第3話
(三)
すぐ上で合流する落合川の手前に標識があり、布滝、阿波森林公園と矢印があった。
――何じゃ、森林公園などと。この先ゃあ昔から森林しかありゃあせん。それを公園と呼ぶなら、阿波全部が公園になる。
大した理由もなく、足がそちらに向く。ただ、この辺りも子どもの頃の遊び場で、勝手知ったる場所である。
小道に入って五十メートル、三軒目の合田の家の前までは、雪かきがされていたが、その先は手付かずで三、四十センチほど積もっているままである。
子どもの頃を思い出してしまったせいで、こんな雪はへっちゃらで、いつも転びながら埋もれながら駆け回っていたのだと、今の年齢を忘れておかしな自信が湧いてきた。
或いは、間もなく倒れてしまうだろう生家を見て、そしてわが身の命を思うと、無常感と同時に、言いようのない焦りが浅次郎を突き動かしていたのかもしれない。
その雪の中を歩いてみると、足が埋まるのは表面の十五センチほどで、その下は意外と固いために、そう苦労はなかった。
落合川にかかる小さな橋を渡る辺りまでは、どこが道路でどこが田んぼなのかも分らない一面の雪である。それでも、山の形やせり出している尾根の林の具合で、方向を見失うこともない。そして、落合川を渡ると、左の斜面はコンクリートで補強され、落合川も護岸されており、その間に表面は見えないが平らなので道路だろう。ここも広い道路になっている。川沿いには雪で十センチほどしか見えないが、ガードレールが続いている。
誰の足跡もない道を、何かに憑かれたようにどんどん進んでいく。再び落合川を渡る向こうが少し高くなっている。広場があるのだろうか、茶色い手すりで囲まれている。
――ほう、なるほど、ちゃんと公園らしくしてあるわい。
ひと休みしようと立ち止まり、橋の欄干に手をかけた。
ところが、橋に積もった雪より少し高く見えた欄干だが、その欄干にも高く雪が積もっていて、浅次郎が手を置くと、雪がガサッとくずれ、浅次郎もバランスを崩してしまった。踏ん張ろうとするが、足元は雪で、つるりと滑ってしまう。
そして、二メートルほど下の落合川へと空中で一回転して落ちてしまった。
幸い頭を打つこともなかったようで、一瞬驚きと目が回る感覚で我を忘れていたが、すぐに腰から尻が冷たくて正気に戻る。この時期は水も少なく、全身が水に浸かってしまうこともなかった。尻餅をついたような格好で座っていたのだ。
――なんちゅうこっちゃ。こんなところで大怪我でもしたら命にかかわる。
そう思って見上げると、橋は少々高いので手は届かないが、その手前は川から道までが緩やかな坂になっていて、よじ登っていけそうだ。
よし、と立とうとすると、左足に激痛が走った。なんじゃ、と思って見ると、左足は足首の少し上から外へ向いてしまっている。ひと目で折れていることが分る。これでは、あの斜面を登るどころではない。
僅かでも動こうとすると、気の遠くなるような痛みが走り、身動き一つできない。
――こりゃあいけん。
「おおい、誰かあ」
大声を出すと、それだけで足はずきんと痛む。
「誰かおらんか」
痛みをこらえて叫んでみるが、ここまで歩いてきた距離を考えると、声が届くはずもない。まして、近くに誰かがいる可能性は、ほぼない。
どうすればよいのか分からずに呆然とする。
やがてふと、ここが自分の死に場所か。阿波で死ぬならそれも本望。どうせ、そう長い命ではない。そう考えて納得してみようという気になる。
しかし、それは理性だった。
その先にある死を考え始めると、全身をぞくりと恐怖感が駆け抜け、身震いする。
同時に、どんなところであろうが死ぬのは嫌だと、かっと眼を見開き、何度も「誰かおらんかあ、助けてくれ」と叫ぶ。
無駄なことであることは分かってはいても、やめることができない。
しかし、その度に足は傷み、やがて疲れてくる。
がっくりとうな垂れながらひと息つく。
しかし、折れた足はじっとしていてもずきずきと痛みを増してくる。
