『コーヒーと嘘』
午後四時すぎ、港近くの喫茶店に彼は現れた。
「お久しぶりですね」
そう言った私の声に、彼は少しだけ笑った。七年ぶりだ。最後に会ったのは、私が会社を辞めた日の送別会のあとだった。
「変わってないな。相変わらず、コーヒーはブラック?」
「ううん。最近は、砂糖を入れるようになった」
「意外だ」
彼はカップを手に取り、そっとひと口飲んだ。昔と同じ仕草だ。左利きのくせに、いつも右手でカップを持つ。理由を聞いても、「クセみたいなもんだ」と笑うだけだった。
「この間、共通の友人に会ったんだ。君の噂を聞いてね」
「悪い噂?」
「いいや。ちゃんと自分の足で立ってるって」
私は黙って笑った。実際のところ、立っているのか、立ち止まっているのか、自分でもよくわからなかった。
かつて彼と私は、同じ部署で働いていた。何度も食事をし、何度か手をつなぎ、だけど「恋人」と呼ぶにはどこか曖昧な関係だった。私が退職を決めたとき、彼は何も言わなかった。ただ一度だけ、「行くんだな」と言ったきりだった。
だから私は、その時点で知っていた。彼の心の中に、私の居場所はなかったと。
「ねえ。あのとき、本当は……何か言いたかった?」
私が聞くと、彼は少しだけ眉をひそめた。
「言ったって、どうにもならないと思ったんだ」
「それは、正解だったかもね」
私は笑って答えた。苦く、でもどこか軽くなった気がした。
会計を済ませ、店を出ると、海風が冷たかった。桟橋のほうから夕陽が差し込んで、影が長く伸びていた。
「じゃあ、元気で」
彼がそう言ったあと、一瞬だけ立ち止まった。
「……コーヒーに砂糖、なんで入れるようになったの?」
「甘いほうが、冷めても飲めるからよ」
そう答えると、彼はなぜか満足そうにうなずいて去っていった。
私は港の柵にもたれて、潮の匂いを吸い込んだ。あのときの「さよなら」に、ようやく返事ができた気がした。
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