第3話 届いた音、繋がる線

文化祭の朝、視聴覚室前の展示スペースは、淡い光に包まれていた。


誰もいない廊下に、紙の擦れる音と、遠くから聴こえる楽器の調整音が漂っている。


杉浦陽菜は、チューバのケースを背負ったまま、視聴覚室の前で足を止めていた。


目の前に広がるのは、遠野悠が描いた絵。


深く、静かな緑。その色はまるで森の奥にいるようで、不思議な安心感があった。

そこに重なる金管楽器の色。音の広がりが、線と色で表現されていた。


その中心――柔らかな白い光が、細い線となって描かれている。

それはまるで、自分のチューバの音が空気を震わせて広がる様子を、そのまま写し取ったようだった。


陽菜は思わず、息を飲んだ。


「……これ、私の音?」


後ろから聞こえた小さな気配に振り返ると、そこには悠がいた。

制服の上に画材の染みがついたままの姿。照れくさそうに、でも真っ直ぐにこちらを見ている。


「……たぶん、そうだと思う」


「私、音に色をつけたいって言ったよね。チューバは、深い森みたいな……って。覚えててくれたんだ」


「……うん。忘れなかった」


陽菜はそっと絵に目を戻した。


この緑に包まれていると、不思議と息が楽になる。

最近ずっと感じていた不安――あの楽器のへこみや、突然出なくなる音のことが、遠くなるような気がした。


「……私、少しだけ怖かったんだ」


陽菜は、ぽつりと呟いた。


「誰にも気づかれてないって思ってたけど、ほんとは、自分の音が、届いてないんじゃないかって。迷ってばっかりで……」


悠は言葉を返さず、ただ黙って聞いていた。

その沈黙が、陽菜には心地よかった。


「でも、この絵を見て思った。……私の音、ちゃんと誰かの中に届いてたんだなって」


その声は、涙が混じるほどじゃない。けれど、確かに震えていた。



「音が出なくなると、どんなふうに吹いてきたかも、忘れちゃう。でも……そんな時に、この絵があったら、少しだけ信じられる気がする」


彼女は、展示の前に立ったまま、深呼吸した。

チューバのケースが背中でかすかに揺れる。


「今日の演奏、私……ちゃんと吹いてくるね」


「……うん。聴いてる」


悠の返事に、陽菜はやわらかくうなずいた。


まるで、音と線がそこで重なったような一瞬だった。




講堂に集まった観客のざわめきの中で、悠は静かに席に座っていた。


ステージの奥に、陽菜の姿が見える。

大きな楽器を支える彼女の背中は、真っ直ぐだった。


指揮者の手が上がり、音が流れ始める。


トランペット、クラリネット、フルート。さまざまな音が重なり、最後に、深くて穏やかな音が会場を包み込む――


チューバの音だった。


悠は目を閉じた。


その音は、森の中を歩くような感覚だった。

光の差す木漏れ日の下で、風が枝葉を揺らす。

そして、ゆっくりと包み込まれるような温かさ。


まさしく、陽菜が言っていた「深い森の音」だった。


会場にいた誰もが、その音に気づいたかはわからない。

けれど、悠には確かに届いていた。


彼女の音が、迷いながらも、真っ直ぐに響いていること。

その音が、自分の中にある線とつながっていること。


演奏が終わり、会場に拍手が湧く。


けれど悠は、それに混じらず、そっと手を重ねるだけだった。

音が、ちゃんと届いたことに、心の中でだけ拍手を送った。




演奏後、視聴覚室前の展示スペースに戻った陽菜は、絵の前に立ち尽くしていた。


そのすぐ横には、悠もいた。


「……ありがとう。あの絵がなかったら、きっと、今日吹けなかった」


「……ありがとうって、こっちのセリフ」


ふたりは顔を見合わせ、ふっと笑った。


言葉にしないものが、ちゃんとそこにあった。


音と、線と、沈黙。

それらすべてが、ふたりを少しずつ近づけていた。

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