その痛みは次第に耐えられないものになって、生きる死ぬと考えるより先に、まずはこの痛みを何とかしなければいけない。
骨折したらとりあえず添え木をして固定するものだということは知っている。次第に気温も下がってきて、濡れた腰や尻は感覚がなくなり始めているが、左足の痛みの前では取るに足らない辛さだ。
添え木と言ってもリュックの中に思い当たるものはない。周りを見渡してみると、二メートルほど先に、少し太めの折れた枝があった。あれを持ってきてタオルで縛りつければ一応それらしくはなるかもしれない。
しかし、その二メートルが動けるだろうかと躊躇する。
そして、意を決して足を引きずって行こうと体重を移動させると、その瞬間から息が詰まるほどの痛みだ。それでも何とか、少しずつ体をずらせながらそちらへ近づく。たった二メートルが気が遠くなるほど遠い。
最後は倒れ込んで、今までそう濡れていなかった上半身を水に浸けながら、その枝を掴む。
そして、何とか歯を食いしばって再び起き上がる。
リュックからタオルを引き出したが、タオル一本ではうまく固定ができない。仕方なく長袖の肌着を使うことにする。こっちの方が両袖分長く、役に立ちそうだ。
しかし固定するにも、折れて曲がった足を真っ直ぐに戻さなくてはならない。痛みはこれまでの比ではなかろう。
冷やせば少しは違うかもしれないと、手で水をすくってその部分にかけると、たったそれだけの刺激でずきんと痛むのだ。
やらにゃあいけん、やらにゃあいけん、と心の準備を始める。
すると、もう一人の浅次郎が顔を出す。
――何のためにそこまでやるんじゃ。どうせ固定したところで歩けやせん。この冷たい水に当たりながら、これから気温も零下になりゃあ、とても生きてはいられん。無駄なあがきじゃ。このままじっと痛みに耐えとりゃあ、そのうち眠るように死ねる。
そんな声が聞こえると、ふっと初枝の顔が浮かぶ。
――初枝よ、大変なことになってしもうたぞ。
――ちいと早すぎたが、考えてみりゃあ、ええ死に方じゃったかもしれんなあ。それともひと月の間、ずっと苦しかったんか。
初枝を思い出すと、同時に家を離れてからのことを思い出す。
浅次郎は、中学を出て西大寺の紡績工場へ就職した。
津山で岡山行きの汽車に乗り換え、岡山からは赤穂線に乗る。岡山駅は驚くほどホームが多く、どこへ行けば赤穂線があるのか分からずに誰かれなく尋ねてようやく列車に乗った。汽車が動き出して窓から見える景色は、大きな町だと思っていた津山とは比べ物にならない都会だった。
しかし、驚いて外を見ている余裕はない。西大寺という駅で降りなければならないのだ。
やがて、次は西大寺とアナウンスが流れて、まず乗った汽車が間違っていなかったことほっとして、前の駅を発車してすぐ出口へと向かった。西大寺に着くと、駅まで工場の人が迎えに来てくれていて、そこからは歩いて工場へと向かった。
――赤沢さんじゃったかな。
ここが工場だと言われたのは高い塀の始まるところで、中は見えず、その塀はずっと続いている。歩いても歩いても入り口に付かず、工場とはなんという広いところかと驚いた。
そして建物の中を見せてくれた時にはもっと驚いた。向こうの端はよう見えんほどの広さで、同じ機械がずらりと並んでいる。そして、工場の中では浅次郎から言えばお姉さんたちが、なんとローラースケートを掃いて滑るように駆け回っているではないか。
あんなことはどう考えたってできゃあせんと赤沢さんに言うと、浅次郎の仕事はまた違って、前の工程から次の工程へと半製品を台車を押して運ぶことだと教えられほっとしたのを憶えている。
――何もかんもが驚くことばかりじゃったなあ。
浅次郎は、入社してもうすぐ十年になろうかという時に、工場を辞めることになった。
最初に驚かされたローラースケートもその頃には中止になっていた。浅次郎の仕事も、運搬だけではなく、少しは機械の調整のような仕事も増えていた。
