この人

増田朋美

この人

暑いというか熱いといったほうがいいかもしれない日々が続いていた。みんなエアコンの下にいるしかできなかった。どこかの地域では地震がよく起きるなどして、なんだか怖いなあと思われている日々でもある。

その日も、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようとしていたのであるが、水穂さんは、杉ちゃんから渡されたご飯を口にしても、咳き込んで吐き出してしまうのであった。

「もう一体どうするんや。何にも食べないと、人間は動物だもん、そのうち動けなくなるわ。」

杉ちゃんがそう言っても水穂さんは咳き込んだままだった。咳き込むと同時に内容物も出る。それは朱肉ににた赤い色で、水穂さん自身の指を汚してしまうだけではなく、茶碗や箸を落としたりさせたりする。

「もういいかげんにしいや。何にも食べないじゃ、体が持たんぞ。」

こう言っても、水穂さんの世話を長期的にやってくれるのは、杉ちゃんしかいない。何人か世話をしてくれる女中さんを募集したことがあるが、みんな水穂さんに音をあげてやめていく。短いものでは1日でやめた例もあり、長いものでも一月持てば上出来である。

「こんにちは。竹村です。クリスタルボウルのセッションに参りました。」

いきなり、玄関の引き戸が開いて、竹村さんが入ってくる音がした。製鉄所では、挨拶の重要さを重視しているため、インターフォンは用意していないのである。製鉄所と言っても、鉄を作るところではなく、ワケアリの女性たちが、勉強や仕事をするための、部屋を貸し出す施設だった。

「ああ、竹村さんか。どうぞ来てちょうだいよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「こんにちは。今日は竹村さんと一緒にこさせていただきました。よろしくお願いします。」

と、若い女性の声がした。そして、クリスタルボウルを台車に乗せて持った竹村さんと、スーツ姿の若い女性が、水穂さんの部屋の中へ入ってきた。

「竹村さんこの女の人だれや?」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。紹介しますね。弁護士の、竹宮まゆさんです。」

と、竹村さんがそう彼女を紹介した。

「竹宮まゆでございます。どうぞよろしくお願いします。」

まゆさんと呼ばれた女性は、そう挨拶する。水穂さんが、急いで口元をちり紙で拭いて、まゆさんの前に座礼したが、

「いえ、あなたは横になっていただいて大丈夫です。竹村さんから銘仙の着物を来ていると伺ったので、ちょっと調べさせてもらいましたが、それを、卑下する必要は全くありません。むしろ、人種差別の被害者なんですから、堂々と休んで頂いて構いません。」

とまゆさんは言った。水穂さんは、激しく首を降って、

「そういうわけにも行きません!」

と言ったが、また咳き込んでしまって、内容物が口に当てた手を汚した。またお前さんは、と杉ちゃんに小言を言われながら背中を擦ってもらい、竹村さんも横になるようにといったが、水穂さんは、それはしないで竹宮さんの前に、土下座するような感じで座っていた。

「わかりました。それが、水穂さんの本当の気持ちなんですね。いくら、楽にしてもいいと言っても、そのとおりにできないのが、日本の同和問題なんでしょう。」

「もう、勿体ぶらないで早く本題に入れ。水穂さんこのまま緊張させっぱなしだと可哀想でたまらんわ!」

まゆさんがそう言うと、杉ちゃんがすぐにでかい声で言った。

「わかりました。それなら、本題に入りましょう。水穂さんの現状もちゃんとわかりました。水穂さんは、医療を受けることが必要な状態でありながら、医療を受けることができないで、民間療法のようなものに頼るしかできないのですね。でも、それでは行けないってこともちゃんとわかってますし、それを実行するには、人手がいると言うことも確かです。」

竹村さんが、なにか嫌そうな話を始めた。杉ちゃんがそれは言うなといったが、

「いや、今の現状ですから、それはちゃんと把握しておきましょう。」

と、竹村さんは話を続けた。

「まあそういうこっちゃな。きっと、いつの時代になっても、水穂さんが医療を受けることはできないだろうね。まあ偉い人の力を借りればできるかもしれないけどさ、それだって、本当に力のある人じゃないとできないよ。」

杉ちゃんがぶっきらぼうに言うと、

「そうだね杉ちゃん。そのとおりなんだよ。だけどね、この竹宮まゆさんであれば、それができるかもしれないの。人権派の弁護士として有名だから。この前、冤罪事件が発生したのは知っている?」

