残虐女王の暴力が心地いい日々でも僕がいないとダメなので何回死んでも愛し抜く。

無常アイ情

金糸雀の檻

夜の匂いがする。

それは香水のように肌を飾り立てるものでも、媚薬のように意識を混濁させるものでもない。もっと根源的で、俺という存在そのものから滲み出す、粘り気のある甘い香りだ。血と汗と、数えきれないほどの他人から注ぎ込まれた欲望が混ざり合い、長い年月をかけて熟成された腐臭にも似た芳香。人々はそれを「性の匂い」と呼び、抗いがたい魅力だと囁いた。俺自身にとっては、洗い流すことのできない奴隷の烙印でしかなかったが。


「イリア」


絹のシーツが擦れる音と共に、低い声が俺の名を呼ぶ。その声の主、ピヨドルフ王は、分厚い背中をこちらに向けたまま、窓の外に広がる王都の夜景を眺めていた。賢帝と謳われ、この国に未曾有の繁栄をもたらした偉大な王。しかし、ひとたび寝室の扉が閉じられれば、その仮面は剥がれ落ち、ただの醜悪な欲望の塊と化す。夜の帝王。その呼び名の方が、よほど彼の本質を的確に表していた。


「こちらへ」


命令は常に簡潔で、拒否という選択肢は存在しない。俺は音を立てずに寝台から降り、大理石の冷たい床を裸足で歩いた。一歩進むごとに、身体の節々が軋むような痛みを訴える。今宵の王の「戯れ」は、とりわけ激しいものだった。死の淵を何度も覗き込むような苦痛と快楽の波状攻撃。それでも俺がまだ息をしているのは、単に運が良かったからに過ぎない。彼の気まぐれひとつで、明日の朝日を拝めなくなる側室や奴隷は、この宮廷に掃いて捨てるほどいた。


王の隣に立つと、むわりと酒の匂いがした。彼は俺の顎を掴み、無理やり顔を上向かせる。探るような視線が、俺の顔を、首筋を、そして全身を舐め回すように這っていく。


「美しいな、イリア。何度見ても飽きることがない」


その言葉に感情はこもっていない。まるで価値の高い美術品を鑑定するかのような、冷たい賞賛。俺はこの男の所有物だ。一年ほど前、大陸中から逸品が集まるという奴隷市で、彼は山のような金貨を積み、俺を競り落とした。以来、俺の身体も心も、すべてがこの男のものとなった。


俺は何も答えない。ただ、無表情を保つ。感情は、とうの昔に殺した。喜びも、悲しみも、怒りさえも、ここでは何の役にも立たない。むしろ、反応を見せることは相手を喜ばせるだけだと、三歳で買われた先の娼館で骨身に染みて学んでいた。


俺の人生は、物心ついた時から地獄だった。戦争孤児。両親の顔も名前も知らない。侍女に預けられていたという微かな記憶も、それが真実なのか、あるいはそうであって欲しいという願望が見せた幻なのか、今となっては判別がつかない。ただ、奴隷狩りに遭い、人から人へと売り飛ばされ、幼い身体を嬲られ続けた日々だけが、消えない傷として刻み込まれている。二十六歳まで、俺はただ呼吸をし、客の欲望を受け入れるだけの肉人形だった。


ピヨドルフ王は、俺の沈黙を意に介した様子もなく、満足げに喉を鳴らした。

「お前は最高の玩具だ。壊れそうで、決して壊れない。その絶望に染まった瞳が、余を昂らせる」


彼は俺の髪を乱暴に掴むと、窓辺に引き寄せた。ガラス窓に、二人の姿が映る。逞しい体躯の王と、その腕に抱かれる痩身の男。まるで出来の良い絵画のようだったが、その内実は腐りきっていた。


「見ろ、イリア。余が築き上げたこの国を。すべてが余の意のままに動く。人も、法も、そしてお前もだ」


その通りだ、と心の中で呟く。この檻から逃れる術はない。戦闘能力は大したことがなく、魔法に至っては才能の欠片もなかった。唯一、人より少しだけ回る頭で逃亡を画策したこともあったが、王の張り巡らせた監視網は完璧で、すぐに引き戻され、想像を絶する罰が待っているだけだった。いつか、俺も他の者たちのように、この男の腕の中で嬲り殺されるのだろう。その考えは、恐怖よりもむしろ、一種の諦めに似た安堵を俺にもたらした。ようやく、終わるのだ、と。


