第17話 hospital
「おい、クロ。俺たちの仕事は、まだ終わってないようだな」
シンジが呟くと、クロは小さく「ニャ」と鳴いた。まるで、その言葉に同意するかのように。シンジは胸の内に湧き上がる怒りを覚えた。研究所は、「失敗作」をただ処分するだけでなく、その力を利用しようとしていた。糸瓜のケースはその証拠だ。まるで、彼らが手のひらで踊らされているかのような不快感。シンジは、このゲームの全貌を掴まなければならないと強く感じた。
数週間後、シンジとクロは、かつて地図にさえ載っていなかったという「砂の町」に辿り着いた。ここは、砂漠の真ん中に突如として現れたオアシスのような場所だった。だが、シンジはこの町の「異様さ」をすぐに察知した。町の住人たちは皆、どこか虚ろな目をしていた。誰もが何かを恐れているようだった。
シンジは町の情報屋から、この町で起きている奇妙な出来事について聞き出した。どうやら、数年前から原因不明の「熱病」が流行り、一度罹ると、記憶が曖昧になり、やがて感情を失っていくという。熱病というよりは、まるで魂を抜き取られるような症状だ。シンジは直感した。これも研究所の仕業だと。
「熱病か···。まったく、随分と回りくどいことをするもんだ」
シンジは、情報屋が差し出した古びた地図を広げた。そこには、町の外れにある廃病院が記されていた。どうやら、熱病の患者たちは皆、その病院に運び込まれているらしい。
「きっと、そこになにかがある」
シンジは、南部十四年式を手に、廃病院へと向かった。クロは、彼の肩の上で静かに周囲を警戒している。
廃病院の内部は、異様な静寂に包まれていた。薄暗い廊下には、錆びた医療器具が散乱し、埃っぽい空気の中、消毒液と血の匂いが混じり合っていた。シンジは慎重に奥へと進んだ。奥の病室から、微かな電子音が聞こえてくる。キュルキュル。それは、糸瓜の廃屋で聞いた音に似ていた。
病室のドアを開けると、そこには無数のベッドが並び、その一つ一つに、痩せ細った人間が横たわっていた。彼らの頭部には、奇妙な電極が取り付けられ、それは壁に設置された巨大な装置へと繋がっていた。装置の表面には、「――ダウンロード中」という文字が点滅していた。
「なるほど、これが熱病の正体か」
シンジは冷たく言い放った。彼らの記憶や感情が、この装置に吸い取られている。そして、きっとそれが研究所の新たな「兵器」に利用されようとしているのだ。シンジは、患者たちの顔を一人ずつ確認していく。そして、あるベッドの横に立ち止まった。そこに横たわっていたのは、シンジが見知った顔だった。
「滝……」
シンジは息を呑んだ。滝、いや「仕事人・咲川シンイチ」。彼もまた、この装置に繋がれ、眠りについていたのだ。シンジの脳裏に、滝の言葉が蘇る。
「俺は、研究所の真の咲川だ」。
そして、研究所が仕組んだ、滝とシンジの「役割」の交換。滝は、この町の人々と同じように、研究所に利用されていたのか。
その時、背後から物音がした。シンジは素早く振り向き、銃を構えた。そこに立っていたのは、白い白衣を着た男だった。男の顔には、見覚えがあった。GIPD研究所のマークが描かれた白衣。
「まさか、貴様がここまで来るとはな、咲川シンジ」
男は嘲るように言った。その声には、シンジが感じていた苛立ちがさらに募るような、傲慢さが滲んでいた。
「あんたは…?」
「私は、GIPD研究所の主任研究員、Dr.山葵だ。そして、ここにいる者たちは、私の『作品』だよ」
山葵は、シンジの銃口をものともせず、平然と答えた。彼の指が、装置のパネルに触れる。
「君の相棒も、もうすぐ完成する。彼もまた、新たな『兵器』として生まれ変わる。そして、君の兄も、な」
シンジの眉間に皺が寄った。兄。シンジには、かつて死んだはずの兄がいた。その兄が、研究所に利用されているというのか。
「何を企んでいる?」
シンジは怒りを込めて問うた。
「知りたいかね?ならば、見てみるといい。真の『咲川』の姿を」
山葵がスイッチを押すと、装置が大きな音を立てて起動した。シンジの脳裏に、かつてのGIPD元帥の言葉が蘇った。
「エモーションを、制御しろ」
だが、シンジの心は、決して制御されることのない、不思議な感覚で満たされていた。彼の目は、目の前の装置と、その先に横たわる滝、そして、山葵へと向けられた。シンジの胸の奥で、黒い炎が静かに燃え上がっていた。それは、怒り、そして、過去と未来を繋ぐ、新たな炎だった。
装置の唸りが、廃病院の薄暗い空間に響き渡る。Dr.山葵は、シンジの動揺を確信したかのように、ニヤっと口角を上げた。