竹村さんは杉ちゃんに聞いた。

「そんなもん知らんわ。だいたいね、新聞もテレビもうちにはないもんで。」

杉ちゃんがそう言うと、

「じゃあ、説明するよ。冤罪とは、全くやってない人が勝手に逮捕されて、警察が犯人だと決めつけてしまうことだけど、先日、女の子が毒入りのどら焼きを食べてなくなったという事件が起きた。そこの犯人として、和菓子屋の男性が逮捕されたんだが、証拠不十分で、彼は無罪になったんだよ。それを証明してくれたのが、こちらの、竹宮まゆさんだったわけ。今は彼女はときの人だ。いろんなテレビ番組にも出ているし、ほんの出版も行っている。そういう彼女だから、水穂さんを病院まで連れていくことだって、できるんじゃないかなと思ったわけ。」

と竹村さんは説明した。

「でも、テレビに出てるからって、そんなやつが果たして、水穂さんのことを助けたり、病院に連れて行ったりできるもんかな。そういう実績があってもだよ。同和問題ってのは、それより前から続いているもんだからさあ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「でも、水穂さんが、医療が必要な人で、他の人からも大事にされているのは、知っての通りじゃないか。それなら、誰かがなんとかしなければだめなのでは?」

と竹村さんも反論した。

「誰かが何処かで行動を起こしたって、同和問題は同じこと。いつも同じ答えしか出ないさ。それが同和問題なの。いくら新しい人が何かをしようとしたって意味がない。」

「杉三さんって言ってましたよね。私、その気持は素晴らしいと思う。」

不意に、まゆさんがそういった。

「確かに、同和問題というのは、歴史的なもので、私達が変えられるものではないのかもしれないけれど、それをちゃんと口に出して言える杉三さんは、すごいと思うわ。それだけ水穂さんの事を思ってあげられるってことだから。その気持、私にも分けてほしいの。」

「物好きな弁護士だね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「ある意味、それは、ものを知らない。当事者がどんなにつらい思いをしているか知らないからそういうことが言えるんや。もし、それを知っていると言うんだったらな、あえて病院へ連れて行こうとはしないと思うよ。」

「そうかも知れないですけどね。竹宮まゆさんが、水穂さんのことを聞いて、彼を救おうと活動を始めたいと言ってくれたんだ。それは素晴らしいと思わないかい?」

竹村さんが言うと、

「素晴らしいだって?笑わせんな。どれだけ苦しい思いをしたのか、法律学校歯科行ってない、トッチャン坊やにはわかるまい。僕は嫌だよ。水穂さんが、医療機関に盥回しされて、結局帰って来るしかないっていうのを、何度も見てるから。」

と、杉ちゃんが言った。それと同時に、水穂さんが、座ったままの姿勢がとてもつらかったらしく、ふらふらと倒れてしまいそうになったので、

「こうなっては仕方ありません。私が連れていきます。」

と、まゆさんが言った。

「無理なものは無理!」

と、杉ちゃんが言うのであるが、竹村さんが、水穂さんを背中に背負った。私、車を出してきますと言って、まゆさんは外へ出てしまった。おい待て!と杉ちゃんは主張するが、まゆさんと竹村さんは、どんどん外へ出ていってしまった。こういうとき、歩ける人だったら、二人を追いかけて止めることができるのかもしれないが、車椅子の杉ちゃんにはそれができなかった。

「あーあ、結局、没になって、帰って来るのかなあ。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うが、まゆさんと竹村さんは水穂さんを連れて出ていってしまった。杉ちゃんは、仕方なく、建物内で待っているしかなかった。

それから、一時間くらいして、製鉄所の外で、車を止める音がした。

「只今戻りました。」

竹宮まゆさんの声である。

「はあ、それで、見てもらえなくて、帰ってきたのかい?」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、竹村さんが、水穂さんを背中に背負って、製鉄所の建物内に入ってきた。

「いいえ、無事に見てもらえましたよ。とりあえず、抗菌薬を点滴してもらって、あとは、抗生物質の投与でなんとか治まるんじゃないかって言われました。とりあえず、昭和の初めの頃みたいに、深刻に悩まなくても大丈夫ですから、あとは静かに眠ってもらうことじゃないですか?」

竹村さんはそう言って、水穂さんを布団の上におろして、掛ふとんをかけてあげた。

「そうか、じゃあとりあえず楽になってはくれたんだね。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。大丈夫ですよ。これからも定期的に、僕と、竹宮さんで連れていきますから。」