そんな中、部署ごとに男子工員が集められて、頭の禿げてきた赤沢さんから繊維不況で希望退職を求めるというような話を聞かされた。機械は半分も動いておらず、もうそれが三か月になる。
今なら、退職金をわずかながらでも上積みし、どこか再就職先も世話することができと言うのだ。そして、遠回しにではあるが、所帯を持っている者には酷な話であり、身軽なものに手を挙げてもらいたいと言っているようだ。
浅次郎は二十四歳になっていて、それくらいの分別はつく年齢になっていた。
そして、一晩、工場をやめて阿波へ帰って田んぼをするか、次の就職先を世話してもらうかを迷った。しかし、町へ出てきてもうすぐ十年。町の便利さや豊かさ、そして年々変わって行く世界にすっかり慣れっこになっていた。阿波へ帰っても今も変わらずに田んぼと山しかないだろう。その時の浅次郎には、町での生活が楽しくて仕方がなかった。
翌日、赤沢さんにその考えを告げた。赤沢さんは、ひどく感謝してくれた。誰かが言い出してくれなければ、こうした物事は進まない。浅次郎が手を挙げてくれたおかげで、他の社員も考えてくれ、赤沢さんも話がしやすくなると言うのだ。
そのせいで、水島の中小企業ではあるが、信頼もでき、将来も安定しているだろうと思われる会社を紹介してもらった。先方も成長していくために若い社員を欲しがっていたらしく、何の問題もなく転職できた。
仕事は忙しくて毎晩遅くまで残業はあっても、若い浅次郎には少しも苦にならず、かえって残業代が驚くほどもらえることが嬉しかった。
その会社のベテラン社員の紹介で初枝と知り合い、結婚することになったのである。
――人生とは何がいいように働くか分からんものじゃ。あんとき、最初に手を挙げたのも、そう深く考えてのことじゃあありゃあせん。
初枝の顔は、どの年の顔でも思い出せる。
――嫁に来たおりにはまだまだ若くて、はちきれんばかりのええ顔をしとったなあ。
――お前のおかげで、幸せに生きて来られた。
――人事を尽くして天命を待つ、初枝がたった一つだけ知っていた格言じゃった。生きておりゃあ、うまく行くことばかりじゃありゃせん。初枝のその言葉に救われたことも多かった。
――よおし、それなら最後までやるだけのこたあやって、そんで死ぬならそれが天命じゃ。
浅次郎の揺れる心がまた、変わる。
――どうせとてつもなく痛いんじゃろうから、はなから大声をだしゃあええ。
「どうにでもしやがれ、こんちくしょう。うわああ」
浅次郎は何を叫んでいるかも考えずに、とにかく大声で叫びながら、自分の左足を睨みつけ、馬鹿野郎、と歪んだ足を掴む。それだけで気が遠くなるほどの痛みだった。
ここでやめられるか、と少しずつ向きを変える。
額に脂汗が浮き、手も頭も震えながら、ようやく本来の向きに戻す。そして、のけぞるようにその場に仰向けに倒れた。
――どんなもんじゃ、やるっちゅうたらやるんじゃ。
はあはあと肩で息をしながら、とんでもなく大仕事をやってのけたような気になる。
しかしそれで足の痛みがなくなるわけではない。ずきんずきんと頭の中までが痛くなるように響いてくる。
――次じゃ。
先ほど拾った枝を当てると、その感触だけで随分腫れているのが分かる。
もう一息だと、タオルとシャツで添え木をくくり付ける。強く縛っておかないと効果はないのだろうが、枝は凹凸もあり、多少歪んでもいる。無理に縛り付けると、足が歪んでしまいそうだ。とりあえず折れたところが動かない程度の強さで縛る。
そして、腕で体を支えながら、少しずつずらしていき、川の水にぬれずに済むところまで移動した。足を投げ出して、左足の膝の裏に少し大きめの石を置き、折れたところにできるだけ負荷をかけず、自由度もないように微調整をする。そうしていると幾分和らいだような気がする。それとも先ほどの痛みがあまりにも大きかったために、そう錯覚しているだけなのかもしれない。
幸い空は晴れていて月が明るい。それが周りの雪に反射して、辺りの様子は思ったよりもはっきりと見える。
まだ時刻は夜の八時を回ったところだ。
