『秋の底』
十月の終わり、街は赤茶けた落ち葉に埋もれていた。信濃町の古い喫茶店「さくらんぼ」で、三年ぶりに彼女と再会した。
「久しぶりね、達也さん」
美佐子は相変わらずだった。細い指先でカップを持ち上げる仕草、冷めた笑顔、その奥に何か言い足りないものを含んでいる。彼女は別れてから再婚し、今は静岡の方で暮らしているらしい。
「君は、あまり変わらないな」
「変わったわよ。あなたが知らないだけ」
そうだろう。彼女の声の奥には、新しい生活の手触りが滲んでいた。東京の雑音にはもう馴染めない、そんな空気をまとうようになっていた。
再会の理由は一つ。五年前、会社を辞める直前に彼女が俺に預けた絵があった。何の変哲もない油絵、学生時代に彼女が描いたものだった。
「覚えてる? あの絵、返してほしいの。処分しようと思って」
「処分?」
「うん。あれを見るたびに、昔のことを思い出すから」
俺はその絵をずっと捨てられずにいた。彼女と別れたあと、転職を繰り返し、今はようやく落ち着いた。会社の片隅に置いていたその絵を見るたび、誰にも言えなかった「裏切り」の記憶が胸を刺した。
「君があのとき黙って行ってしまったこと、俺はずっと……」
「うん、知ってた。でもね、達也さん。あのとき、私のほうがあなたを裏切ってたの」
彼女はカップを置き、指先を少しだけ震わせた。
「あなたに黙って、あの人と会ってたの。ごめんね」
俺は何も言えなかった。五年かけてようやく癒えたはずの傷が、まるで昨日のことのように疼いた。
でも、もういい。彼女が今を生きているのなら、俺もこの街で生きていくしかない。
「絵は、今日持ってきた。帰りに渡すよ」
「ありがとう」
二人はそれ以上、昔のことを話さなかった。
店を出ると、風が吹いた。街路樹の葉が一斉に舞い、目の前が一瞬だけ秋の嵐になった。
「じゃあね、達也さん。元気でね」
「ああ。君も」
彼女は小さく会釈し、駅のほうへ歩き出した。後ろ姿が見えなくなるまで、俺はそこに立ち尽くしていた。
ふとポケットの中で、携帯が震えた。会社の後輩からのメッセージだった。
《今夜、空いてたら一杯どうですか?》
俺は画面を見つめたまま、小さく笑った。
過去は終わった。けれど、新しい秋はまた始まる。
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