「……陛下」

「なんだ」

「ミア王女殿下が、明日、乗馬のお相手にと、私を所望されておりました」

俺は努めて平坦な声で告げた。王の機嫌を損ねる話題だとわかっていたが、伝えないわけにはいかない。


途端に、王の纏う空気が凍りついた。俺の髪を掴む指に力がこもり、頭皮が引き攣れる。

「あの小娘か……。あいつには近づくなと、何度言えばわかる」

「殿下の方が、私の部屋へとお越しになるのです。断る権限は、私には……」

「口答えをするな!」


腹に鈍い衝撃が走り、俺は床に崩れ落ちた。「ぐっ」と呻き声が漏れる。咳き込む俺を、王は冷たく見下ろした。


「いいか、イリア。お前は余のものだ。ミアであろうと、誰であろうと、指一本触れさせるな。もし次にあの娘がお前にまとわりつくようなことがあれば、その時はお前の四肢を切り落として、余の寝台に縫い付けてやる。そうすれば、もう誰にも奪われずに済むだろう?」


心底楽しそうに笑う王の顔を見上げながら、俺は込み上げる血の味を飲み込んだ。四肢を切り落とす。この男なら、本当にやりかねない。ミア王女。王と、あの気高いヒナ王妃との間に生まれた、唯一の娘。彼女の存在は、この絶望的な日常における、唯一のイレギュラーであり、そして最大の脅威だった。



翌日の昼下がり、俺は言いつけ通り、王宮の厩舎でミア王女を待っていた。昨夜の王の言葉が、鉛のように腹の底に溜まっている。近づくなと言われても、王女直々の命令に、一介の奴隷である俺が逆らえるはずもなかった。


「イリア!」


鈴を転がすような明るい声と共に、彼女は現れた。今年で十九歳になるという王女は、母親譲りの銀色の髪を快活なポニーテールに揺らし、身体にぴったりと合った乗馬服に身を包んでいた。その姿は、この薄汚れた王宮の中にあって、唯一塵ひとつない輝きを放っているように見える。


「待たせたかしら。父上に呼び止められてしまって」

屈託なく笑うミアの顔を見ると、胸の奥が微かに痛んだ。彼女は、俺が王の「夜の玩具」であることを知らない。いや、知っていて、あえて知らないふりをしているのかもしれない。この王女は、常人の理解を遥かに超えた場所にいる。


「さあ、行きましょう! 今日は丘の上まで競争よ。負けた方が、勝った方の言うことを何でも聞く、というのはどう?」

「……恐れながら、王女殿下。私はただの奴隷です。殿下と競うなど、滅相もございません」

「またそんな堅苦しいことを言う。あなたは私の友人でしょう?」


友人。その言葉の響きに、俺は自嘲の笑みを浮かべそうになるのを必死で堪えた。彼女は俺の腕を取り、ぐいぐいと馬の方へ引っ張っていく。華奢な見た目に反して、その力は驚くほど強い。触れた部分から、彼女の体温がじわりと伝わってくる。それは、王の触れる熱とは全く違う、生命力に満ちた温かさだった。


ミアは、神童と呼ばれている。十歳にして魔法の最高ランクに到達し、師もいない独学でそれを成し遂げた。剣術の腕も凄まじく、先日行われた御前試合では、王国最強と謳われる騎士団長を赤子のようにあしらってみせた。噂では、その実力は世界で三本の指に入るとまで言われている。だが、本人はその凄さに全く無自覚で、「少し努力すれば誰でもできることよ」と本気で思っている節があった。その天賦の才と、世間知らずな純粋さが、彼女を恐ろしく、そして危うい存在にしていた。


「イリア、聞いているの?」

「は、はい」

「あなたの馬も用意してあるわ。ほら、あの子よ」

ミアが指さしたのは、漆黒の毛並みを持つ、見事な軍馬だった。並の騎士では乗りこなすことすら難しい気性の荒い馬だ。

「あんな馬、私にはとても……」

「大丈夫。あなたなら乗りこなせるわ」


ミアは、何の根拠もなく言い切った。彼女の蒼い瞳が、じっと俺を見つめている。その瞳に見つめられると、いつも奇妙な感覚に陥る。まるで魂の奥底まで見透かされ、俺自身も気づいていない何かを暴かれてしまうような、居心地の悪い感覚。彼女は俺の中に「底知れぬ才気」を感じていると言ったことがある。馬鹿げた話だ。俺にあるのは、男と女を悦ばせる術だけだ。


