透明な箱の中で

粟原

透明な箱の中で

専門学校時代、私は設計の道に進むことを決めた。

施工管理やインテリア、設備に進む学生が多いなかで、設計志望は少数派だった。

だからこそ、設計の授業を担当していた講師の言葉は強く印象に残っている。

現場の話、図面の意味、意匠に込める思想。

彼の話を聞くたび、私はこの道に引き込まれていった。


秋のある日、その講師が声をかけてくれた。

「うちの事務所にインターンに来てみないか」

通える範囲にあるその事務所は、代表自身が設計したというガラス張りのモダンな建物だった。

インターンではCADの練習、行政提出用資料の作成、そして公共施設の点検同行。

地味だが、設計という仕事の足元を見せてくれるような日々だった。

私は、設計とはこういう仕事なのだと納得していた。


代表は言った。「来年から忙しくなる。動き出す物件がある」

その言葉に、私は希望を抱いた。

卒業後、そのまま入社することに決めた。


スタッフは代表を含めて4人。

先輩が2人と私。

小規模だが、静かで洗練された空気に、私は誇りのようなものを感じていた。


──だが、入社して間もなく、その誇りは違和感に変わった。


設計事務所の新人は、まず何でもやるのが普通だと聞いていた。

だから最初のうちは、日中に余裕があっても、そういうものだと思っていた。

けれど、日々はあまりに静かだった。

図面の修正、資料の整理、指示のないCAD練習。

全く仕事がないわけではないが、それは目的地の見えない散歩のようなものだった。


設計者として成長したい──そう願って、代表に「仕事はありますか」と何度か聞いた。

そのたびに返ってきたのは、「今は特にないかな」という曖昧な返答だった。


やがて、私は先輩が担当していた新築住宅の設計監理に同行することになった。

現場で交わされる職人との会話、納まりの工夫、寸法の調整──

そこには確かに設計の実践があった。

けれど、それも常にあるわけではない。

私は次第に、もどかしさと焦りを募らせていった。


その頃、一人の先輩が辞めた。

もともと住宅設計を志望して入社した人で、担当していた案件の目処がついたタイミングだった。

移動中の車内で彼女は言った。

「仕事がないのに人を増やすって、どういうことなんだろうね」

「私たちの給料すら上げられないのに、新人を増やしてどうするつもりなんだろう」

その言葉を聞いて、私は初めて、自分がいたこの“箱”の中身を見直した。


代表は「現場が止まっているだけだ」と繰り返した。

けれど、それがいつ動き出すのか、どんな案件があるのか──

説明されることはなかった。

それなのに、求人情報は出され続け、人は増えようとしていた。


外から見れば、事務所は美しい。

ガラス張りで整った佇まい。

だが、内側に流れる時間は不自然だった。

透明であるがゆえに、何も隠されていないようで、実は何も分からない。

どこに向かっているのか、誰も掴めていなかった。


代表の言葉は未来を指していたが、具体的な地図はなかった。

新人は仕事を求め、学びを求める。

けれど与えられるものがなければ、成長の余地はどこにもない。

私は、空いた時間に何ができるかを自分なりに模索したが、土台がなければ積み上げることもできなかった。


給料は最低賃金。昇給はなし。

かつて代表が口にした「特別賞与」も、実現しなかった。

誰からも説明されず、責任を問う空気もなかった。


私たちは正社員でありながら、“予備の部品”のように扱われていた。

任される仕事も、役割もないまま、“その時”が来るまで棚に並べられていた。

毎日少しずつ仕事はある。けれど、その積み重ねがどこに向かっているのかは見えなかった。


時間は確かに流れていたが、目的地はどこにもなかった。

その構造そのものに、私は疲れていった。


一年後、私は退職を決意した。

叱られたわけでも、酷使されたわけでもない。

それでも、そこには確かな“搾取”があった。

やりがいのために働かされるのではなく、希望を餌に時間を奪われていく──

そんな、静かな空虚さがあった。


あの建物は、透明だった。

だが、それは中が見えるという意味ではなかった。

人の思惑、時間の使い道、信頼の輪郭──

そういった“目に見えないはずのもの”が、何ひとつ確かに見えることはなかった。


私はあの場所で、何を得たのだろう。

思い出そうとしても、思い出せるのはただ、静かに流れた時間だけだった。


設計者として、成長するはずだった私は──

ただ、透明な箱の中で、音のない喪失を知った。

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