正位置と逆位置

 男子生徒は、緑色のネクタイをしていた。リコと同じ二年生だ。

「ええと、こちらは……化学部の方、ですか?」

 化学室、というワードを思い出しながら尋ねる。金髪男子は「ちげえよ」と不機嫌そうに言い放った。

「なあ、真坂。もしかして、この一年生のことか? さっき言ってた、『オカ研最強の占い師』ってのは」

「さいきょう!?」

 咲希が目を丸くする。リコは「そうだよ!」と咲希の肩をたたいた。

「サキちゃんに占ってもらったおかげで、なくなった絵が出てきたの! サキちゃんの占いには、不思議なパワーがあるんだよ!」

「えええ? べ、べつにそんな、パワーとかいうんじゃ……!」

「いいからいいから! ほら、物は試しだよ。こいつの話を聞いて、占ってみてくれない?」

「こいつじゃない。二年一組一番、赤白帽の赤に上野公園の上で、赤上だ」

「あたしと同じクラスなんだよ」

「赤上さん、ですか」

 金色の髪を見ながら言う。咲希の視線に気づいたのか、赤上は「またかよ」とつぶやいた。

「俺は絶対に赤には染めないからな。絶対にだ」

「いいから、話をしてよ。ほら、座って座って」

 リコの引っ張ってきたイスに無理矢理座らされると、赤上は膝に頬杖をついて咲希を見上げた。

「月曜の六限、化学の授業があったんだ。あそこの机は黒いから、落書きが多いだろ。知ってるか?」

 はい、と咲希はうなずいた。科学質の机の天板は、白い薬品がこぼれてもわかりやすいように黒に塗られている。近くで見ないとわからないこともあり、落書きはこの黒い机のそこここに施されていた。

「あれ、俺が入学したときからずっと放置されてるんだよ。いい加減、消そうと思ってな」

「そういえば、どうしていきなりそんなこと考えたの?」

 リコが尋ねる。赤上は鼻からふんと息を吐いて言った。

「高校生活への期待に胸をふくらませて入ってきた新入生が、あの落書きを見たらどう思う? レベルの低い学校に来ちまったってがっかりするだろ? 一年生の授業が始まるのは火曜からだ。だからその前にきれいに消して、気持ちよく高校生活を始めてもらおうと思ったんだよ」

「なるほど! それは、とてもすばらしい考えですね」

 咲希の言葉に、「だろ?」と赤上が得意げな顔になる。

「ちょうど買ったばっかの消しゴムで、ひたすら消したんだよ。十箇所くらいあった落書きを、きれいさっぱり。ところが、だ!」

 赤上は上半身を起こし、咲希の顔をまっすぐに見た。

「今日の一限の化学で化学室に行ったら、消したはずの落書きが全部、元通り復活してたんだよ」

「ふっ、復活……ですか?」

「ね、不思議でしょ?」

 リコが咲希に頬を寄せる。

「サキちゃんなら、こないだみたいにタロットで何かわかるんじゃないかと思って! どう、やってみてくれる?」

「タロット? 占いって、タロットなのか? 水晶玉とかじゃなくて?」

 赤上がリコと咲希を交互に見る。するとリコがぶはっと吹き出した。

「違うよ! 水晶玉って、のぞけば真相がわかるとでも思ったの?」

「いや、それは単なるたとえだ! そもそも俺は、占いで解決っていうおまえの提案からして納得できてねえんだよ」

「じゃあ、どうしてあたしについてきたの?」

「それは、なんていうかその……心霊現象なのかそうじゃないのか、そのへんのことがわかるかも、と思って」

「なるほど。赤上って、幽霊信じてるんだ」

「そういうわけじゃねえよ。ただ、このままだと気持ち悪いだろ? だから、とにかくなんでもいいから、答えが知りたいんだよ。幽霊なのか妖怪なのか、考えたくないけど、俺への嫌がらせで誰かがやったことなのか」

 赤上とリコが、咲希に同時に視線を寄せた。

「どう、サキちゃん。占ってもらえるかな」

「ええっと……」

 二人の期待を感じながら、咲希はどう答えたものか迷っていた。

 落書きの復活。ちょっと信じがたい話だ。たとえそれが本当にあったとしても、占いで真相がわかるとは思えない。

 でも、と咲希はちらりとヒダカを見た。占ってほしい。そう言っている人が目の前にいるのだから、その気持ちを無下にするわけにはいかない。それに、断ったらヒダカが何を言い出すのかわからない。入部が絶望的になる可能性は、決して低くはないだろう。

