学校へ行かない君たちへ

志乃原七海

第1話【学校へ行かない理由】



小説「学校へいかない君たちへ」

第一話:ノイズとマイル


朝が来る。僕にとってそれは、世界の電源が強制的にオンにされる合図だ。

カーテンの向こう側から侵入してくる光、階下で始まる生活音、遠くで鳴り響く踏切の警報。それら全てが、僕の部屋という最後の聖域の壁をじわじわと溶かしていく。


「和樹、起きなさい! 今日からよ、例の法律!」


母さんの弾んだ声が、ドアを隔ててもクリアに届く。その声に含まれた期待が、僕の身体を鉛のように重くした。

例の法律――『青少年就学促進法案』。

世間ではもっとキャッチーな名前で呼ばれている。「さあ、学校へ行こう法案」だ。


僕、佐藤和樹は、中学二年の秋から学校へ行っていない。

理由を聞かれても、上手く答えられたためしがない。いじめられたわけじゃない。友達がいなかったわけでもない。だから、周りは「怠けているだけ」と結論づけたがる。でも、違うんだ。


僕にとって学校とは、感覚の飽和地帯だった。

教室に充満する、ざわめき、ひそひそ話、チョークの音。それらが混ざり合った分厚いノイズは、僕の集中力をじりじりと削っていく。誰かが当てられて困っている時の、クラス全体に広がる憐れみと安堵が混じった粘度の高い空気。僕の描く絵や、僕の好きな本のことを誰も評価しないのに、テストの点数というたった一つの物差しで人間の価値が決まる、あの歪んだ空間。


僕の心は、高性能すぎるマイクみたいに、必要のない音や感情まで拾いすぎてしまう。毎日、膨大な情報のノイズキャンセリングに全エネルギーを使い果たし、家に帰る頃には空っぽになっていた。ある朝、ついに心が悲鳴を上げた。「もう無理だ」と。それ以来、この六畳の自室が僕の全世界になった。


その静かな世界に、法案という名の巨大なノイズが割り込んできた。

登校すれば、一日100Gマイル。無遅刻無欠席ならボーナス。貯めたマイルは、ゲーム機にも、スニーカーにも、電子マネーにもなる。


「すごいじゃない、これなら和樹も行けるでしょ? 最新のパソコンだって買えるわよ!」

母さんは純粋に喜んでいた。僕の「行かない」という選択を、金銭的価値で上書きできる簡単な解決策だと思っている。悪意がないからこそ、それは深く僕を傷つけた。


タブレットを開くと、ニュースサイトのトップには『Gマイル狂騒曲、始まる!』の文字が躍っている。不登校だった生徒たちが、続々と学校に復帰しているという美談仕立ての記事。そこに添えられた写真の、笑顔の裏にある感情を想像して、僕は吐き気を覚えた。


彼らは、本当に学校へ行きたくなったのだろうか。

違う。彼らは、あの息苦しい空間に戻る「我慢料」として、マイルを受け取るだけだ。魂を少しずつ削ることへの対価だ。僕たちが必死の思いで拒絶したあのシステムに、今度は自ら首輪をつけられに戻っていく。


『カズキ、どうする?』

チャットウィンドウに、同じく学校へ行っていない友人「Sora」からのメッセージが光る。彼は僕と似ていて、集団生活のノイズに耐えられないタイプだった。

『親がうるさくてさ。一日我慢すれば100マイル。最新のペンタブが3000マイルで手に入るんだ。一ヶ月半…我慢すれば…』


その言葉に、僕の心も揺れた。

僕だって欲しいものはある。高性能なグラフィックボード。専門的なアートブック。それがあれば、僕のこの部屋での創作活動は、もっと豊かになる。


僕が学校へ行かないのは、僕の心が発した自己防衛反応だ。自分の感受性を、自分の世界を、守るための戦いだ。

だが、その戦いを続けるには、あまりにも孤独で、あまりにも貧しい。


もし、僕の魂の摩耗が、100マイルという数値に変換されるのなら。

もし、あのノイズの洪水に耐えることが、僕の望む未来への投資になるのなら。


「……行ってみるか」


自分でも驚くほど、乾いた声が出た。

母さんが置いていった制服が、椅子にかけられている。まるで、僕の降伏を待ち構えていたかのように。

それは、僕の尊厳と未来を天秤にかける、残酷な実験の始まりだった。僕はゆっくりと立ち上がり、三ヶ月ぶりにその窮屈なジャケットに袖を通した。窓の外の光が、やけに眩しく感じられた。

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