高校時代に好きだった小百合は、もうこの世にいなかった。

春風秋雄

小百合は、もうこの世にいなかったのか

つくづく皆年をとったなと思う。俺が卒業した高校は10年おきにこのお盆の時期に同窓会を開催するが、俺は40歳になる年の同窓会には出席していなかったので、今回の50歳になる年の同窓会が皆と会うのは20年ぶりということになる。驚いた。顔を見てもしばらく誰だか全くわからない面々が多かった。男性陣のほとんどは白髪頭で、顔もお腹も太っている。先生なのか同級生なのか見分けがつかない奴もいる。学年のアイドルだった浅田真由美さんは、お子さんを3人産んだらしく、丸まる太っていて、高校時代の可愛らしさは見る影もなかった。

それより何より、この年になると早々にこの世を去った人も何人かいたことに心が痛んだ。開会の冒頭で、司会役の幹事がこの10年でこの世を去った人の名前を読み上げ、全員で黙祷をした。ショックだったのは、その中に木下小百合の名前があったことだ。あの小百合が亡くなっていたとは。小百合は30歳の時の同窓会には来ていなかったので、彼女とは高校卒業以来会っていない。どんな人生を送って逝ってしまったのだろう。短いながらも幸せな人生だったのなら良いのだけど、と思わずにいられなかった。

お酒が入って、様々な人と話すうちに、高校時代の思い出が少しずつ蘇ってきた。最初は誰だかわからなかった奴が、だんだん高校時代の顔に見えてくるから不思議だ。そんなことを考えていると、後ろから声をかけられた。

「佐野君、久しぶり」

振り向くと、一人の女性が立っていた。その女性を思い出すのに時間はかからなかった。高校時代の面影が残っている。

「私、誰だかわかる?」

「わかるよ。前島だろ?」

「うれしい、覚えていてくれたんだね」

覚えているに決まっている。前島紀子。木下小百合の一番の友達だった。いつも二人で行動していたので、俺が小百合と話すときは、いつも小百合の隣で一緒に話に加わっていた。

「小百合、亡くなったんだね」

「うん。もう5年近く前だね。白血病だった」

「そうだったんだ」

「小百合、佐野君に会いたがっていたんだよ」

「そうなの?」

「佐野君はいつまでこっちにいるの?」

どうやら前島は俺が今は東京にいることを知っているようだ。

「お盆の間はこっちにいるつもり。今年は土日がうまく繋がったので、17日に東京へ戻る予定だよ」

「ねえ、明日小百合の墓参りに行くつもりなんだけど、佐野君も一緒にお参りしてあげてくれないかな?」

「俺が?」

「佐野君が来てくれたら小百合は喜ぶと思う」

「俺なんかが行ったら、家の人が変に思わないか?」

「私と一緒なら大丈夫でしょ?それに小百合は生涯独身だったから、変に気を回す人はいないから」

小百合は結婚しなかったのか。

前島に押し切られるような形で、明日一緒に小百合の墓参りに行く約束をした。俺たちは連絡先を交換した。前島は苗字が変わって、今は大内になったということだった。


俺の名前は佐野隼人。福井県の勝山市の出身で、高校を卒業してからは進学で東京へ行き、そのまま東京で就職した。現在は東京に本社を置く大手家電メーカーで、総務部長という肩書をもらっている。若い頃に一度結婚したが、妻も仕事に生きる人だったので、すれ違いが多く、結局3年ほどで離婚した。その後再婚も考えたが、独り身が気軽で良いと思い、何人か交際相手は出来たが、結婚はしなかった。

