抱かれゆくとき
ゆう
第1話
(一)
「広田浅次郎さん、お名前に間違いありませんね」
倉敷のT病院の診察室で、神田先生と向かい合う。
「はい。昭和十二年五月五日生まれ、七十八歳です」
いつも確認されることなので、自分からきちんと伝える。
最近は女性の医師が増えている。神田先生も女性で、まだ四十前だろうか。
若い女医さんは、優秀すぎるのか、ともするととっつきにくいことが多い。その点、神田先生はなかなか落ち着きも優しさもある先生で、浅次郎は安心して任せている。
「ありがとうございます。広田さん、今日は先日の検査の結果をお伝えしますね」
「はい、お願いします」
去年の暮れから、咳き込むことが増え、風邪をこじらせたのかと思っていた。
ところが、年が明けてもそれが治まらない。風邪や感冒なら熱も出るのだろうが、微熱のある日がたまにある程度だった。
浅次郎が若かった頃は、結核病みが多く、こんな症状だったように思う。
お世話になっている老人ホームの担当に相談してみると、とりあえず受診をしてみなさいよと諭された。浅次郎の担当は孫くらいの年齢の娘さんで、時には少々小生意気な物言いをされるのだが少しも腹は立たない。これがもう少し大人なら、叱ることもあったかもしれない。不思議なものだ。
はいはい、と勧められるまま受診をした。
その時から神田先生が主治医で、症状を告げると、どうしたんでしょうねとレントゲンと採血を指示された。一週間後にその結果を見ながら、再度CT検査を指示された。さらに一週間後には結果が出るので、それを見てからですねと言われ、今日の受診となった。
「広田さん、落ち着いて聞いて下さいね。病名は肺ガンです。ステージはⅢからⅣ、かなり進んでいます」
先生は、患者が病名を聞いて、それを受け止めるまでには時間がかかり、その間に何かを話しても、聞こえはしても心に届かないことを知っているようだ。
恐らくいつもそうしているのだろう、しばらく黙って浅次郎を見つめる。
――ほう、肺ガンか、煙草も吸わんのに、こりゃあどうしたことだ。
浅次郎は大きく動揺することもなく、神田先生の次の言葉を待った。
――そうか、先生はわしがもっと驚くと気を遣ってくれとるんじゃな。
もう八十が眼の前に迫っていて、そろそろ何があってもおかしくない頃だと日頃から考えてはいた。とはいえ、突然死ぬようなことになると、それはそれで困る。また、実際に不治の病と宣告されて、冷静にいられる自信があったわけでもない。
もう十分に生きたと思い、これから先、長生きをしたところで何があるわけでもない。
と言って、死にたくはない。
冷静に考えている間は、死なぬ人間はおらず、それは生まれたときから決まっていることだと割り切っている。しかし、死んだあと、極楽浄土や天国などというものがあるとは到底思えず、永遠の闇、いやそれを感じる意識すらない完全な無になる。そんなことを考えていると発狂しそうな恐怖が体を駆け巡る。
それが生き物としての本能なのだろう。そしてその恐怖に耐えられなくなって考えるのをやめてしまうのだ。
「先生、ステージというのは何のことです」
一瞬、そんな恐怖に飲み込まれそうになり、それを振り払うように神田先生にそう尋ねた。
「進行具合をそう言うんです。初期だとⅠ、末期だとⅣ」
「そうですか。じゃあ、あまりよろしくはないのですな。先生、私はあとどのくらいの命ですかな」
「それをお話しますね」
先生は務めて優しく話してくれる。
治療を選択すると、化学療法を継続する方法、一時的にガンを抑えて手術で悪いところを切除する方法もある。それ以外に無理をせずガンと付き合っていく選択もあるという。
それぞれに詳しく説明をしてくれたが、概ねはテレビなどで見聞きしたことがある内容で、理解できないところはない。
治療すれば劇的によくなる場合もありはするが、随分しんどい思いをしても同じほどしか生きられない場合、かえって体力を消耗して寿命が短くなる場合もある。何もしなくても、思ったよりも進行が遅い場合もある。
浅次郎が若かった頃のがん患者は、痛みに苦しみぬいて顔の形が変わるようになって死んでいくというイメージがあったが、今はそういうものでもないらしい。
「あくまでも平均的な場合ですが、このまま放置しておくと、半年から一年でしょうか。もちろん個人差が大きいのですが」
「そうですか、それで、これからどうするかを私が選ばにゃならんわけですな」
