第4話 見え始めた世界の歪み

 INTに全振りした効果は、翌日以降も俺の現実を劇的に変え続けた。

 脳が常にクリアな状態にある、というのはこれほどまでに世界を違って見せるものなのか。会議での発言をきっかけに、俺は部長から小さな新規プロジェクトのリーダー補佐に抜擢された。そして、そのサポート役には、水瀬怜奈が就くことになった。


「じゃあ、この件の市場調査は私が担当するね。如月くんは競合の動向分析、お願いできる?」

「ああ、分かった。頼む」


 会社の休憩スペースで、二人並んでノートパソコンを広げる。

 以前なら、彼女とこんな風に肩を並べて仕事をするなんて、想像もできなかった。緊張でまともに口も利けなかっただろう。だが、今の俺は違う。怜奈の的確な仕事ぶりに感心しながらも、落ち着いて自分の意見を述べ、議論を交わすことができていた。


「如月くん、ここのデータだけど、こういう解釈もできないかな?」

「なるほど……その視点はなかった。面白いな」


 彼女の優秀さと、時折見せる柔らかな笑顔に、俺の心臓は確かに高鳴る。だが、それはもう、惨めさや劣等感を伴う動悸ではなかった。対等なパートナーとして隣にいる、心地よい緊張感。

 そして、俺は気づいていた。俺を見る彼女の視線にも、以前とは違う種類の熱が灯り始めていることに。


 ある日の昼休み、二人で定食屋に入った時のことだ。

 アジフライ定食を頬張りながら、怜奈がふと、箸を止めて俺の顔をじっと見つめた。


「ねえ、如月くん」

「ん、なんだ?」

「最近、どうしてそんなに変わったの? 何か、秘密でもあるの?」


 核心に迫る質問に、心臓がどきりと跳ねた。味噌汁をすするフリをして、動揺を隠す。

 まさか、「ARゲームでレベルアップしたら現実でも強くなりました」なんて言えるはずもない。


「い、いや……別に大したことじゃないよ。ちょっと、自己啓発セミナーみたいなものに通っててさ。プレゼンの仕方とか、ロジカルシンキングとか……」


 我ながら、なんて陳腐な嘘だろうか。

 怜奈は「へえ、そうなんだ」と相槌を打ったが、その目は何かを見透かすように澄んでいた。嘘をついてしまった罪悪感と、真実を話せないもどかしさが、胸の中で渦を巻く。

 この力は、俺だけの秘密だ。誰にも知られてはいけない。

 そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、彼女との間に見えない壁ができていくような気がした。


 ◇


 その夜、俺は『Aetherize Online』の世界にいた。

 プレイヤーネーム、『Schwarz Ritter』。黒騎士。それが、この世界での俺の本当の名前だ。


 今日の昼間の出来事が、頭から離れない。怜奈に嘘をついてしまったことへの罪悪感を振り払うかのように、俺は新しいステータスの検証に意識を向けた。

 レベルアップで得たポイントを、今度は【魅力(CHA)】に振ってみたのだ。

 仕事での成功体験から、知的な振る舞いや自信が人の評価に繋がることを学んだ。ゲーム内でも、それは同じかもしれない。


 俺は城下町の酒場へ向かい、情報収集系のクエストを受注した。ターゲットは、街の裏事情に詳しいと噂の情報屋だ。以前、別のクエストで話しかけた時は、無愛それに「他を当たりな」と一蹴された相手だった。


 酒場の薄暗い片隅で、フードを目深に被った情報屋が一人、エールを呷っている。

 俺は息を一つ吸い、ゆっくりと近づいた。


「少し、聞きたいことがあるんだが」


 情報屋はちらりとこちらに視線を向けただけで、すぐに興味を失ったようにグラスに口をつけた。ここまでは前回と同じだ。

 だが、俺は落ち着いて言葉を続けた。声のトーンを少しだけ下げ、自信と余裕を滲ませる。これも、現実のビジネスシーンで学んだテクニックだ。


「近頃この辺りを荒らしている盗賊団についてだ。あんたなら、何か知っているんじゃないか? もちろん、タダでとは言わない」


 俺がそう言って金貨の入った袋をテーブルに置くと、情報屋は初めて、じっくりと俺の顔を見た。その目に、わずかな驚きと興味の色が浮かぶ。


「……へえ。あんた、なんだか見どころがありそうな顔をしてるな」


 前回とは全く違う反応。これが、CHAの効果か。

 情報屋は口の端を吊り上げると、身を乗り出してきた。


「いいだろう。俺が知ってることを教えてやる。だが、その前にあんたの腕前を見せてもらおうか。酒場に来る途中の路地で、ゴロツキが絡んでくるクエストがあったろ? そいつらを黙らせてきな。そうすりゃ、信用してやってもいい」


 それは、俺がまだ受注していなかったサブクエストだった。情報屋との会話が、新たなクエストのトリガーになったのだ。

 俺は頷くと、すぐに酒場を出て指定の路地へ向かった。

 ゴロツキは三人。レベルは低いが、連携してくる厄介な敵だ。だが、今の俺の敵ではなかった。剣技と魔法を織り交ぜ、危なげなく全員を地面に転がす。


 再び酒場に戻ると、情報屋は満足げに笑っていた。


「やるじゃないか。気に入ったぜ。よし、約束通り教えてやる」


 彼は盗賊団のアジトの場所だけでなく、リーダーの弱点や、あまり知られていない宝の隠し場所といった、クエスト達成以上の情報までペラペラと喋ってくれた。

 ステータスが、戦闘だけでなく、人との交渉事にも絶大な影響を及ぼす。その事実を、俺ははっきりと実感した。


 ◇


 クエストを終え、満足感と共にログアウトする。

 エーテルグラスを外し、現実に戻ってきた瞬間、ふと、部屋の姿見に映った自分と目が合った。


 一瞬だった。

 鏡の中の俺の姿に、黒い鎧をまとった『Schwarz Ritter』の影が、陽炎のように重なって見えた。


 幻覚だ。

 ゲームに没入しすぎたせいで、脳がバグを起こしているだけだ。


 俺はぶんぶんと頭を振って、その残像を打ち消した。

 だが、胸の奥で、小さな警鐘が鳴り響いていた。

 これまで、このゲームは俺の「能力」を強化してきた。身体能力、知力。それはあくまで、俺という人間の器を高性能なものに入れ替えるような、ポジティブな変化だった。

 だが、今のは違う。

 ゲームの世界が、俺の「認識」そのものを侵食し始めている。現実と虚構の境界線が、じわじわと溶け出している。


 この力は、本当に俺を幸せにしてくれるのだろうか。

 それとも、俺という人間を、全く別の何かに変えてしまうのだろうか。


 答えの出ない問いが、じっとりとした汗と共に背中を伝う。

 このゲームの底知れない力に、俺は初めて、漠然とした恐怖を感じ始めていた。

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