文学と、哲学とかのノート
木下望太郎
1 「文学という学問の意味」は? という問いへの答え ~と、もう一つの本音~
医学・薬学はそりゃ役に立つ。語学はいわずもがな。科学に化学、工学に建築学は現代の生活を作り上げた。史学は人の在り方の軌跡を探り、法学は人と人との関わりの在り方を問い、天文学は宇宙の在り方に目を向ける。
ならば文学は?
「見せてもらおうか、文学の力とやらを」と、そこらの医学者や工学者、言語学者や計算論的神経科学者に挑まれた場合、我々文学者は――小説を書き、あるいは読む者として我々は否応なく文学者である――いかにその力を示すべきなのか?
「知らないよそんなこと」
あるいは
「うるせー!! 糞して寝ろ!!」
と、逃げ手を打つのは簡単であろう。
だが、せっかくなので考えてみたい。文学とは、いったい何の役に立つ学問なのか? そもそも役に立つものなのかこれは?
結論からいえば、当然役に立つ。
『人生をもっと楽しくする』という役にだ。
無論、「小説読んだらやっぱ楽しいよねー」とかそういうことを言っているのではない。
我々は小説を読み、あるいは書くことによって触れることができる。「自分以外の人生」に。
それはもはや、触れるなどといった生易しいものではない。「追体験」――自らが、「自分以外の人生を生きる」ことですらある。
読み、書くとき人は想像する。そこに書かれている文字以上のことを。感情を、空気を、手触りを――登場人物そのものの生を実感する。
そうすることで我々文学者は学ぶ。様々な人生を、そして「自分以外の様々な人生があり、様々な視点があり得る」ということを。
それを学んだとき、我々は自分の人生にもその学びの成果を当てはめることができる。
自らの人生が、そこで直面するできごとが、「他の視点から眺め得る」ことを学ぶことができる。
この問題は本当にそこまで大した問題なのか? あるいはこの面白いことは、実は超絶面白い奇跡なのではないか? そうした可能性に思い至ることができる。
だから、文学は「人生をもっと楽しくする」ための学問である。
文字を読み解き、言葉を操るばかりが文学ではない。
我々文学者にとって日常の一切、人生の全てが文学を発揮すべき場であり、文学を学ぶ場である。
文学は他の学問とは違う。文学は、解を求めることを必要としない。
文学とは、実践されることのみを必要とされる。すなわち「楽しく生きる」ことを。
我々は文学者として、堂々と「楽しく生きていく」ことを実践すればよいのである。それが文学者としての、私の結論である。
――と、いうのは半分本音であり、半分は建前。
正直、「文学は役立たずでいい」と思っている。
「人に何かを学ばせる」ということは「学ばせたいそれを正確に伝える」ことを前提とする。
そして、書いて読む文学者たる我々は。「それをできるだけ正確に伝えるすべを知っている」と、同時に。「それが完全に正確に伝わることなど絶対にない」と知っている。
言葉には意味の振れ幅があり、書き手、読み手、一人一人その触れ幅は違う。その振れ幅と触れ幅の重なったところに――そしてまた、それらが全く重ならなかったところに――遊ぶのが我々、文学者だ。
文学は「たった一つの解」を求める学問ではない。作者の解があり、ある読者の解があり、また別の読者の解があり。あるいは、「解などどこにも無い」学問だ。
統一的な解が無い以上「何かを――誰がどう見ても確かなことを――学ばせる」などという傲慢な行為と、文学は無縁だ。
そんな学問に何の意味があるのか? 何の価値があるのか?
――意味だの価値だのと、そんなものは無い。
これだけ世に学問があるのだ。一つぐらい無意味無価値な学問があったっていい。それが、文学。
我々は価値があるから観覧車に乗るのではないし、役に立つからチョコレートパフェを食べるのではない。意義があるから恋に落ちるのでもない。文学もまた、それと同じだ。
たとえ文学が、何の役にも立たなかったとしても。それぐらいのことで、我々は文学を嫌いになったりはしない。
だから、文学など何の役に立つのか? と聞かれたら。
「うるせー!! 糞して寝ろ!!」
そう言って屁ぇこいて逃げてやればよろしい。文学的に、百点満点の回答である。
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