木下小百合とは中学校から同じ学校に通っていた。高校1年の時に同じクラスになり、よく話すようになった。その明るい性格に俺は惹かれていき、密かに気持ちを寄せていた。小百合も俺といるときは楽しそうだったので、脈はあるのではないかと思っていた。俺は剣道部に所属していて、小百合は新体操部だった。体育館で練習する二つの部は度々日程が重なり、俺は密かに小百合のレオタード姿に見惚れていた。ところが、2年になったとき、剣道部の先輩が俺と小百合が仲が良いことを知って、俺に小百合を紹介しろと言ってきた。先輩も小百合の練習姿を見て好意を持ったようだった。当時の剣道部では上下関係は絶対で、先輩の言うことに逆らうことはできない。しかも、その先輩は3年生の中でも一番恐い存在だった。仕方なく俺は先輩に小百合を紹介することにした。まともに言っても小百合は来てくれないだろうから、話があるから一人で来てほしいと喫茶店に誘った。俺たちが少し話しているところで先輩が登場し、先輩に促されて俺は小百合を置いて喫茶店を出た。その後は二人でどういう話がなされたのかはわからないが、結局小百合は先輩とは付き合うことはなかったようだ。しかし、その日を境に小百合は俺を避けるようになった。嫌われても仕方ないことをした自覚があるので、俺は小百合を諦めるしかなかった。結局先輩が卒業した後も、小百合の態度は変わらず、そのまま俺たちは卒業した。


翌日、大内紀子と連絡をとりあって、霊園の入り口で待ち合わせた。大内さんに案内されて小百合のお墓の前に行く。すでに近親者の方が参ったのだろう。たくさんの花が供えてあった。大内さんが用意していた線香をあげ、俺たちは手を合わせた。目をつむって手を合わせていると、高校時代の様々なことが思い出された。しかし、どうしても騙すようにして先輩を紹介したことが悔やまれる。あの時は申し訳なかったと、心の中で謝った。

墓地を出たところで大内さんが聞いてきた。

「佐野君は、ここまでどうやって来たの?」

「タクシーで来た」

「じゃあ、私の車で帰ろうか」

俺は遠慮なく大内さんの車に乗り込んだ。

「ねえ、この後予定ある?ちょっとお茶しない?」

「特に予定はないから大丈夫だよ」

大内さんはチェーン店のコーヒーショップに車を止めた。


コーヒーショップに入って、高校を卒業してからのお互いの事を報告しあった。大内さんはお子さんが二人いて、二人とも社会人になり親の役目が終わったところで、旦那さんと離婚したということだった。

「もともと離婚はずっと前から考えていたの。旦那は外に女を作っていたしね。でも子供が大学を卒業するまではと、我慢していたの」

「そうなんだ。じゃあ、今は独り暮らし?」

「うん。子供たちは県外で就職したし、今の職場は、給与はそれほど良くないけど、働きやすい環境だから、体が動く間は子供たちの世話にはならないでおこうと思ってね。それより佐野君が独り身だというのには驚いた」

「再婚を考えた時もあったけどね。でも独り身が気が楽でいいなと思って今に至っている」

「だったら、小百合が元気なうちに連絡とって、会わせてあげればよかったね。小百合はね、ずっと佐野君のことが好きだったんだよ」

「そうなのか?俺が余計なことをしてから、ずっと避けられていたようだったけど」

「剣道部の先輩を紹介したこと?確かに小百合はショックだったみたいだけど、佐野君を避けていたのは他に理由があったから」

「どんな理由?」

「それは、また機会があったら話すよ。それより佐野君はこっちにいる間、何か予定が入っているの?」

「墓参りをするくらいだね。昨日の同窓会で誰か遊びに誘ってくれるかと思ったけど、誰も誘ってくれなかったから、実家でぼんやりと過ごすつもり」

「だったら1日私とデートしてよ。子供たちは15日に帰ってしまうから、16日はどう?」

「大内さんとデートかぁ」

「私じゃ嫌?」

「嫌じゃないけど、考えてもみなかったから」

「いいじゃない。それより、その大内さんという呼び方はやめてよ。佐野君らしくない」

「高校時代はずっと前島と呼び捨てにしていたけど、大内と名前が変わっていると、呼び慣れていないから呼び捨てにしづらいんだよ」

「じゃあ、紀子と名前で呼んで」

「名前を呼び捨てにするのも気が引けるから、小百合が呼んでいたように“紀ちゃん”にするか?」

「それでいいよ」

紀子は嬉しそうにニコッと笑った。


16日は住所を教えておいたので、紀子は俺の家まで車で迎えに来てくれた。

「どこへ連れて行ってくれるの?」

「佐野君は恐竜博物館って、行ったことある?」

「いや、ないよ」

「勝山の人間なら、恐竜博物館は一度行っておかないとね」

俺たちの故郷、福井県は恐竜の街だ。福井駅の駅前には恐竜のモニュメントが23体も設置されている。そして、俺たちの住んでいた勝山市には福井県立恐竜博物館がある。俺が東京へ出てから出来た博物館なので、まだ行ったことはなかった。

