夜闇の婚姻 前世の宿縁と偽りの婚約者

沙川りさ

はじまり


 ――夜闇がゆらゆらと揺れている。

 いつからだろうか。もう随分と前から頭の中には霞がかかっていて、物事をくっきりとした輪郭で捉えることができていた頃が遙か昔のような気がする。

 揺れているのは己の視界か、それとももっと内側か。

 姫、と傍らの男が自分を呼んだ。

 一見高貴なその呼び名で、なぜ自分は呼ばれるようになってしまったのだろう。

 ――夜闇よやみ妖姫あやかしひめ

 それが今の自分の名だ。

 傍らの男が燃えるような赤い目でこちらを一瞥する。山伏のような装束に身を包んでいるが山伏ではない。その証として男の背からは足もとまで届くほどの大きな漆黒の翼が生えていて、同じ色をした烏の嘴のような形の仮面で鼻から口にかけてを覆っている。

 普段は余裕綽々の笑みで何事もするりするりとすり抜けていくその男が、今はその瞳の奥に、どこか何かを諦めたような色を浮かべていた。

 そうね、とその瞳に胸中で答える。

(ここで終わりなんだわ……私は)

 静かな絶望がこの身に重く満ち、足をその場に縛りつけている。

 夜闇は絶え間なく揺れ続けている。

 頭の中と同じように視界にもずっと霞がかかっている。明瞭な形をとうに失った世界はとても心地好いものだった。

 まるで――いずれ頭の先まで沈んでしまうことがわかっているのに、その沼に身体ごと浸かり続けるのをやめられないような。

 視界の揺れは、夜とそれ以外との境界線を曖昧にする。目の前で揺れているのは二十はゆうに超えるカンテラの明かりだ。それが自分と、傍らに立つ黒い翼の男とを取り囲んでいる。

 正面に立つのはとりわけ堂々たる体躯の男だった。男が着用しているのは一見、警察の制服にとても似ている。だがまるで帝国陸軍の軍服のような威圧感だと思った。色は草色ではなく真っ白で、カンテラの明かりに悪い嘘のように浮かび上がって見える。

 本当に白い狐に化かされているのならどれほどいいか。

「ようやく追い詰めたぞ。『夜闇の妖姫』」

 顔を上げる。白装束の男の鋭い眼差しに囚われる。

 罪人をただ追い詰めただけにしてはいやに憎しみに満ちすぎたその瞳に。

「呪術を用いて妖どもを使役し帝国を傾けんとした罪。その命をもって購ってもらう」

 男は手にしていた抜き身の刀をこちらへ向けた。鋭い切っ先は喉もとか、あるいは心の臓に向けられている。夜闇とともにその刃も揺れて見えるこの目にすらも、その切っ先がこの命を刈り取ろうとしていることはよくわかった。

「姫。許せ。もう儂にもどうにもならん」

 傍らの黒翼の男が呟いた。

 我が身に起きようとしていることが信じられず、半ば己を俯瞰するような思いで、男をぼんやりと見る。白装束の上衣の前は釦が開いていて、傷跡だらけの胸もとが見えている。恐らくは牙や鉤爪――およそ人の振るう刀が原因ではないであろう傷跡。

 男の刀が大きく振り上げられる。目は呆然とその刃を追う。

 男は瞳に浮かぶ激しい憎しみを引き絞った。

「――妹の仇」

 刀が振り下ろされる。

 身に覚えのないその重すぎる咎に、絶望に身体を縛りつけられたまま、ただその凶刃をその身に受ける。

 涙が浮かんだ。


 夜闇が、ゆらゆらと――


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