0.9 契約
0.9 契約
消灯時間も過ぎた暗い病室で、読書灯を頼りに有希は紙面の文字を追っていた。外の人々も家路についた時分は、昼間より一層院内も静かだ。
ぱらりとまた頁をめくる。
頭上で小さくノイズが聞こえた気がして、ふと顔を上げた。
ピー、ピー、ピー。
思わずびくりと跳ねた肩ごと、有希が振り返る。
静寂を打ち破るように鳴ったのは、今まで一度も聞いたことのないナースコールだった。
『お久し振りです、浅田有希』
ノイズの酷い声は聞き覚えもないが、心当たりはある。
まだ驚きに動揺する心を鎮めようと、有希は小さく深呼吸をした。
「お久し振りですね。ナースコールでお話ができるとは知りませんでした。それで……私が何か規約違反でもしましたか?」
この相手には雑談や世辞などといったものが通じないことは知っている。腹の探り合いなども、きっと意味をなさないだろう。思考はするが、感情はない。
だから端的に、有希は問いかけた。
『今回はあなたと話をするために、こういった手段を取りました。違反ではありませんが、相談があります』
「相談ですか?」
声の主にそういった相手がいるのだとどこかで聞いたような気もするが、少なくとも自分ではない。
不信感もあらわに、有希は眉をひそめる。
『あなたはまだ先へ進むつもりはないのですよね』
「はい」
次へ進むこと、進まず留まること。この二つは規約には含まれていない。だから有希は留まることを選んだ。
責められるいわれもないので、迷わず即答する。
『その理由は遠藤紘一に会うため。間違いありませんか?』
「……はい」
不意に出された名前は甘く、切なく、とても苦い。込み上げる想いを押さえて、有希は肯定する。
『では、その遠藤紘一に会えるように取り計らう、と言ったらどうしますか?』
「……!」
突然の予期せぬ提案に、思わず息をのんだ。けれど抱いていた不信が警報を鳴らし、思考を速めていく。
会わせるということは、すでに紘一はここに来ているということだろうか。けれど彼は病室に来ていない。自分に気付いていないのか、気付いていて来ないのか……。
どちらにしろ彼に会いたい自分は、歩いて行けない。だから『会えるようにしてもらう』必要がある。
けれど、それはここにおいて特別待遇に他ならない。まさかそれを善意で行うはずがない。この相手には心などないのだから。
「……対価は、何ですか?」
うまい話に乗せられないように、有希は慎重に言葉を選ぶ。
『浅田有希の、今日から数えて十年と122日の記憶を消します』
ある程度予想していた回答に、小さく息を吐き出した。
十年もここに居座り続ける有希は、不良債権のようなもの。迅速に追い出すためには記憶を消すしかない。
(でも、この提案自体は悪くない)
これは間違いなく特例だ。今までこんな打診は一度も無かった。そもそも来訪時以外に接触してくること自体が異常だ。この機会を逃せば、もう二度と紘一と話など出来ないだろう。
(慎重に、でも早く回答しないと)
この声の主が諦めて提案を取り下げる前に。
ちらりと壁に掛けられたカレンダーを見れば「3775」と記されている。
(私がここに来たのは夜。あのときカレンダーは「1」だった)
残しておきたい記憶は、紘一と喧嘩別れした日のこと。ここで一人寂しく過ごした記憶はどうでもいい。
(十年は閏年を入れて3652日。そこに122日を足しても3774日。一日は余る。あの日の記憶は……残る)
慎重に一つ一つの数字を確認し、有希は険しい面持ちで頷いた。
「わかりました。ただし、話が出来るだけでいいです」
きっぱりとそう言い切った少女の中には、今でも残る紘一の言葉があった。
――もう顔も見たくない!
だから、紘一に顔を見せてはいけない。これ以上、彼を不快にさせたくはない。
『会話だけですか……。いいでしょう。ならば十年と121日の知識だけは、あなたの中に残します。それでいかがでしょう?』
そっと暗い室内へ目を向ける。
(大丈夫。最悪、保険は残してある)
目を伏せてもう一度内容を吟味し、有希は意を決して顔を上げた。
「はい、お願いします」
その言葉を待っていたように、少女の腕時計が淡く光る。
『では、契約成立ということで、履行します』
突然の強い眠気に抗うことも出来ず、有希はゆっくりと重い目蓋を閉じていく。
そして力を失った手から、ぱたりと一冊の絵本が床へと落ちた。
『よい夢を』
そしてナースコールの通信はぶつりと切れる。
眠る少女一人きりの病室は、そして再び静寂にのまれていった。
知識はあっても当時小学生だった少女は知らなかった。彼女が死んだ翌年が閏年だったことを。
つまり、過去十年は3653日だった。
たった一日。それが少女にとって、致命傷となった。
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