0.1 決別

 その日は、朝からどんよりと曇っていた。

 黒に染まった両親に連れられて受付を済ませると、少年は斎場へと足を踏み入れる。

 入って正面には大きな祭壇があった。その中心に白や黄色の菊に包まれた少女の写真が置かれている。それは少し照れ臭そうに、少し疲れたように微笑む、見慣れた少女の顔。

 少年は親と一緒に少女の両親へ頭を下げる。何度か顔を合わせたことのある二人は、大人からは意気消沈しているように見えたのかもしれない。けれど背の低い少年からは、疲れ果てた抜け殻のように見えた。

 大人の見様見真似で焼香を済ませると、棺桶の窓が開いていることに気付く。遠目にちらりとだけ見えた少女の顔は、昨日よりも血色がよく、まるで病人だったことが嘘のようだった。

 これが最後の挨拶だからと親にも言われていた。実感のないままここまで来て、謝らなければと。そればかり考えていた。

(でも、これは違う)

 少年の知っている少女はこんなに頬を染めていない。にこやかに笑わない。いつも病的に白く、力無く微笑んで少年の話を嬉しそうに黙って聞いてくれる。

(こんなの……違う)

 謝ろうと、謝らなければと決めていたのに、用意していた謝罪の言葉を少年は全て飲み込んだ。胃に落ちていった罪悪感が胸の辺りで消化不良を起こしている。

 もやもや、むかむかとした重い心を抱えたまま、少年は少女の遺影に背を向ける。

 そして両親の後について戻るとき、読経に紛れて大人達の声が聞こえた。

「きれいに最期の死に化粧してもらってよかったわねぇ」

「ねぇ、あの遺影って病室で撮ったって聞いたけど」

「お医者様から、もう覚悟しておいてくれって言われてたらしいぞ」

「小学二年だっけ? 入院には付き添いがいるんでしょ?」

「そうそう。だから下の子の入学式の時も片親しか行けなかったって」

「ご両親も大変だったでしょうね。でもこれで肩の荷が――」

 もう、それ以上聞きたくなかった。

 少年は全てを拒絶するように両耳を手で塞ぐと、両親の制止の声も無視して一人走り出す。

 少女のことを何も知らない人間に何を言われても気にしなければいい。そう理性は言うけれど、昨日少女に暴言を吐いた自分もあの大人達と変わらないような気がして、酷く気持ち悪かった。

 無我夢中で走っていた少年は、気付けば斎場の外にいた。誰も周りにいない場所で、少年は小さくうずくまる。

 心は嵐のように何かを叫んでいるのに、頭は真っ白で何も考えられない。

「コウ君」

 思わず、顔を跳ね上げる。

 けれど、そこにあの少女の姿は無く、少女の面影を残した妹が立っていた。

「……咲希」

 制服ではなく真っ黒なワンピース姿の少女は、何故か右手に白い紙を強く握り締めていた。そしてその表情は、少年以上に重く痛々しいものだった。

「見届けてくれた看護師さんが、お姉ちゃんが最後に『コウ君、ごめんね』って言ってたって……。昨日、何があったの?」

 目の前に立たれてようやく聞こえる程の小さな声。いつも芯のある声ではっきりと話す咲希らしくない。

 正直、答えたくはない。自分の罪を責められるとわかっていたから。けれど、姉を慕っていた咲希には打ち明けなければと、少年は掠れる喉を震わせる。

「……昨日も『じゃあ、またね』って言われたから、『なんで明日って言わないんだよ』って俺が言っちゃって」

 言って『しまった』。それは正しいが、それでは自分の非を認めたくないように聞こえる。少年だって怒られたくはない。責められたくもない。けれど、少女に謝れなかった。ちゃんと謝罪を出来なかったのだから、せめて咲希には謝らなければ。

 そう思って勇気を振り絞り顔を上げると、少女の妹はその小さな肩を震わせていた。

「そんな……ことで」

 咲希はおもむろに左手を上げると、座る少年の頬を平手で叩いた。

「そんなことでお姉ちゃんの時間を奪ったのか!」

 頬にじんと残る痛み、衝撃で切れたのか口の中にじわりと鉄の味がする。

 自分が少女の時間を奪った。その意味が理解できなくて、理解したくなくて少年は呆然と咲希を見上げる。

「お姉ちゃんはね、やっと少し落ち着いてきてた。でも大きなストレスを与えるとどうなるかわからないって……だから私だってずっと我儘言わないようにしてたのに!」

 悲痛なその叫びが、ゆるゆると少年の頭を回していく。

 少女はストレスを与えてはいけなかった。つまりそのストレスを少女に誰かが与えた。

(誰が?)

 短気で癇癪を起こした小さな子供が。

「………」

 ゆっくり、ゆっくりと青ざめていく少年を見下ろし、咲希は右手に握り締めていたものを無言で投げてよこした。

 すっかり潰れてしまったが、それは昨日少女と作ったはずのてるてる坊主だった。

 少年を恨めしそうに見上げるひしゃげた片目に、ぽつりと落ちた雨粒が滲んで歪む。

「うち、今度引っ越すから。もう二度と会わないと思うけど、あんたのこと絶対忘れないから」

 情熱的にも聞こえるそれは、絶対に許さないという呪いの言葉だった。

 要件は済んだのか、咲希はそれだけ言うと踵を返す。

 ぽつり、ぽつりと降り始めた雨は、静かに濡らしていった。項垂れる少年を、そして彼に唯一遺されたてるてる坊主を。

「……どっちにしろ、花火出来なかったな」

 自嘲で歪む口元からこぼれた独白は、強くなり始めた雨音にかき消されていった。

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