4節

 船は、夜の海を滑るように進む。僅かに立つ波を切る音だけが、張り詰めた空気に響いていた。

 ハンクが、操舵輪から視線を外さずに口を開く。

「旦那、まずは礼を言わせてくれ。あんな状況で、よく来てくれた。ありがとうよ。ノーマン…さっきの若い奴じゃ、まともに説明もできやしなかったろうからな。俺から状況を説明させてもらうぜ」

 島の家々の灯りが、猛烈な速さで後方へと流れ去っていく。

「会長からの緊急依頼でな。旦那には十和狐ちゃんを救出を頼みたい。……本当なら、旦那の手を煩わせるような話じゃないんだが。締め上げたチンピラが、最期に厄介なことを吐きやがった。奴らの雇い主の護衛に、テーベの元騎士が付いてる、と」

 その言葉を聞いたバンは、静かに帽子のつばに手をやり、一息吐いて被り直した。それからハンクが続けた説明と、自治会から転送された情報を要約すると、こうだ。

 計画と言えたものでないが、海上ナイトクラブ船「海燕」を貸し切った雇い主が護衛任せに制圧後に十和狐をそのまま拉致するというもの。

 アパートでの一件は、その雇い主の趣味が先走った、計画外の行動だったらしい。

 今、船内で健在であろう者は単独指名を受けて乗船した十和狐、そして相手は雇い主本人、そいつ専属のバーテンダー、そして護衛である元騎士の、計三名。

「すまねぇが旦那、その“海燕”ってのが厄介でな。ありゃあ、前の戦争のゴタゴタで流れ着いた船で、まともな設計図が残っちゃいねぇ。自治会でありったけの情報をかき集めて、やっとこさ作ったのが、これだけだ」

 操舵室の窓から、ハンクの腕が伸びる。バンがその手からひったくるように受け取った紙には、手書きの、しかし要点を押さえた船内の見取り図が描かれていた。

「……十分だ」

 バンは短く、しかし力強く答える。

 左手首の魔導輪ウォッチに赤点が浮かぶ、赤点は表面をなぞり動き、円環を成した。


 煌々と照るネオンの騒がしさが聞こえる海燕の船尾からバンは音もなく乗り込んだ。入口の前に立ち、魔導輪ウォッチに取り込んだ見取り図を瞳に映し、実物と比較しながら整理する。目の前にある階段を下りれば、左右に客室が並ぶ一本の長い通路。その先には、ソファーやテーブルが設置されたホールがあり、更に奥にプライベートバーがあるとだけとの事らしい。

 攻めにくく、守りやすい、そして逃げにくい。裏ならよく見る堅実で堅牢な造りである。そして少人数でここを穏やかに攻め落とした相手の実力も透けて見える。

 階段を下り、通路の端に立つ。左右に並ぶ客室の扉は、どれも固く閉ざされ、光一つ漏れてこない。嵌め込みの窓を見て、扉が盾のように厚いらしい事が分かるとバンはトン、と軽く床を蹴り彼の身体を前方へと撃ち出す。反作用を殺された踏み込みは、軽い音とは裏腹に、落ちるような加速を生んだ。廊下の中ほどに差し掛かった刹那に左壁上方から生える様に突き出た金属片が視界の片隅に捉えた。

 制動をかける隙もなく、“それ”を通り過ぎてしまったバンの背に、シャラリと壁、扉がないが如く斬撃が迫る。全身を捩じり、左手に構えるアタッシュケースを剣と背の間にどうにか滑り込ませると火花が咲き甲高い金属が鳴った。

 想定外の一撃を、どうにか凌ぐ。バンが即座に体勢を立て直し、銃口を向け、アタッシュケースを盾の様に構えた時には、先ほどまで壁から突き出ていた剣先が、スゥー…と、まるで幻であったかのように、無機質な壁の中へと引き込まれていくところだった。

 ギィ、と軋む音を立てて、分断された扉の上半分が、ゆっくりと内側を見せ開く。その向こうの暗がりから、まず左半分の顔だけが覗いた。

 乾いた炸裂音が、三度、廊下に響き渡る。しかし、男の顔に到達する前に、銃弾はプレパラートが連続して割れるような、微かな音と共に弾道を逸らされ、奥の壁を三度、虚しく叩いた。流動装甲――それも、かなりの手練れだ。