と竹村さんは言った。

「まあ、そういうことか。それで、銘仙の着物を来てるからもう来ないでくれとか、そういうことは?」

「ええ、言われなかったわ。あたしが、特別な患者さんだからって言ったら、躊躇しないで見てくれました。」

杉ちゃんがそう言うと、竹宮まゆさんは言った。

「そうか。定期的に連れていけるかが、問題だと思うけどね。必ず、善行にはボロが出るよ。必ずなにか落とし物をしていくよ。それが、足引っ張ることだってあるから、気をつけろや。」

まゆさんがそんなことはないと思うというと、

「まあ、世間を知るのは、もうちょっとあとかなあ?世の中って、いい人ばかりじゃないけど、悪い人ばかりでもないからなあ。」

と、杉ちゃんは、誰かの歌詞に出てきそうな言葉を言った。

とりあえず、水穂さんの咳き込むのはその日は終わってくれた。水穂さんは、処方された薬をちゃんと忘れずに飲んでくれたので、咳き込む回数は減少していった。薬がなくなると、竹村さんと、竹宮まゆさんが、やってきて、病院に連れて行ってくれたのであった。

ある日。

「こんにちは。」

と、竹宮まゆさんが、玄関の引き戸を開ける音がした。

「あれ、今日は一人かい?」

杉ちゃんが言うと、

「ええ。今日は、竹村さんは、用事があってこられないそうです。」

と竹宮まゆさんは答えた。

「はあそうか?薬なら、まだ残ってるけど、病院につれていく必要が出たのかな?」

杉ちゃんが聞くと、

「理由はちょっと言えないんですけど。ここにいさせてもらえませんか?」

まゆさんは、なにか逼迫しているのではないかと思われる顔で言った。

「はあ、なにかあったんか?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、ちょっとだけいさせてもらえればそれでいいのです。」

まゆさんはそういった。

それと同時に、また製鉄所の入口の引き戸がガラッと開いて、

「すみません。こちらに、竹宮まゆさんいらっしゃいますね。私、岳南朝日新聞社の、石破瑠衣です。」

と、一人の女性が入ってきた。確かに、新聞記者をしている、石破瑠衣さんだった。

「何だお前さんか。今回は、なんのようだよ?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ。竹宮まゆさんにお話を聞きたいのです。」

と、瑠衣さんは答えた。

「はあ、お話を聞きたいってなんのことかなあ?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ。まゆさんが、岳南医院で、水穂さんといっしょに居るのを見ました。あれはなんのためだったのでしょうか。その理由をお聞かせ願いたいのです。」

瑠衣さんは、そう答えるのである。

「はあ、お前さんたちもさ、こうしなければ、水穂さんも医療を受けられないってことで、放っておいてもらえないかということを、考えてもらえないかな。どうせ、まゆさんと、水穂さんが、不倫関係とか、そういう気持ちで取材してるんだろう。まねえ、そういうことを集めて生活していかなくちゃいけないってのはわかるけど、だけど、そういうことなら、無理しないで放っておいてくれ。」

杉ちゃんは、でかい声でそういったのであるが、

「いいえ、あたしは、そういうつもりで記事を書いてるんじゃありません。ただ、まゆさんが、どんな気持ちで水穂さんを岳南医院に連れて行ったのか、それを知りたいのです。御存知の通り、竹宮まゆさんは、テレビや新聞でも、有名な弁護士ですから。その彼女がどうして、水穂さんを連れて行ったのか、みんなに知らせたいじゃありませんか!」

石破瑠衣さんは、新聞記者らしく言った。

「だからあ、ほっといてくれないかなあ。どうせさ、お前さんたち報道関係者のすることなんて、ろくなことないでしょ。役に立つのは、おっきな災害があったときとか、そういう時よ。それ以外は、みんな、ガセネタよこすから、僕らは困ってしまうんだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ここまで突き止めて来たんですね。」

と、いいながら、竹宮まゆさんがやってきた。

「あたしも、そういう報道関係の人には辟易していますけど、まさかここまで追いかけてくるとは驚きました。あたしは、悪意で水穂さんといっしょにいたわけではありません。ただ、水穂さんが、医療が必要だったのでそれで連れて行っただけのことです。」

「竹宮さん、それは本当にそうなんですか?」

まゆさんがそう言うと、瑠衣さんはすぐに言った。

「あなたのような、有名な女性がなぜ、銘仙の着物を着ている人と、一緒にいなければならないのか、理由を聞かせてくださいませ。それによっては私も引き下がるかもしれないし、なおも取材を続けなければいけないかもしれません。竹宮さん、思っていることを、正直に話してください。あなた、水穂さんと何をするつもりだったんですか?」

