頭がある。このまま抱き締めればすべて収まってしまう。邪な支配欲が顔を出さないよう会話の無い二人の空間から目をそらした。その直後、見計らったように引き戻された。

「そういえばさ」

「何?」

「私達の関係って、結局何なんだろう」

「え、と……恋人?」

「え?」

「……え」

 明らかに出す言葉を間違えた。思わず二人して足を止め、僕らの間を蝉時雨が引き裂きそうだった。

「あ~……昨日、さ、散々好きって言い合ったから」

「え! 好きって言ったら付き合うの?」

「じゃあ何なら付き合うの」

「付き合ってください、かな」

 価値観の違いがここで出るか。「好き」や「愛してる」の記号では僕らの関係は確定しないようだ。

「じゃ、付き合って。またああやって抱きしめ合おう」

「なんかあっさりしてるね」

 君が感じ取ったよりも勇気を出したつもりだったが、これも駄目か。

「ロマンが足りない?」

「そうね」

「何なら埋められる?」

「そりゃ、無難に」

 瞬間、君の顔が近づいた。次の瞬間に重なり合ったくちびる同士は無味でありながらもあらゆる感覚を呼び起こし互いの身体の熱を上げた。少し迷子になっている君の手とは対照的に僕の手は迷わず君の頭と背中に在った。触れた汗ですら現実に引き戻すことなく愛を確かめあっていた。罪悪感の軽薄化が危うさを加速させる。

「暑いね、手、繋ごっか」

「何その矛盾」

 このちぐはぐさにはもう慣れた。寧ろそれが嬉しい。やはり、君は天使でも悪魔でも無かった。君の小さく細い手に触れた瞬間、そんな妄想から目覚められた気がした。

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