白菊の記憶 ― 忘却の式神使い ―
沖 霞
第1話 巻物から現れた少女
京都の路地裏、陽の光さえ遠慮するような静けさの中に、その骨董品店はひっそりと息を潜めていた。店主の斎藤 蓮は、三十代前半。細身の体に無造作な黒髪、そして左手にはいつも、使い古された黒い革手袋が嵌められていた。その手袋が隠すものが、彼自身の強大な力であること、そして忌まわしい過去の記憶であることなど、蓮は知る由もなかった。
その日の午後も、店は変わらぬ静けさに包まれていた。蓮はカウンターの奥で、埃を被った古い陶器を検品していた。指先で器の縁をなぞるたびに、微かな土の匂いがする。そんな穏やかな時間の流れを破ったのは、店の扉をくぐってきた一人の老人だった。背を丸め、風呂敷包みを抱えた老人は、恐る恐る蓮に声をかけた。
「あの……これは、引き取っていただけますでしょうか」
老人が差し出したのは、古びた巻物だった。墨の掠れた文字と、色褪せた絵が描かれたそれは、並の巻物とは異なる、どこか神秘的な気配を纏っていた。蓮は無言で巻物を受け取ると、ゆっくりと広げた。紙は年月を経て黄ばみ、触れるだけで崩れ落ちそうなほど脆くなっていた。しかし、そこに描かれた絵には、微かな生命力が宿っているように感じられた。
光が店内を満たす直前、不思議な静寂が訪れた。蓮の耳には、いつも鳴っていた柱時計の秒針の音さえ、なぜか届いてこなかった。
その瞬間、巻物から淡い光が溢れ出した。光は次第に強くなり、店の空間を満たしていく。蓮は驚きもせず、ただ静かにそれを見つめていた。光が収まると、巻物のあった場所に、一人の少女が立っていた。
年の頃は七、八歳ほどだろうか。真っ白な着物に身を包み、透き通るような肌と、どこか寂しげな大きな瞳を持つ少女。彼女は蓮を見上げ、小さく首を傾げた。
「……あなたは、だあれ?」
か細く、しかしはっきりと紡がれた言葉に、蓮は初めて感情を揺さぶられた。失われた記憶の欠片が、胸の奥で微かに震えたような気がした。彼は少女の言葉に答えず、ただ静かに、その顔を見つめ返した。少女は蓮の視線に怯えることなく、むしろ不思議そうに蓮の顔を眺めていた。そして、蓮がふと浮かべた、ほんのわずかな微笑みに、少女の瞳が大きく見開かれた。その微笑みは、まるで永い時の奥底に沈んでいた氷を、ひと雫の陽が溶かすようだった。
「……あ、あったかい」
少女は蓮の顔をじっと見つめ、そう呟いた。蓮には、なぜその言葉が発せられたのか、理解できなかった。しかし、少女の瞳の奥に、遠い昔に失われた、大切な何かの影を見たような気がした。蓮は、この少女が自身の失われた記憶に深く関係していることを、直感的に悟った。
「わたし……なんて、呼ばれてたんだろう……」
少女はしばし黙り、蓮の手袋を見つめたあと、ゆっくりと名乗った。
「私の名前は、白菊(しらぎく)」
少女はそう名乗ると、蓮の左手に嵌められた黒い手袋に、そっと指先で触れた。その瞬間、蓮の腕に、微かな熱が走った。彼の知る由もない、過去の封印が、ゆっくりと目覚めようとしていた。
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