第四章 現代パート「境界の地を越えて」
近頃、紫苑様は候補地を一つずつ巡る作業を習慣のように続けていた。
資料を机に積み上げ、地図を広げ、衛星写真を何度も拡大しながら行程をなぞる。
目に映る数字と、足元の土の匂いが、ゆっくりと記憶の中で繋がっていく。
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「投馬国から邪馬台国まで、水行十日、陸行一月。単純計算で、一日四十里なら千六百里。」
【一里を76メートルで換算すると、約120キロを超えます。ただ、このルートでは直線距離だけでは測れません。】
「球磨川を経由して
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紫苑様はタブレットを操作し、古代水系の復元地図を呼び出した。
水行可能な範囲は、川幅と流速で分かれている。
球磨川下流の川幅は最大60メートル、中流域では20メートル以下に狭まる。
さらに上流では1〜2メートルに満たない浅瀬が続く。
「これじゃ、舟を
【はい。球磨川舟運は近世でも季節に大きく制約されていました。弥生期であれば、実質的に徒歩行軍の比重が高かったと推定されます。】
「それを『南に水行十日』と書くのは…かなり無理がある。」
【しかし、三国志の他地域でも同様の誇張や便宜的表現が確認されます。たとえば『
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紫苑様は地図上の玉名に指を置き、そこから川沿いに線を描いた。
線は
「
【環濠集落も確認されています。特に
「これだけの集積があるのに、一般的な邪馬台国論争ではほとんど触れられていない。」
【霧島以南を候補に挙げる説は、研究者の中でも少数派です。それは、この地域が当時の中心的交易圏から離れていると考えられていること、考古学調査が遅れていて系統的なデータが少ないこと、さらに中国側の記述と距離が合わないとされることが主な理由です。】
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車を進めると、
雨に濡れた
「えびのに抜けると、盆地が一気に開ける。」
【
「
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紫苑様は車を停め、えびの高原に面した道端に立った。
標高は400メートルを超え、肌に当たる空気が冷たい。
「霧島山麓の霧日数は、年間110日以上。7月から10月にかけては視程50メートル以下の濃霧が頻発する。」
【そうです。倭人伝には、境界があいまいで距離を明確にできないとする記述が残っています。引用しますね。】
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<原文>
「其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。又其國界東西以海為限。南北與邪馬台接。其道里不可得而論也。」
<口語訳>
「その南に狗奴国があり、男が王である。狗古智卑狗という官がいて、女王国には属していない。郡から女王国までの距離はおおよそ1万2千余里である。またその国の境界は、東西は海を限りとし、南北は邪馬台国と接している。その道や距離は明確に論じることができない。」
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【この『其道里不可得而論也』――道や境界がはっきりせず、方位も定まらないため、論ずることができないという言葉は、まさにこの地形の曖昧さを思い起こさせます。】
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「この霧と行程の曖昧さが結びついているんだ。」
【えびのから都城にかけては、弥生期の遺構が特に密集しています。梅北Ⅰ遺跡では、大規模な環濠や複数の方形周溝墓が確認されており、弥生後期から古墳初期にかけて有力な集落が営まれていました。】
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紫苑様は深く息を吐いた。
数字を積み重ねるほど、仮説は鮮明になる一方で、どこか底が抜けていく感覚もあった。
「この地図の上で、距離も方位も全部整合させるのは無理だ。」
【正確性を求めるなら、記述の多くを象徴として解釈する必要があります。】
「でも、象徴だけじゃ何も残らない。」
【記録の空白もまた、土地の証言の一部です。】
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遠く、霧の中から
霧の厚みは、過去と現在を分ける層のようにも、地下の火が吐き出す息のようにも
思えた。
「ここまで来たのに、結論はまだ出せないね…。」
【それでいいのではないですか。】
紫苑様は黙ったまま、ノートに一行だけ書き足した。
「玉名から
【やがて霧が晴れる日も来ます。】
「……その日を、僕は待っているよ。」
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