「……わかりました。お望みの答えが出せるかどうかわかりませんが、占ってみようと思います」

「やった! ありがと、サキちゃん!」

「おお。やってみてくれ、タロットってやつを」

 二人に言われ、咲希は改めてカードを一つにまとめ、シャッフルした。

「んで、あの……あの人は、何なんだ? さっきから、無言でこっちをにらんでっけど」

 赤上が小声でリコに尋ねる。

「ヒダカ先輩。オカ研の部長だよ」

「へえ、部長か。じゃあ、あの人も何か能力があるのか? 霊能力とか、そういう」

「オカ研をなんだと思ってんの? よく知らないけど、お祓いとかを期待してるんだったらあきらめたほうがいいよ。たぶん普通の人だから」

「べつにそんなこと考えてねえよ」

 シャッフルの最中、二人の会話が耳に入ってくる。今はヒダカのことではなく、落書きのことを考えないと。

(化学室の落書きの真相を教えてください……!)

 心の中でそう唱え、シャッフルを終える。そのとき、ヒダカがこちらに近づいてくるのが見えた。二メートルほど離れた位置に立ち、咲希の手元をじっと見つめている。

(うう、緊張するなあ……)

 左手でカットをし、赤上に「好きな順に重ねてください」と告げる。赤上は戸惑いながらも、右、真ん中、左の順で山を重ねた。

 そうして一番上のカードを引こうとしたとき、

「待て」

 ヒダカの鋭い声が空き教室に響いた。

「この間から疑問だったんだが、なぜそのシャッフル法を採用しているんだ? その混ぜ方だとあまり混ざらない上に、正逆が変わらない」

 タロットに関する質問をしてくれたことがうれしくて、咲希は思わず笑顔になった。

「私、逆位置はとらないんです。だから、正逆が変わらないこの方法をずっと使ってます」

「逆位置を……とらない?」

 ヒダカの眉がぴくりと動く。

「ん、何なに、どういうこと? 教えて、サキちゃん!」

「はい。タロットカードには、正位置と逆位置という考え方があるんです。カードの上下の向きが正しく出るのを『正位置』、さかさまに出るのを『逆位置』といいます。同じカードでも、正位置で出るのと逆位置で出るのでは意味が変わったりします」

「変わったり、って、変わらないこともあるのか?」

 赤上が首をひねる。

「そこは、占う人によってまちまちなんです。逆位置で出ても、正位置と同じ意味で読む人もいます。でも、たいていの場合、逆位置で出たカードは正位置で出たときよりもネガティブな意味になります。だから私は、正位置だけで占うようにしているんです」

 最初からすべて正位置にそろえた状態でヒンドゥーシャッフルをすれば、カードは必ず正位置で出る。これが、咲希がこのシャッフル法を選んだもうひとつの大事な理由だった。

「逆位置だからネガティブとは限らんぞ」

 ヒダカが低い声で言う。

「逆位置で出たときは、正位置の意味や要素が強く出過ぎている、あるいは足りないという読み方をすることもできる。もしくは一歩手前の状態であるとか、未確定要素が強いというふうに見ることもできるな。逆で出たことに意味を見出し、どうしたら正位置になるのかを読み解くことで、占いの幅も広がる」