「あなたには、才能があるの。眠っているだけ。私がそれを目覚めさせてあげる」

「……」

「あなたに最高の教育を施して、誰もがひれ伏すような存在にしてあげる。そうしたら、あなたは私のものになるのよ。私だけの、イリアに」


悪意のない、純粋な独占欲。彼女は本気でそう思っている。父親である王から俺を奪い、自分のものにする、と。そして、俺との間に子供を残したい、とまで公言して憚らない。その言葉を聞くたびに、背筋が凍るような思いがする。王も恐ろしいが、この王女は別の種類の恐ろしさを秘めていた。


俺たちが話していると、厩舎の入り口に、凛とした人影が立った。

「ミア。あまりイリアを困らせるものではありませんよ」

現れたのは、ミアの母親であるヒナ王妃だった。第一王女でありながら、隣国から嫁いできた彼女は、夫であるピヨドルフ王を「ゴミ」と呼び、公然と軽蔑していた。夫婦仲は完全に破綻しており、事実上のセックスレスであることは、宮廷内の誰もが知る事実だった。


王妃は、聡明で品行方正。そして、剣の腕は一流の冒険者にも匹敵し、魔法も上級レベルを使いこなす。彼女がこの国にいる限り、ピヨドルフ王も迂闊なことはできない。二人の間には、常に冷たい緊張が張り詰めていた。


「母上」

「おやめなさい。そのように奴隷の腕を掴むなど、はしたないことです」

ヒナ王妃の静かな声に、ミアは少し不満そうにしながらも、素直に俺の腕を離した。王妃の視線が、俺に向けられる。その瞳には、憐憫も、軽蔑も、何の感情も浮かんでいない。ただ、そこにある「物」として認識しているかのような、ガラス玉のような瞳だった。


「イリア。あなたは下がってよろしい。ミアの乗馬の相手は、近衛の者をつけさせます」

「……御意」

俺は深々と頭を下げ、その場を辞した。ミアの残念そうな視線と、王妃の無関心な視線が背中に突き刺さる。


自室に戻る廊下で、俺は壁に手をつき、荒い息を吐いた。王と王女、そして王妃。三者三様の視線が、俺の心をすり減らしていく。王の暴力的な支配、王女の純粋な執着。そして、王妃の絶対的な無関心。どれもが俺を追い詰める。


どうにかして、逃げなければ。

いつか殺される。王に嬲り殺されるか、あるいは王女の歪んだ愛情に押し潰されるか。どちらにせよ、俺に未来はない。


だが、どうやって?

この金で塗り固められた巨大な鳥籠から、翼を持たない俺がどうすれば逃げられるというのか。

考えれば考えるほど、思考は暗い沼に沈んでいく。結局、俺にできることなど何もないのだ。そう結論づけるしかなかった。絶望は、いつだって正しい。



その夜、俺の予想通り、王の怒りは苛烈を極めた。

「ミアと会ったそうだな」

寝室に入るなり、彼は俺の髪を掴んで床に引き倒した。

「なぜ余の命令に背いた」

「王女殿下のご命令でした。私に否とは……」

「言い訳は聞かぬ!」


鞭が空気を切り裂く音が響き、背中に灼熱の痛みが走った。悲鳴を上げれば、さらに王は喜ぶだろう。俺は歯を食いしばり、必死に声を殺した。何度も、何度も、鞭が打ち下ろされる。意識が遠のき、痛みさえもが現実感を失っていく。朦朧とする意識の中で、俺はただ、早く終わってくれと願うだけだった。


どれくらいの時間が経っただろうか。王は飽きたように鞭を放り投げ、汗の滲む額を拭った。

「今宵はこれまでにしておいてやる。だが、次はないと思え」

そう言い残して、王は隣の私室へと消えていった。床に残された俺は、指一本動かすこともできなかった。背中の皮膚は裂け、熱い血が流れ出しているのがわかる。このまま死ねたら、どんなに楽だろうか。


そんなことを考えていた、その時だった。


「……ねえ」


どこからか、声がした。子供のようでもあり、老人のようでもある、奇妙に響く声。空耳かと思ったが、声はもう一度、はっきりと聞こえた。


「ねえ、きみ。面白いことになってるね」


俺はゆっくりと顔を上げた。誰もいないはずの部屋の、その中央に、”それ”はいた。

金魚だった。

体長は三十センチほどだろうか。きらきらと輝く黄金の鱗を持ち、優雅な尾ひれを揺らしている。だが、水槽に入っているわけではない。何もない空間に、まるで水中を泳ぐかのように、ぷかぷかと浮かんでいた。