「どうだね、咲川シンジ。君の兄、そして、君が『仕事人』と呼ぶ男、滝が、これからどうなるか。それは、君の選択にかかっている」
山葵は、装置のパネルに表示されたいくつかのボタンを指し示した。
「この装置には、二つの機能がある。一つは、彼らから感情と記憶を『ダウンロード』し、純粋な戦闘能力だけを抽出する機能。もう一つは、ダウンロードした情報を、別の『器』に『インストール』し、新たな『兵器』として再構築するシステムだ」
シンジは、山葵の言葉に唾を飲み込んだ。つまり、ここで眠る者たちの存在は、研究所の新たな兵器のための「データ」として扱われているのだ。糸瓜の時と同じ。いや、それよりもさらに悪質だ。
「そして、君の兄と、君の『仕事人』は、最高のデータとなる。彼らは、最高の『兵器』を生み出すための、最高の素材なのだ」
山葵の言葉が、シンジの胸に重くのしかかる。彼らが利用されているだけではない。彼ら自身が、新たな「兵器」の一部として組み込まれようとしている。シンジの視線は、滝の顔へと向けられた。その顔は、意識を失っているにも関わらず、どこか苦痛に歪んでいるように見えた。
「畜生」
シンジは、乾いた声で吐き捨てた。感情を露わにすれば、山葵の思う壺だとわかっていた。
「なに、簡単だ。この装置の『破壊』ボタンを押せばいいだけさ。そうすれば、ここにいる全ての『データ』は消滅する。当然、君の兄も、『仕事人』も、な」
山葵は、シンジの表情を観察するように、その言葉の響きを楽しんでいるようだった。
「しかし、そうすれば、君は彼らを救うことができる。彼らが『兵器』として利用されることはない。つまり、君は彼らを『廃棄』することになる。君の『失敗作キラー』としての使命を全うできる、というわけだ」
シンジの目の前に、絶望的な選択肢が提示された。彼らを救うためには、彼らを「消滅」させるしかない。それは、彼らが研究所の支配から解放されることを意味するが、同時に、彼らの命を絶つことにもなる。
「もう一つの選択肢もある。このまま、彼らが『兵器』として完成するのを見届ける。そして、君自身が、彼らと戦う。君が、彼らを『破壊』するのだ」
山葵は、悪魔のように囁いた。
「どちらを選ぶ?君の『エモーション』が導くのは、どちらだ、咲川シンジ」
シンジの脳裏に、様々な光景が去来した。滝との奇妙な共闘。GIPD元帥との戦い。そして、糸瓜の解放。彼の「エモーション」は、常に「破壊」ではなく、「サルベイション」へと向かっていたはずだ。しかし、この状況では、その「サルベイション」が、まるで「破壊」を意味するかのように感じられた。
クロがシンジの肩から飛び降り、山葵の足元へと駆け寄った。クロは、山葵の足にすり寄るように、「ニャア」と小さく鳴いた。山葵は、訝しげにクロを見下ろした。その瞬間、装置から発せられていた電子音が、ほんのわずかに乱れたように聞こえた。
シンジは、その隙を見逃さなかった。彼は、山葵の目を見据え、口を開いた。
「俺の"なか"に、あんたが持っていないものがある」
山葵は、その言葉の意味が分からず、怪訝な顔をした。シンジは、迷うことなく、右手を装置のパネルへと伸ばした。彼は、破壊ボタンでも、放置の選択でもない、第三の道を探していた。そして、彼の指が触れたのは、山葵が示したボタンとは異なる、小さな隠されたボタンだった。
「!」
シンジが押したのは、装置の緊急停止ボタン。それは、装置を完全にシャットダウンさせるための、研究所の最終手段だった。装置は、大きな音を立てて停止し、点滅していた「ダウンロード中」の文字も消え去った。病室は、再び静寂に包まれた。
「貴様、何を…!」
山葵は、激昂してシンジに詰め寄ろうとした。だが、シンジは素早く、南部十四年式を構え、山葵の足元を撃ち抜いた。乾いた銃声が、廃病院に響き渡る。山葵は、痛みにうめき声を上げ、その場に倒れ込んだ。
「俺は、お前たち研究所のゲームには乗らない」
シンジは、倒れた山葵を見下ろし、冷たく言い放った。彼は、クロを抱き上げ、再び滝のベッドへと向かった。装置は停止したが、滝の意識は戻っていなかった。シンジは、滝の頭部に繋がれた電極を一つ一つ慎重に外していく。
「あんたは、研究所の『真の咲川』なんかじゃない。あんたは、あんた自身だ」
シンジは、滝の顔を優しく撫でた。
この一連の彼の行動は、研究所の計画を完全に狂わせた。
シンジは、廃病院の出口へと向かった。外は、相変わらずの砂漠の乾いた夜だった。
黒いバギーバイクに跨がり、クロを膝に乗せたシンジは、再び砂漠の闇へと走り出した······。
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