静けさの隣
ふくろう
第1話 静寂の中で
大学の授業が終わると、僕はなんとなく図書館へ向かう。理由は特にない。バイトのない日で、他に用事がなければ、あの静けさの中で本を読んでいたくなる。ただそれだけのことだ。
午後の図書館はほどよく人が少ない。窓際の席にはやわらかな陽が差し込んでいて、背中が少しだけあたたかい。雑音はほとんどなく、呼吸が深くなるような空間。ページをめくる音さえ、心地よく感じる。
本を開いて読んでいても、内容が頭に入っているかはわからない。でも、こういう時間を過ごすこと自体が嫌いじゃない。むしろ、静かな空気のなかで何かに没頭しているふりをするのが、今の僕にはちょうどいい気がしている。
——篠原柊翔。名前を口に出すことはあまりないけれど、たぶん印象に残りにくい名前だと思う。地味な顔に、通らない声。特別な趣味もないし、人付き合いも得意じゃない。それでも、この場所の静けさとはうまく馴染めている気がした。
彼女の存在に気づいたのは、四月の終わり頃だった。僕の斜め前、窓から二番目の席。長い黒髪を揺らしながら、本を読んでいる女性がいつもそこにいた。
綺麗な顔立ちをしていた。でも、それよりも目を引いたのはその静かな佇まいだった。自分から何かを主張することもなく、ただそこに座っている。それだけなのに、なぜか視界の隅で気配を感じてしまうような存在。
名前も、学部も、声すら知らない。けれど、何度も顔を合わせているうちに、たぶんお互いの存在は認識している。挨拶も言葉もないけれど、妙な安心感があった。心地よい距離感だった。
その日も、同じように時間が過ぎていった。午後五時を少し過ぎた頃、彼女が静かに席を立ち、僕のすぐそばを通り過ぎた。すれ違いざま、乾いた音がひとつ床に落ちる。
本のしおりだった。細長い紙に、小さな花が一輪だけ印刷されていた。誰かからもらったものなのか、それとも彼女のお気に入りなのか——そんな雰囲気をまとった、少し色褪せたしおり。
「……落としました」
言おうと思ったわけじゃない。声は自然に、勝手に出ていた。彼女が立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。至近距離で目が合ったのは、たぶん初めてだった。
「あ……ありがとう」
小さく、少し息を含んだ声だった。でも、その響きが妙に耳に残る。僕はしおりを拾って、彼女に手渡す。彼女はそれを受け取り、軽く頭を下げてまた歩き出していった。
ほんの数秒の出来事だった。それでも、本を開いてもさっきまでの内容がどこにも見つからなくなっていることに、少しだけ戸惑いを覚えた。
* * *
翌週の同じ曜日、図書館に入って最初に確認したのは、あの席だった。いつも彼女が座っていた、窓から二番目の席。そこにいるかどうか、無意識に目がいく。
彼女はいた。本を開き、背筋を伸ばし、まるで何事もなかったかのようにページをめくっていた。先週と同じように、変わらない仕草で。
……なのに、目が合った。
一瞬だった。でも、間違いなくこちらを見た。そして、わずかに視線を逸らしてまた本に戻った。
なんだろう、この感覚。知り合いと呼ぶには遠すぎる。けれど、まったくの他人とも言えない。境界の上にふわふわと浮いているような距離感。息苦しくはない。むしろ、少しだけ心地いい。
本を読むふりをして、時々ちらりと彼女の方を見る。彼女は終始無言のまま、表情も変えず、ただ黙々とページをめくっていた。けれど、その視線の動きや、呼吸のリズム、指先の細かな動きが、妙に目に入ってくる。
気づけば、本の内容なんてまったく頭に入っていなかった。
日が傾き始めた頃、彼女が立ち上がった。また、僕のすぐそばを通り過ぎていく。息を吸い込みかけたけれど、言葉は出なかった。
彼女は、ほんの一瞬だけ僕のほうを見たように思えた。すれ違うとき、髪が揺れ、かすかに風の匂いがした。
しおりを拾った日から、まだ一週間しか経っていない。でも、それよりずっと長い時間が過ぎたような気がした。
僕はまだ、彼女の名前を知らない。
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