幻覚か。あまりの苦痛に、とうとう頭がおかしくなったのかもしれない。

俺が呆然と見つめていると、金魚はくるりと一回転し、俺の目の前まで近寄ってきた。ガラス玉のような黒い瞳が、俺を覗き込む。


「きみ、願い事はないのかい?」

金魚が、喋った。

その口はパクパクと動いているだけで、声帯があるようには見えない。だが、声は確かに、頭の中に直接響いてくる。


「願い事……?」

かすれた声で、俺はオウム返しに呟いた。

「そう、願い事。なんでもいい。金が欲しい? 女が欲しい? それとも、あいつを殺したい?」

金魚は楽しそうに尾ひれを揺らす。

「ぼくはカロー。遠い宇宙から、この星に文明を齎しにきた。きみが面白い話を聞かせてくれたら、すごい道具をあげよう。でも、つまらなかったら……」


カローと名乗る金魚は、ぱかりと口を開けた。その中は、宇宙の暗闇のように、どこまでも深く、何も見えなかった。


「食べちゃう」


けらけらと、楽しそうな声が頭に響く。

理解が追いつかない。疲弊しきった精神は、この超常的な存在を受け入れることを拒否していた。俺は何も言えず、ただその場に倒れたまま、奇妙な訪問者を見つめ続けた。


「なんだい、何も言わないのかい? つまらないなあ」

カローは退屈そうに宙を一周した。

「きみ、すごく疲れた顔をしてるね。心が死んでる。これまでの人生、いいことなんて一つもなかったんだろう?」


図星だった。だが、それを肯定する気力もなかった。

願い事。

そんなもの、とうの昔に枯れ果ててしまった。何かを望むこと自体が、途方もない贅沢に思えた。望んでも、どうせ手に入らない。期待すれば、裏切られる。その繰り返しの中で、俺の心は願うことをやめたのだ。


「……何も、ない」

やっとの思いで、それだけを絞り出した。

「私には、願うことなど、何もありません」


「ふーん。そうかい」

カローはつまらなそうに尾ひれを一度だけ振った。

「じゃあ、きみは用なしか。つまらない人間は、ぼくのエネルギーになるのがお似合いだ」


次の瞬間、俺の視界は暗転した。

痛みも、苦しみもなかった。ただ、意識が急速に薄れていく。ああ、死ぬのか。カローに、食べられたのか。不思議と、恐怖はなかった。むしろ、安堵があった。ようやく、この苦しみから解放される。永遠の無が、俺を包み込んでいく。


―――これで、終わりだ。


そう思ったはずだった。


「……あれ? 死んじゃった」


頭の中に、またあの間延びした声が響く。


「でも、また生き返らせればいいよね。そしたら、もっと面白い反応が見られるかもしれない」


刹那、全身に激痛が走った。死の安らぎから無理やり現実に引き戻される。裂かれた背中の傷が、灼けるように痛む。俺は咳き込みながら、ゆっくりと目を開けた。そこには、先ほどと寸分違わぬ王の寝室の光景が広がっていた。そして、目の前には相変わらず、金魚のカローが浮かんでいる。


「おかえり。死後の世界はどうだった?」

「……な、にを……」

「いやあ、死んだままだと会話ができないからね。生き返らせてみた。そうだ、きみは願い事がないんだったね。じゃあ、ぼくがプレゼントをあげよう。これをあげたら、喜ぶかな?」


カローが、ぱかりと口を開けた。すると、その暗闇の中から、まばゆい光と共に、金貨が滝のように溢れ出してきた。あっという間に、床は金貨の山で埋め尽くされる。それは、小国の国家予算を軽く凌駕するであろう、途方もない金額だった。


「どうだい? これだけあれば、世界中の何だって買える。きみは自由になれるんだよ」

カローは得意げに胸を(あるのかどうかわからないが)張った。


俺は金貨の山を、呆然と見つめた。自由。この金があれば、確かにそうかもしれない。だが、俺の思考は別の方向へ働いた。こんな大金、どこから湧いて出たのか説明できるはずがない。もし、このことが亭主――ピヨドルフ王に知られたら? 俺は間違いなく、盗みの罪を着せられ、拷問の末に殺されるだろう。自由になる前に、もっと悲惨な死に方が待っている。