「そうなります。広田さんのご家族は・・・と、あら、お一人なんですね」
「はい、家内も三年前になくしまして、子もおらず。親戚がおらんわけじゃないが、まあ一人きりです」
「では、これからご自分で決めて行くことになりますね。私たちは全力を尽くしたいと考えていますが、完治を約束することはできません」
「ええ、そうしたこたあよくテレビでも言うとりますでな、自分で決めにゃあならんことはわかっとります。ちいと考えさせてください」
「わかりました。では、来週、予約を入れておきますね。それまでに分からないことがあれば、電話して下さい。外来や病棟巡回以外の時間なら、お話もできますから。それから、何か症状で変わったことがあれば、いつでも受診に来て下さい」
浅次郎は、ありがとうございますと診察室を後にした。
どうやら、今のところは理性が勝っているようだ。
いや、むしろ僅かにほっとする気持ちさえある。いつくるかと得体のしれない怪物のように思えていた自分の寿命が、あっさりと示されてしまった。所詮そんなもので、生きることと同様に、死ぬことも等身大のものにすぎない、と思えたのである。
三年前に五十年連れ添った初枝を見送った。
急な脳梗塞で入院し、生きていると言えるのかどうかも分からない状態がひと月も続いた後、大きな深呼吸を一つして息を引き取った。
浅次郎は、間違いなく自分が先に死ぬものだと疑いもしなかったので、おろおろするばかりだった。苦労のかけ通しだった初枝の手を握って、ありがとうなあと何度言ったか分からない。それが伝わっていたのかどうか。
自分が先におさらばするのだから、臨終の時には、初枝にそう言ってやろうと決めていた。それができなかったことが、悔やまれてならなかった。
老人ホームは病院からそう離れておらず、行きも帰りも歩いている。
初枝が死んで、四十九日を済ませてここへ来た。
水島に小さな家はあっても、一人で生きて行くには広すぎた。また、三度の賄いを自分でこなし、掃除、洗濯、狭い庭の草取りなど、一人でやっていく自信がなかった。いや、初枝のいなくなった自分のためにそうしたことをこなしていくことが面倒になったのだ。
ここなら、三度の食事は施設が準備してくれ、風呂も共同で入れる。洗濯は洗濯機と乾燥機があるので、適当に放り込んでおけば何とかなる。張り合いを無くした浅次郎には、極めて好都合の環境だった。
自分の部屋に戻って、ベッドでごろんと横になり、さあて治療をどうするかと考える。
いずれにしても、そう上手く事が運ぶ可能性はあまりなかろう。それに、いずれ命は終わるときが来る。できれば、この年になって苦しい思いはしたくはないが、半年で死ぬ覚悟も今のところできそうもない。この世への未練はさほどなくても、命への未練はある。
神田先生の勧める方法を選んでみるか。無責任のようだが、責任は自分の身で負えばいい。しかし、先生もそんなことを一任されても困るかもしれない。
来週までに結論を出すのは難しい。
ただ、他にも今のうちに決めておかねばならないことがあるはずだ。
もっとも死んでからのことなどどうなろうが知ったことではない、とも思う。誰かに迷惑をかけようが、困らせようが、その時に自分はいないのだ。詫びる必要もない。
とはいえ、基本的にいい加減なことのできない浅次郎としては、そう投げやりになってしまうこともできなかった。
世話になっている施設に迷惑をかけるわけにもいかない。折を見て、病気のことも、もしもの時の対応についても頼んでおかなければならないことはある。
まずは、形ばかりの保証人になってもらっている初枝方の甥健二に、わずかながらの貯金や、売ってしまえば二束三文かも知れないが水島の家を譲ってやろうと思う。浅次郎の兄繁一はすでにおらず、そちらにも甥と姪がいるのだが、もう長い間姿も見せず声も聞いたことがない。放っておくと、どういう順番かは分からないが、遺産相続としてなにがしかの金が舞い込むことになる。そんな義理はない。
そう思うと、遺言書を作ることから始めなくてはならない。
先月、施設で終活の講話があったのに、面倒で参加しなかった。こんなことなら、聞いておけばよかったと後悔した。
仕方なく、施設の生活相談員という方に相談してみる。浅次郎の気まぐれも毎度のことなので、そういやな顔もせずに付き合ってくれた。