紀子は何故か年間パスポートを持っており、俺だけチケットを購入した。

「年間パスポートって、よく来るの?」

「そうね、年に5回は来るかな。3回来たら元が取れるから、年間パスポートにしたの」

館内に飾ってある恐竜は、思ったより迫力があった。今まで恐竜なんか興味なかったけど、来て良かったと思った。

人類の直系の先祖と言われている猿人の化石“ルーシー”の前で紀子は立ち止まった。

「318万年前の私たちの先祖も、恋愛とかしていたのかな。一人の男を何人かの女が取り合ったり、一人の女を何人かの男が取り合ったりしたのかな」

「それは動物の本能だから、当然あっただろうね。人間に限らずどの動物でも同じようなことがあるのだから」

俺がそう言うと、紀子は「そうだよね」と言って、次のコーナーへ足を進めた。


恐竜博物館を出た後、近くの蕎麦屋で越前そばを食べ、俺たちは海に向かってドライブすることにした。

1時間も車を走らせると、海が見えてきた。

「福井の海を見るのは、何十年ぶりだろう」

「そうでしょう?そう思って連れてきたの」

展望スペースには、けっこう人がいた。

「夏の日本海は最高だな」

「日本海の中でも、東尋坊が一番だよね」

「他の日本海を見る機会がないから、何とも言えないけど、きっと一番だよ」

「私も他を知らないけど、一番に決まってる」

「紀ちゃんは、福井が好きなんだね」

「生まれ故郷だからね」

「福井を出たいと思ったことはないの?」

「出たいと切実に思ったことはないけど、住むところは別に福井でなくても構わないかな。故郷は遠きにありて思うものって言うじゃない?遠くにいた方が故郷をより良く思えるなら、遠くに住んでもいいかなと思う」

室生犀星の詩だ。ただ、これは望郷の詩句と思われているが、実際は室生犀星が東京での生活を諦めて故郷の金沢に帰った際、故郷は温かく受け入れてはくれなかった、やはり故郷は遠くにいて思うものだという意味だと解されている。


海の近くには海鮮料理の店がたくさんあり、俺たちは夕食を食べてから帰路についた。

道中紀子は、お酒も飲んでいないのに上機嫌だった。

「なんか、嬉しそうだね」

「だって、佐野君と一日デートができたんだもの」

「俺とのデートがそんなに楽しかったの?」

「私、高校時代、佐野君のこと好きだったんだよ」

「そうなの?」

「だから、10代のときの夢がやっと叶ったんだもの。嬉しいにきまっているじゃない」

紀子が俺のことを好きだったなんて、思ってもみなかった。というか、俺は小百合ばかり見ていたので、紀子のことを見ていなかったから、気づかなかったのだろう。

「佐野君は、明日帰るのでしょ?」

「うん。明後日から仕事だから」

「もう会えないかもしれないから、もう一つだけ私の望みをかなえてもらってもいいかな?」

「べつにいいけど、望みって何なの?」

紀子はそれから黙り込んだ。しばらくすると、紀子はハンドルを切り、ラブホテルの敷地へ入って行った。俺は驚いた。まさかそんな望みだったとは思ってもいなかった。駐車場に車をとめ、紀子は俺を見て言った。

「望み叶えてくれるって言ったよね?それとも50歳のこんなオバチャンでは嫌?」

「嫌じゃないけど・・・」

「1回だけ。へんに付きまとったりしないし、私としたことを地元の人間に知られたくないなら、誰にも話さないから」

「わかった。じゃあ、あがろうか」

俺はそう言ってシートベルトを外して車を出た。


最近では特定の女性はつくらず、もっぱら風俗に頼っていた。だから、年が近い女性とそういうことをする機会はなく、ましてや50歳の女性とするのは初めてだった。しかし、紀子の場合は高校時代を知っているので、ふと目を閉じれば高校生の紀子の顔を思い出す。しだいに高校生の紀子の顔と、今の紀子の顔が重なって見えるようになった。不思議な体験だった。