恐怖が、カローの善意(?)を上回った。

俺は震える手で、近くにあった燭台を掴むと、その火を金貨の山に押し付けようとした。

「燃やしてしまわないと……。こんなもの、見つかったら、殺される……!」


「おや?」

カローは不思議そうに首を傾げた。

「どうして? それで君は自由になれるのに」

その純粋な疑問が、俺には理解できなかった。この金魚は、人間の社会の仕組みも、俺が置かれた絶望的な状況も、何もわかっていないのだ。


「わかった。きみが怖がっているのは、そいつらなんだね」

カローの黒い瞳が、きらりと光った。

「だったら、そいつらみんな、殺しちゃえばいいんだ」


その単純で、あまりにも過激な結論に、俺は息を呑んだ。

「殺す……?」

「そう。きみを虐げている奴らを、全員消してしまえば、きみは自由になれる。簡単なことだろう?」


カローは再び口を開けた。今度は、金貨ではない。ごとり、と二つの奇妙な物体が床に転がり出た。

一つは、赤い蝋で固められた、太い筒のような塊。そこから、一本の紐が伸びている。もう一つは、黒光りする鉄の塊で、複雑な機構と、握るための部分がついている。見たこともない、不気味な道具だった。


「これは『火薬』というものさ。この世界にはまだ存在していない、ぼくからのプレゼント。その筒に火をつければ、屋敷ごと吹き飛ばせるくらいの力がある。こっちの鉄の塊は『銃』。狙った相手を、遠くからでも簡単に殺せる便利な道具だよ」


カローは楽しそうに説明する。

「それで、きみを苦しめる王様も、おせっかいな王女様も、みんな殺しちゃえばいい。さあ、受け取るといい」


俺は、床に転がった二つの「力」を、ただ見つめることしかできなかった。

屋敷を吹き飛ばす力。人を遠くから殺せる力。

それは、あまりにも異質で、あまりにも強大で、あまりにも恐ろしいものだった。

得体の知れないものを、貰ってしまった。

頭を抱えたい衝動に駆られながら、俺はその場に座り込んだ。


「じゃあ、ぼくは行くよ。面白いものが見られそうだ。頑張ってね」

そう言うと、カローはすうっと壁を通り抜け、消えてしまった。後には、おびただしい量の金貨と、二つの不気味な道具、そして呆然自失の俺だけが残された。


俺は震える手で、金貨には目もくれず、爆薬と銃を拾い上げた。ずしりと重い。これが、人を殺すための道具。俺の手には、あまりに不釣り合いな代物だった。

見つかれば、終わりだ。しかし、捨てることもできなかった。カローが言った言葉が、脳裏にこびりついて離れない。


――そいつらみんな、殺しちゃえばいいんだ。


俺は這うようにして、床下収納の隠し戸を開けた。そして、この二つの凶器を、一番奥へと押し込んだ。金貨は、どうしたものか。考えるだけで頭が痛くなる。とりあえず、分厚い絨毯の下に隠すしかなかった。


その日を境に、俺の心の中に、小さな、しかし確かな変化が生まれた。

絶望と諦念しかなかった暗闇に、カローが灯した「力」という名の、禍々しい光。それは、希望と呼ぶにはあまりにも歪で、危険な光だった。


数日後、王の仕打ちは、輪をかけて激しくなった。些細なことで癇癪を起こし、俺を殴り、蹴り、意識がなくなるまで嬲り続ける。そのたびに、俺の意識の片隅で、カローの言葉が囁く。


――殺しちゃえばいいんだ。


ある夜、王は新しい「戯れ」を思いついたと言って、俺の爪を一枚ずつペンチで剥がし始めた。激痛に意識が飛びそうになる。血と涙で視界が滲む。その向こうで、恍惚の表情を浮かべる王の顔が見えた。


ああ、もう、駄目だ。

このままでは、本当に殺される。

じわじわと、尊厳を削り取られ、弄ばれ、壊されて、死ぬ。


その時、俺の中で何かがぷつりと切れる音がした。

もう、どうなってもいい。


痛みに呻くふりをしながら、俺は床下収納の隠し戸に手を伸ばした。

暗闇の中で、指先が硬い蝋の感触と、冷たい鉄の感触に触れる。


――地面に埋めておいたその爆薬とかいうやつを持っていって、王の部屋の前に設置しました。


ふと、未来の自分の声が聞こえたような気がした。

俺は、カローに渡された赤い筒を、震える手で掴み出した。

これを使えば、終わらせられる。

この地獄を。

この男を。

そして、俺の人生も。


もう、迷いはなかった。

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