第26話 魔王との新たな契約
聖女イリスからの、あまりにも突飛な招待状。
その一枚の羊皮紙が、魔王城の作戦司令室に、新たな嵐を呼び起こしていた。
「却下じゃ! 断固却下! ふざけるな! 妾のアレンを、敵の巣窟に一人で行かせるものか! 断じて許さん!」
リリムは、テーブルをバン!と叩いて立ち上がり、全身で拒絶の意思を示した。その紅い瞳は、本気の怒りで燃えている。
「魔王様に同意しますわ。罠ですわね、十中八九。聖女様が、アレン様に興味を持っているのは明らか。その身柄を拘束する絶好の機会と見ているのでしょう。生きては帰れませんわよ」
ルナリアも、普段の軽口を封印し、冷静に危険性を指摘する。
「危険性が高すぎる。メリットが不明瞭。却下すべきだ」
ゼノンもまた、簡潔に、だが力強く反対の意を唱えた。
幹部全員が、反対。
それは、当然の判断だった。
だが――。
「俺は…行こうと思ってる」
俺の静かな一言に、三人の視線が突き刺さる。
「アレン、お主、正気か!?」
リリムが、信じられないといった顔で俺を見る。
「正気だ。罠かもしれない。だが、行かなければならない気がするんだ」
俺は、招待状を握りしめた。
「シオンのこと、俺のこの力の謎、そして、あの聖女が何を考えているのか……。このままじゃ、俺たちは後手に回るだけだ。あいつと直接話す、またとない機会だ」
聖女イリス。
彼女は、ただの狂信者ではない。
あの戦場で、俺の力を見た時の、彼女の瞳。それは、未知の真理を探求する者の目だった。
彼女なら、何かを知っているかもしれない。
そして、その何かは、俺たちがこの戦争を終わらせるための、重要な鍵になる。そんな予感が、俺の胸を締め付けていた。
「ですが、アレン様!」
「駄目じゃ、絶対に行かせん!」
ルナリアが食い下がり、リリムが再び吼える。
会議は、完全に暗礁に乗り上げた。
俺が、どう説得したものかと頭を悩ませていた、その時。
「……はぁ」
リリムが、大きく、深いため息をついた。
そして、すとん、と椅子に座り直すと、ぶすっとした顔で俺を睨みつけた。
「……分かったわい」
「リリム様!?」
「お主のその頑固な目は、拾った時から変わらんからのう。妾が何を言っても、どうせ行くのじゃろ」
リリムは、拗ねたように唇を尖らせる。
「……じゃが、条件がある!」
彼女は、すっくと立ち上がると、俺の目の前までやってきて、俺の胸を人差し指でつん、と突いた。
「絶対に、絶対に、生きて帰ってこい!」
その瞳は、真剣だった。
「これは、命令であり、妾とお主の、新たな『契約』じゃ! もし破ったら……地の果てまで追いかけて、その魂ごと、喰らってやるから!」
それは、魔王が口にするには、あまりにも不器用で、そして、どうしようもなく優しい、呪いの言葉だった。
「……ああ。必ず、帰ってくる」
俺は、彼女の瞳をまっすぐ見つめて、頷いた。
◇
翌日の日没前。
俺は、旅支度を整え、魔王城の城門の前に立っていた。
「……本当に、お気をつけて」
見送りに来たルナリアが、心配そうに俺を見つめている。彼女は、いつものからかうな笑みを消し、その紫の瞳を不安げに揺らしていた。
「もし……もしものことがあったら、わたくし、あの聖女を一生呪いますから」
彼女はそう言うと、すっと俺に近づき、その柔らかい唇で、俺の頬に軽く触れた。
「お守り、ですわ。サキュバスの祝福には、厄除けの効果もあるのですから」
悪戯っぽく笑う彼女の顔は、少しだけ赤らんでいるように見えた。
「……助かる」
俺は、照れ隠しにそっぽを向きながら、礼を言った。
霧の谷。
聖王国との緩衝地帯にある、一年中深い霧に覆われた場所だ。
待ち合わせ場所としては、最悪と言っていい。奇襲や待ち伏せに、これほど適した場所はない。
俺は、谷の中心で、ただ一人、静かにその時を待った。
神経を研ぎ澄まし、周囲の気配を探る。
やがて、霧の奥から、一つの足音が、ゆっくりとこちらに近づいてくるのがわかった。
殺気はない。
足音は、俺の数メートル手前で、ぴたりと止まった。
霧が、晴れる。
そこに立っていたのは、聖女イリス。
約束通り、彼女は一人だった。
そして、あの物々しい白銀の鎧ではなく、動きやすさを重視した、簡素な旅装を身にまとっている。
彼女は、俺の姿を認めると、どこかほっとしたような、複雑な表情を浮かべた。
俺は、いつでも剣を抜けるように、柄に手をかけたまま、彼女を睨みつける。
どんな言葉で、この交渉が始まるのか。
俺が身構えていた、その時。
イリスは、その場に深く、頭を下げた。
「来てくださったのですね、アレン」
そして、顔を上げると、真っ直ぐに俺を見つめ、予想だにしない言葉を口にした。
「……まずは、あなたに謝らなければならないことがあります」
「……は?」
俺の口から、再び、間抜けな声が漏れた。
謝る?
この聖女が、俺に?
一体、何が始まるというんだ。
俺は、ただ、困惑の中で、彼女の次の言葉を待つことしかできなかった。
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