東京に戻ってからすぐに、俺は紀子にメッセージアプリでメッセージを送った。とても楽しかった。また会いたいと書いた。すると紀子からすぐに返信がきた。それ以来紀子とはメッセージアプリで毎日のように連絡をとりあった。他愛もないやり取りばかりだったが、楽しかった。ますます、また会いたいと思うようになった。

9月に連休があるので、俺は紀子に東京に遊びに来ないかと誘ってみた。紀子からはすぐに「行く!」と返事がきた。

連休初日に東京駅まで迎えに行った。新幹線の改札前で待っていると、俺を見つけた紀子がニコッと笑って出てきた。荷物を持ってあげて、とりあえず電車で俺のマンションまで来てもらった。

「素敵なマンションね。ここに一人で住んでいるの?」

「そうだよ」

「さすが、大手家電メーカーの部長さんだね」

「家族がいないから、生活費にお金はかからないし、趣味もゴルフ程度だから、住むところくらいはお金をかけようと思ってね」

俺は6年前に3LDKの分譲マンションを購入していた。

夕食は近くのホテルのレストランへ連れていった。紀子はこんな店来たことがないといって緊張していた。

マンションに戻り、シャワーを浴び寝室に入る。

抱き合った瞬間に、たった1ヶ月しか経っていないのに、やっと会えたという実感がわいてきた。


冷蔵庫から冷えた麦茶を持ってきて、ナイトテーブルに置くと、紀子が上半身だけ起き上がってコップに手を伸ばした。枕を背もたれにしながら、紀子がボソリと口を開いた。

「もう佐野君とは、こんなことはすることもないし、ひょっとしたら会うこともないかもしれないと思っていたから、言わずじまいだったけど、佐野君に誘われて、思わず東京まで来ちゃったから、ちゃんと言っておかなければと思って言うけど」

紀子がそんな前置きをするくらいだから、大切な話だろうと思い、俺は黙って聞くことにした。

「あの時、小百合が佐野君を避けるようになったのは、私のせいなの」

「紀ちゃんのせい?」

「うん。佐野君が小百合に先輩を紹介したと聞いて、それまで佐野君は小百合のことが好きだと思っていたんだけど、そうじゃなかったんだと思ったの。そのことを小百合に言ったら、小百合も“そうかもしれない”と言って、気落ちしていた。小百合は佐野君のことが好きだったから。それで私言ったの、本当は私も佐野君のことが好きだって。佐野君をデートに誘ってもいいかなって小百合に聞いたら、小百合は驚いていたけど、佐野君は私なんかのことは何とも思っていないみたいだから、私に遠慮する必要はないよって言って、それから私に気兼ねして佐野君を避けるようになったの」

「そんなことがあったのか」

すべて誤解だ。俺が先輩の頼みを断り切れなかったからだ。俺がふがいなかったばかりに。

「でも、佐野君は私がデートに誘っても、全然相手にしてくれなかった」

「俺、デートに誘われた?」

「覚えてないの?2回も映画に誘ったけど、小百合は来ないのかって聞いて、来ないと言ったら、前島と二人で行くのは遠慮しておくって言ったじゃない」

全然覚えていない。

「でも、佐野君に振られたこと、小百合には言えなかった。私が振られたと言ったら、今度は小百合がデートに誘うと言うかもしれないと思ったら、言えなかった。卑怯だよね、私」

俺は何も言えなかった。

「私、本当は知っていたんだ。佐野君は小百合のことが好きだって。先輩を小百合に紹介したのだって、先輩に逆らえなかっただけだってわかってた。剣道部にひとつ上の前島って部員がいたでしょ?あれ私の従兄なの。小百合を紹介した先輩って、すごい恐い人だって聞いてた。あの人の言うことを聞かなかった後輩が、稽古と称して、さんざんな目にあったことが何度もあったって。今なら問題になるけど、あの時代はよくあることだったからね。知っていたけど、小百合には言えなかった」

俺はただ聞いているだけしかできなかった。

「小百合が病気になったとき、お見舞いに行って、今更だけどって、あの時のことを正直に話したの。そしたら小百合は、そんなこと気にしなくていいって言ってくれた。紀ちゃんが振られたと聞いても、佐野君をデートに誘うことはなかったって言うの。紀ちゃんが佐野君のことを好きだって聞いたら、そんなことできないって。自分の好きな人が親友とつき合ったら辛いでしょって言うの。涙が出た。私は親友の好きな人なのに、その人と付き合いたいと思っていたのに」