 その淡々とした語りを聞いて、赤上がぽかんと口を開けた。

「え、めっちゃ詳しいんすね……?」

「そうなんです! ヒダカ先輩は、タロットの知識にお詳しいんですよ」

 あくまでも「占いはしない」と言い張るヒダカに合わせるように、咲希は「知識」を強調して言った。ヒダカはというと、はっとしたように咳払いなどをしている。

「たしかに、逆位置の読み方はいろいろあります。私にとっては、その『いろいろ』が難しいんですよ。つまり逆位置は、読み方が決まっていない、自由ってことですよね」

 咲希は目の前のタロットの山に目を落とした。

「私、やっと正位置の意味を覚えたばっかりなんです。そこに逆位置の解釈を加えるのは、ちょっとまだハードルが高いっていうか……」

 ヒダカが「ほう?」と咲希を見下ろす。

「つまり、覚える気がないと?」

「い、いえ、違います! そうじゃなくて、えっと……私、ネガティブな意味を読みたくないんです。占いは、常に前向きでハッピーなものであってほしいと思ってるんです」

「お、いいねサキちゃん! それ、すごい素敵だと思う!」

 リコに言われ、咲希は思わず笑顔になる。

「そうか。まあ、そういう考えがあるのなら、否定はしない。ただ」

 ヒダカはそばの机に軽く腰かけ、咲希を見据えた。

「タロットのすべてのカードが『ハッピー』なものだと思っているのなら、相当おめでたいな」

「そうは言ってません。でも、タロットには悪いカードも怖いカードもありませんから!」

 言ってから、咲希は山の一番上のカードをめくった。

 その絵柄を見て、全身がぴきりと固まる。視界の外にいるのに、にやり、とヒダカが笑ったような気がした。

 出たのは、ソードの3だった。

「なんだ? ずいぶんと、その……物騒な絵だな」

 赤上が眉をひそめる。

 たしかにタロットカードには「悪いカード」「怖いカード」というものはない。

 ただ、若干ネガティブな意味合いのカードは何枚か存在する。

 たとえば、大アルカナの「月」。正位置だと、不安で思い悩む様子を表す。逆位置になると、その不安から抜け出す、解決策を見出すなどの意味として読むことが多い。

 この「ソードの3」も、正位置だと「心の痛み」を表すカードだ。大きな赤いハートに、ソード――剣が三本、ぶすぶすと刺さっている。グレーの背景には雲が立ちこめ、雨が降っている様子が斜線で表現されている。

 どうしてよりによってあの会話をした後にこれなんだ、と咲希はうなだれた。ソードの3は、逆位置であれば「痛みの解消」などのいい意味になる。だが正位置しかとらないと宣言してしまった以上、正位置の意味で読むしかない。

 ハッピーなどとのたまってしまった先ほどの発言を取り消したい。そう思いながらも、咲希は観念して口を開いた。

「えっと、これはその……ショックを受けている、という様子を表すカードです。何か、思い通りにならなかったとか、知りたくなかったことを知ってしまったとか、そんな感じですね」

「おっ、当たってるじゃん。ショックだもんね、赤上」

「ショックっていうか、まあ、驚きはしたが……それで? 落書きが復活したことについて、何かわかりそうか?」

 赤上に問われ、咲希はじっとカードを見た。

 赤いハートは、そのまま心臓を表している。それよりも咲希は、背景の雨と雲が気になった。雨は涙に通ずる。だれかが心で涙を流している? そして、グレーという色。

 タロットでは、色にも意味があると言われている。たとえば黄色は幸福や希望を。赤は情熱、青は冷静さ、白は純粋さなどを示している。

 グレーは、タロットにおいては「中間地点」や「あいまいさ」を意味している。この先にあるさまざまな可能性を肯定しつつ、むやみに進むのではなく思考することが大事だというメッセージを表してもいる。

(心の涙……でも、まだどっちに転ぶかわからない……)

 ううん、と咲希は首をひねった。

「この件の背後に、傷ついただれかがいる……という感じがします。あ、赤上さんではなく、別のだれかです」

「つまり、こんなことをしでかした犯人がいるってことだな、幽霊とかじゃなく」

 興奮したように言う赤上に、咲希はあわてて首をふった。

「いえ、まだ、はっきりとはわかりませんが!」

「そもそも、消したというのが思い違いだったという可能性はないのか?」

 ヒダカが口を挟む。

「落書きが復活するなんて、普通に考えたらありえない。夢でも見ていたんじゃないのか?」

「失礼っすね! ちゃんと証拠画像がありますよ。見てください!」

 赤上はスマホを取り出すと、机の上に置いた。

「これが消す前の机っす。落書き、ありますよね」

「あ、この落書き知ってる。結構前からあるよね」

 リコが楽しそうに言う。画面に映っていたのは、鬼の絵の上に「鬼いさん」と書かれ、「兄です」というセリフが吹き出しで書かれているものだった。

 他にも、机の角ギリギリに書かれた「21+1=0」、何かの洋楽の歌詞を書き殴ったようなもの、やたらリアルな金魚など、さまざまな落書きがあった。

「んで、こっちが消した後っす」

 そう言って、赤上は別の写真を表示した。スライドさせていくと、落書きの写真と同じ画角で撮られたものが数枚現れた。どの写真にも落書きは見当たらず、消しゴムでこすったような痕が見えるものまであった。撮られた日時を確認すると、どちらも同じ日付だが、きれいな机の写真は落書きの写真より三十分ほど後の時刻に撮られていた。

「なるほど、これはちゃんとした証拠だね。赤上、よく撮ってたね。えらい」

「自己満ってか、記録の意味で撮っただけだったんだけどな。役に立ってよかったわ」

 赤上が言うと、画面をじっと見ていたヒダカが顔を上げた。

「復活した落書きの写真は? 撮ったのか?」

「いや、それは撮ってないっす。なんか、気持ち悪くて」

「そうか」

 ふう、と息をついてから、ヒダカは言った。

「じゃあ、現場に行くとするか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る