見つむ虫たち

第1話 小夜

 見たこともない虫が、窓に止まっている。


「きゃあ」という甲高い声が連鎖して、虫に気づいた生徒たちは窓から離れた。教室のガラス窓に張りついているのは、頭が大きくて羽がある、親指の爪ほどもある虫だ。

 静かに席で本を読んでいた小夜もそっと立ち、教室の入口まで下がっていった。心臓がきゅうっと血液を吐き出す。

 虫は苦手だ。女子はみんな窓から離れ、男子も遠巻きに見ている。


「ああ、虫かあ」


 椅子を引き、ひかりが立ち上がった。

 制服のポケットからポケットティッシュを抜き取りながら、窓に向かっていく。それをクラスメイトたちが息詰めて見守る。

 誰も近寄ろうとしなかった虫に平然としてすたすた歩み寄ると、ひかりは日焼けした手を伸ばしてティッシュで虫をそっと包んだ。カラカラと音を立てて窓を開け、ティッシュごと外に逃がす。

 虫は羽を広げて眩しい夏空へと飛んでいった。白いティッシュが一枚はらりと外に落ちる。


 女子の集団がひかりを驚きのまなざしで見る。


「すごい、虫平気なの?」

「いや怖いよ」

「だって……」

「誰かがやらないと」


 虫を逃がしたひかりは昼休みの間だけちょっとしたヒーローだった。虫におびえていた女子たちがひかりを大げさにちやほやしている。

 けれどそれはひかりが英雄然としていたからではない。だれもやりたがらないことをやったからだ。自らすすんで汚物を処理する姿勢をほめて、次もやってもらおうという態度だ。


 ひかりも、誰も、はしゃぐ彼女たちをじっと見つめる、ねじれた視線に気づいていない。

 席に戻りながらひかりを射るように見つめる小夜は、眼鏡の奥で眼をさらに鋭く細める。

 ――うらやましい。あんなふうに、私も、ひかりに近づきたい。




 運指の練習をしていると、窓からストレッチをしている運動部員が見えた。グラウンドでそれぞれに体を伸ばしている。こんな日に外で走ったら熱中症になってしまわないだろうか。いつもしていたように、小夜はフルートを持ったまま窓に歩み寄る。


 グラウンドにひかりがいるのを小夜は知っていた。いつも見ていたから。

 それを期待して、窓際に立つ。


 なんとなく窓を開けてみる。冷房の効いた室内に、むっとする熱い風が入ってくる。

 ひかりはいた。グラウンドのトラックのそばで片手をあげて伸びをしている。ああ、と小夜は心のうちでため息をつく。


 痛ましいひかり。遠く、通じないひかり。


 銀色の管がきらりと陽光を弾いた。

 小夜の視線の先にいるひかりがふとこちらを見上げる。小夜の心臓が跳ね上がる。

 そのとき確かに、ひかりは、小夜を見て笑った。へら、といういつものゆるんだ笑みで。

 小夜は硬直した。笑いを返せなかった。すいと目をそらして、仏頂面のまま窓を閉める。

 顔が熱くなる。ばちん、と乱暴に閉めた窓枠に触れている指先が痛んでしびれた。


 ひかりは笑う。気の抜けた炭酸みたいに。

 人の悪口を言わず、ババを引くことを恐れないひかりを、誰も警戒しない。




 小夜は知っている。

 ひかりはおびえている。


 たぶん小夜以外に誰も知らない。


 去年の夏からだ。

 ひかりは誰のことも信じてはいない。誰のことも信用していないし、誰も本当のことを言うと思っていないし、みんな陰で自分のことを笑っていると思っている。ひかりは、まるでサッカーのボールみたいに、みんなに蹴られるのが自分の宿命だと信じている。どこへ転がっても蹴られる。蹴られなくなったら捨てられる。

 ひかりはそう信じているのだ。


 去年の夏のことを、小夜は忘れていない。

 きっと忘れない。


 授業で当てられたあとへたりこむように座った、クラスの誰も注目していないひかりの背中を、小夜は斜め後ろから見つめる。そして、自分だけが知っている事実が、明らかになったほうがいいのか隠されたままのほうがいいのかと想像する。


 小夜は思う。私だってどれだけ他人に関心があるだろうか。

 どれだけ他人の苦しみに関心が持てるだろうか。自分のことだって抱えきれないっていうのに。


 たとえばひかりが自分だけ仲間外れにされていて、それをひかり本人が知っていたとして、あの人たちは認めるだろうか。自分たちが何をしたか。ひかりの繊細な、やわらかい襞を開いて、どんな焼きごてをあてたか。

 小夜の想像がどうあれ、ひかりは口をつぐんでいる。事実は白日のもとにはさらされない。




 ひかりが思い切りボールを蹴る。ゴールキーパーの守りを突破して点が入る。

 体育の授業でよくあるのだが、ひかりは近くにいるクラスメイトと笑顔でハイタッチする。ほかのクラスメイトとは平等に、誰とでもするのに、クラスでいちばん忌み嫌われている女子とすらさらりとするのに、小夜はするっと避けられる。そのたびに暗い炎が小夜をなめる。胸のふちが黒く焦げ、焼かれる痛みに苦しめられる。


 それなのに、小夜はひかりから目が離せない。

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