「ええ、水穂さんには、抗菌剤の投与と、抗生物質の点滴を行ってもらっています。それ以外のことはしていません。」

まゆさんは瑠衣さんに対抗するように言った。

「水穂さんが、銘仙の着物しか着られないことは知っていましたか?」

瑠衣さんが聞くと、

「ええ。それは知ってます。だけど彼を通して、なにかしたいだとか、名声がほしいとか、そういう気持ちは一つもありません。ただ、彼を助けたくて、病院に連れて行っただけです。」

と、まゆさんは答えた。

「そうなんでしょうか。あなた、以前もそういうことしたことありましたよね。私、何度か目をつけているのですが、福祉団体と関わって、障害のある人と関係を持ったり、養護学校で、生徒さんの写真を勝手に撮るなど、そういう事をしたことがありましたよね?それを、やってないとは言わせませんよ。あなたのことを、みんな尊敬の目で見ていると思うんですけど、あなたが裏ではそういう事をしていることは、隠していてはだめなんです。ちゃんと、市民の方に知らせないと。」

「なるほど。やはり前歴があったわけね。それじゃあ、こういう弱いやつを食い物にしようと企んだのは一度や二度ではないんだ。」

と、杉ちゃんが瑠衣さんの話を聞いていった。

「あの時は、弱い人達を助けようとしただけです。他に何もありません。」

まゆさんが言うが、

「本当にそれだけですか?本当に、それだけで終わるものなのでしょうか?」

瑠衣さんは、記者らしくしつこく言った。

それと同時に、廊下を人が歩いてくる音がして、

「申し訳ありません。僕が、彼女をたぶらかしました。もし、瑠衣さんが、僕と、まゆさんの事を記事にしたいのであれば、僕が先にまゆさんに持ちかけたんだと必ず書いてください。」

と、水穂さんがやつれた痛々しい表情で現れ、瑠衣さんの眼の前で座礼した。

「そんなこと。」

まゆさんはそう言っているのであるが、

「いえ、まゆさんも、こういう事をしなければ弁護士として名が上がらないということも知ってますし、瑠衣さんは瑠衣さんで、スキャンダルを記事にしなければ、行きていかれないことは知ってます。だったら、僕みたいな人間が悪いというふうに描かなければ、解決しないでしょう。それなら、、身分のこともあるのだし、僕が喜んで犠牲になります。」

と、水穂さんは弱々しく言った。

「ある意味、水穂さんが動けてよかったな。そうでなければ、女のガチンコバトルは、終わらないでずっと続いてしまうところだった。」

杉ちゃんが、やれやれという顔で、大きなため息を付いた。

「それで了解していただけますか?僕がすべて仕掛けて、僕がすべて悪いんだというふうにかけば、読者の皆様の納得も行くでしょうし、まゆさんも、被害者として、名を上げることはできます。そうすれば全部おさまるんです。なので、そのように書いてください。」

「水穂さん。」

まゆさんは、そう言って、水穂さんを止めようとしたが、

「それでは、この事を記事にするのはやめておきます。」

瑠衣さんは、静かに言った。

「すごいスクープが取れるかなと思ったんですけど、まゆさんにはその気もないようですし、かといって水穂さんを悪役にしてしまうのもどうかと思うし。記者はでっち上げをするために居るんじゃないですしね。ごめんなさいね。水穂さん。」

「それから、まゆさんも、水穂さんが銘仙の着物を着ていることを利用して、医療を受信させるのはやめてもらえないかな?今回は、瑠衣さんが諦めてくれたからいいけれど、諦めの悪いやつだと、いつまでも解決しないから。」

杉ちゃんに言われて、まゆさんは、

「でも、必要なのは、命ですよね。水穂さんの事を必要としてくれる人は、いっぱいいる。私は、それを続くようにしてあげたいと思っているのに、なんでやめなければならないんですか?」

と言ってしまった。

「いいえ、先程杉ちゃんが言った通り、あなたが、そういう人と関係を持ったと勘違いして、あなたを陥れようとする報道関係者がいっぱいいるのよ。」

瑠衣さんはそうまゆさんに注意した。まゆさんはまだ納得できない感じであったが、

「お前さんはそういう立場なの。立場が変わると、当然ながら人間関係も変わっていく。昔のようにはいかなくなることもある。だからそう覚えとけ。」

と、杉ちゃんが言った。まゆさんは小さな声で、そうなのねと呟いただけだった。



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