紀子の声が涙声になってきた。

「それなのに、それなのに、小百合がいなくなっちゃったら、その時の小百合の言葉なんか忘れて、佐野君をホテルに誘って・・・、1回だけのつもりだったのに、佐野君に誘われたら、ホイホイと東京まで来ちゃって、最低だよね」

肩を震わせて泣く紀子を、俺はそっと抱きしめた。

「私、佐野君とはもう会わないことにする。こんなことをするのは、今日が最後。そうしないと、天国の小百合に申し訳ない」

俺は、泣きじゃくる紀子をなだめるように、紀子の背中をさすり続けた。


翌朝、紀子は、ほとんどしゃべらないまま、マンションを出て行った。東京駅まで送ると言ったが、一人で帰ると言って拒んだ。

俺は紀子の話を聞いて、どうすれば良いのかわからなかった。紀子のとった行動は、特に責められることではない。まだ子供だった高校時代のことはもちろん、お盆に俺をホテルに誘ったことだって、小百合はもうこの世にいないのだから、気兼ねすることではない。小百合も何も思わないと俺は信じている。俺は紀子の背中をさすりながら、そう諭した。しかし、紀子はもう俺とは会わないと言うだけだった。小百合に対して申し訳ないという紀子の気持ちを、俺にはどうすることもできなかった。

その後、何回も紀子にメッセージを送ったが、返事はない。電話もかけてみたが電話にも出なかった。


10月になり、連休を使ってやっと福井に帰れた。俺は紀子に福井に帰ったとメッセージを送った。既読にはなるが、返信はない。俺はもう一度メッセージを送った。

“明日、小百合のお墓参りに行きます。出来たら紀ちゃんも一緒に行ってほしいです。13時に霊園の入り口で待っています”

翌日、霊園の入り口で待っていたが、13時になっても紀子は現れなかった。仕方なく一人で小百合の墓に行き、線香を手向けて手を合わせていると、後ろから誰かが近づいてくる気配がした。振り向くと紀子だった。紀子は何も言わず、手を合わせ、目をつむった。長い間小百合と何か話しているようだった。ようやく紀子が目を開け立ち上がった。

「小百合は許してくれたかい?」

「どうだろう。小百合は何も言ってくれないから」

「そうか、俺には小百合が“気にするな、紀ちゃんは紀ちゃんの幸せをつかんで”と言っている声が聞こえたけどな」

紀子がチラッと俺を見た。

「小百合は、親友の幸せに嫉妬するような、度量の小さい人間ではなかったよ。それより、自分のために親友が辛い思いをするのを見るのは耐えられない人だったよ」

紀子は何も言わず黙っている。

「なあ、紀子」

俺が初めて名前を呼び捨てにしたので、紀子は驚いたように俺を見た。

「東京に来て、俺と暮らさないか。俺たちの人生は、あと20年なのか30年なのかわからないけど、俺は残りの人生を紀子と一緒に過ごしたい」

紀子は何も言わず、ジッと俺の目を見た。その目がかすかに潤んできた。

「紀子がその気になったら、連絡してくれ。俺はいつまでも待っているから」

紀子は何も言わないまま、霊園の出口まで俺の後ろをついてきた。俺は親父に借りてきた車に乗り込む。紀子も自分の車に乗り込んでエンジンをかけた。


東京駅の周りは、まだ12月に入ったばかりだというのに、すっかりクリスマス気分だった。

紀子からいきなり連絡が来たのは1か月前だった。

“今日会社に退職願を出しました。退職日は1か月後です。1か月後に東京へ行きます。よろしくお願いします”

紀子の引っ越しの準備で、1ヶ月はあっという間にすぎた。

改札付近には人があふれている。俺は行き交う人の邪魔にならないように改札から目を離さず待っていた。新幹線は定刻通りに到着したようだ。続々と乗客が出てきた。すると、俺をみつけた紀子が満面の笑顔で手を振った。紀子が改札に切符を通す。すると、幸せの扉を開けるように、ゲートが開いた。

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