貯金だけなら簡単だが、家については、後の登記やらで面倒な手続きがありそうなので、弁護士に一括して頼むことにした。遺言執行と言うらしい。そして、遺言書の保管まで頼むと、二、三十万の費用がかかる。しかし、そこまでしておいてやれば、健二も後は家を売ろうが誰かに貸そうが、自分の裁量でできるだろう。
そして、初枝一人を津山にある広田の墓へ入れるのも忍びないと、分譲墓地に小さな墓を建ててあるが、浅次郎が死ねば一緒に広田の墓へ入れてもらいたい。
これまで考えてもいなかった問題があれこれと出てくる。紹介された弁護士のアドバイスを聞きながら何とか作り終えた。
健二なら、小さな葬式くらいは出してくれるだろうと思う。
施設には、病名や余命のことは言わずに、もしもの時は健二と弁護士事務所へ連絡してくれるように頼んでおいた。外見は元気そうに見えるので、孫のような担当が、笑顔のままで請け負ってくれた。
そして、神田先生の受診の日。
診察室に入るまでどうするべきなのか決心がつかないでいた。しかし、ふっと早く初枝の元へ行ってやれるならば、それもいいと思ったのである。
もちろん、それが単なる感傷であるということも分かっていた。あの世などというものがあるとも思えない。完全な無に戻った自分が初枝に会うなどということ自体があり得ないのだ。坊主の言う往生などということもそう信じてはいない。あればあったで、その時に考えればいい。また、それならばなお、何時向こうへ行っても変わりはないはずだ。
「先生、今の今までどうするのがいいかを先生に決めてもらおうと思っておったんじゃが、もう私もこの年ですでな、辛い思いをするのはできれば避けたいと思います」
「そうですか、ただ、私は医師ですから、任されれば治療をお勧めしますが」
「そうだろうと思います。もしも治療を受けないとなれば、先生はもう診てくれませんのですか」
「いいえ、経過観察で定期的に検査をして、その状況によって、またお話させていただきますよ。患者さんによって、広田さんのように当面治療せずにいても、途中で始められる方もありますし、逆に途中でやめてしまう方もあります」
「そんな勝手を言うてもええんですか」
「今は自分のことは自分で決めるようになっています。医師はどんな時でもその方にとってベストと思われる治療をするだけです」
「ありがたいことです。今はそう考えておりますが、また考えが変わったら、その時はよろしくお願いします」
「分かりました。でも、ちゃんと一か月に一度は検査に来てくださいよ。その状況を見ながら話し合って行きましょう」
「わかりました。それじゃあ、これからもお世話になります」
浅次郎はそう言い残して診察室を出た。
神田先生の顔色から、これが若い間なら是非にでも治療を勧めるところだが、浅次郎の年齢を考えての言葉であるように見て取れた。
実際そういう年齢になっているのだ。
――あと半年か。
それも確実とも言えないらしい。
そう思うと得体のしれない焦燥感が湧き上がってくる。
やり残したこと、と考えてもこれといって思いつくことはない。ただ、何かをしていないと、この恐怖心とじっと向き合っている自信はなかった。
老人ホームに戻ると、元気教室が始まっていて二十人ほどが歌を歌っている。いつもは、気が向けば参加し、その気にならなければ部屋でテレビを見ている。
気まぐれに途中から参加して、昔懐かしい歌を皆と一緒になって歌う。
藤山一朗や霧島昇と、浅次郎が若かった時代の流行歌だ。昔の方がいい歌が多かったなあとしみじみと思う。そして最後に、ふるさとの合唱となる。
――ふるさとか。山はあおき阿波(あば)、水は清き阿波。そういやあ、とんと父母の墓参りも行っておらん。
今は兄貴が住んでいた津山に墓を移している。久しぶり墓参りをして、阿波へも行って見たい。ふるさとが浅次郎を呼んでいる、そんな気がしてくるのだ。
今は時折咳き込むだけで、動けないこともない。ひょっとするとそのうちに自由が利かなくなるかもしれない。
そう思うと、じっとしていられなくなる。
誰でも死ぬとなるとふるさとを思うというのは本当のことのようだ。
山深い阿波は、この時期では、花も緑なく雪ばかりだろうが、それでも一度は行っておかなくてはならないような気がしてくる。
この辺りに比べると随分気温も低く、雪があれば歩くのも大変だろう。しかし、昔はそこで暮らしていたのだから何とかなるはずだ。
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