――痛みに耐えながら、少しずつでも這うて行けば、合田の家までたどり着けるじゃろうか、可能性はあるかもしれん。
しかし、既に浅次郎の心は疲れ果てていた。
――初枝、わしゃあまだ人事を尽くしてはおらんじゃろうかの。
もう十歳若ければ、いや、初枝が生きていれば、或いは浅次郎に子供でもいれば、死に物狂いですぐに行動に移しただろう。
――どうせ凍え死ぬんなら、道の上じゃろうが、この河原じゃろうが大して変わりゃせん。
ひと息つくと、無性に腹が減ってくる。体はまだ生きることを求めているようだ。
――そうじゃ、ここで諦めたら何のために痛い目をしたのか分かりゃせん。
――さっきのタクシーに電話すりゃあええ。警察か救急車を呼んでもらうこたあできる。
これ以上はない妙案のような気がしたが、辺りを見ても公衆電話はなく、携帯電話も持ってはいない。
――雪で小さなかまくらを作るか。意外と中は体温がこもって寒さをしのげるもんじゃ。
しかし、歩くことはおろか立ち上がることもできないのだ。
できもしない妄想が湧き上がってきては、その度に自嘲の笑いで口を歪める。
――列車が加茂どまりと知った時に諦めておれば、こんなことにもならんかったのに、人間欲を出したり、無理をするとろくなことない。
――だいたい、何でこんな所まで来たんじゃ、あそこで引き返しておればなあ。
――いっそのこと頭を打って、意識のないまま死ねたらその方がましじゃったかもしれん。
そんな恨み言が浮かんでは消えて行く。
この期に及んで何をじたばたすることがある。所詮半年、早いか遅いかの違いにすぎないのだ。この状況から何とか逃れようと思いを巡らせている自分が、ひどくあさましく思えてくる。
――しかし、死にとうないのう。
――もうちっと潔い人間じゃと自負しておったが、思いの外、往生際の悪い男じゃったの。初枝のように、深呼吸一つで旅立てたら良かったがなあ。
時間とともに気温が下がってきた。リュックの中の全てを引っ張り出して、寒さ凌ぎになりそうなものを体に巻き付けて行く。
冷え切った空はよく澄んで、満月には少し足りない月がやけに青く明るい。
――そうじゃ、ここがわしのふるさと阿波じゃ。あの月は阿波の月で、倉敷や水島であんな月を見たこたありゃせん。
――何の因果か、死ぬ前にふるさとをいやというほど堪能することになってしもうた。
――もしも春に訪ねておれば、何のこたあなく帰っておったじゃろう。その代わりに、肺ガンとやらのせいで病院のベッドで一人淋しく死ぬことになっただけじゃ。それに比べるとこの方が良かったのかもしれん。
――どうやら、阿波がわしをここへ呼んだようじゃ。
冷たい月を眺めていると、たまらなく悲しくなって涙が止まらなくなる。
諦めと恐怖の折り合いをつけるために泣いているようにも思える。だが、そう簡単に折り合いがつくものではない。瞬きをするとその度に涙がこぼれ落ちる。
しかし、その涙を拭おうとしても、どうにも腕に力が入らない。
やがて、ガタガタと震えが止まらなくなる。かと思えば、身も心も疲れ果ててなのか凍死の寸前なのか、ふっと力が抜けて意識が遠のく。しかし、姿勢が崩れると足が動き、またその痛みで目が覚める。
何度かそんなことを繰り返していると、どこがどう麻痺したのか、いつの間にか足の痛みも感じなくなっていた。
――疲れた。
浅次郎は、湧き上がってくる全ての考えや感情を、そのひと言に無理やり押し込んでしまおうと、言い訳のように何度も同じ言葉を繰り返した。
そんな自分に無性に腹が立ってくる。
「広田浅次郎、大馬鹿じゃ」
浅次郎は自分をしかりつけるように、大声でそう言う。
いや、朦朧とした意識の中で、そう言っている自分が見えただけなのかもしれない。
やがて、浅次郎はゆっくりと眠りにつき、ふるさとに抱きとられていった。
終
抱かれゆくとき ゆう @haru_3360
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