 バンが次の手を思考する前に、扉の下半分が静かに開かれた。そして、細い糸目を持つ、飄々とした男が、まるで舞台に上がる役者のように、ゆっくりと廊下へと姿を現した。

「おやおや、これは驚きました」

 男は、ため息を一つついて、肩をすくめる。

「どうやら、雇い主の注文は守れそうにありませんね」


 騎士らしからぬ、速さを重視した軽装。防御は流動装甲に任せ、攻撃は右手に構えた一振りの剣のみであろう。通常ならば、それだけで必殺たる事は、あの一太刀で理解した。

 通路とホールの境に立つバンは、続けて三度発砲しながら後方へと飛ぶ。当然、銃弾は男には当たらない。その射線を突くように、護衛の男は即座に距離を詰め、横薙ぎの一閃を放つ。バンはアタッシュケースの面でその剣先を受け流す。逸らされた刃が、両側の壁を深く切り裂いた。

 バンは、開けたホールへと完全に場所を移す。それを追うように、リシュナスもまた、通路の闇からぬるりと現れ、同じ空間に立った。

 両者が構えを崩さず、静かに向かい合う。張り詰めた空気の中、先に沈黙を破ったのはリシュナスだった。彼は、長いため息を一つ吐くと、どこか芝居がかった口調で言った。

 「はぁ……こうも真正面から対峙すると言うのに、名乗り上げずに剣を交えるのは、どうにも座りが悪いものですね」

 彼は、少しだけ口元を悩むように歪ませた後、すん、と表情を戻し、古の騎士のように、しかしその声には確かな自嘲を込めて、口上を述べた。

「テーベ元騎士、リシュナス・フォン・エルキウス。……いざ、参る」

 言い終えたリシュナスは、自分が何をやっているのだろうか、とでも言いたげに目を伏せ、虚しそうに微笑んだ。

「……賞金稼ぎ、バン・キルト」

 バンが、短く、しかしはっきりと名乗りを返した。その予想外の返答に、リシュナスの目が僅かに見開かれ、そして、その口角が興味深そうに、しかしどこか嬉しそうに、ゆっくりと吊り上がった。


 ホールは、瞬く間に戦場と化した。

 くぐもった空気。柔らかなソファー。高級感を漂わせるテーブル。冷たそうな硝子の水差し。ホールに置かれたあらゆる調度品が、次々と切り裂かれ、撃ち抜かれ、空を舞い、そして、地に落ちる。

 リシュナスの変幻自在な剣戟は閃き、斬り結び、刺突。残像すら追いつかない神速の刃に対して、バンはアタッシュケースの角、辺、面の全てを使って対応する。剣を受け止め、滑らせ、弾き、軌道を逸らす。

 始めに、コートの袖が斬り裂かれる。次いで、シャツが、その下で薄皮が切られ、僅かに血が滲む。剣先は、ついに彼の胴のポンチョを掠める。

 リシュナスが剣を右の手元に戻し、突きの構えとした一瞬に、バンはトン、と後ろへ飛ぶ。これまでの攻防で繰り返しものと寸分違わない動きで、早く遠い。これをリシュナスは構えを崩す事なく爆ぜる様に突進へ移る、バンもすかさず、リシュナスの顔へ照準を合わせ三発撃ち込む。これまでに同様に弾道はリシュナスの左側へ逸れる。しかし、この銃撃にリシュナスは反射的に僅かに右へと重心を傾け勢いを落としてしまう。

 この一瞬の隙にバンのアタッシュケースは相手の顔を狙った軌道を描き始めていた。その形状ゆえに、大振りな攻撃をリシュナスが見落とす筈もなく、バンの左腕を狙い、剣を滑らせ、斬り上げる。

 攻防一体の一閃は流血代わりに火花を散らす、剣先は拳銃『シンリョウ-XM1』の腹で受け止められていた。想定外の防御であったろうリシュナスであったが、迫る打撃への対処に切り替える。散る火花が消えきる前に、剣を引き、柄を上げ、アタッシュケースを受け止める。

 剣先を翻せばバンの左腕を斬れる形となったが、それが行われる事は無かった。リシュナスの右太腿には既に銃口が押し当てられていた。


 ダァンッ、空を裂いた音が響く。

 リシュナスの太腿には半円が穿たれ奥の風景を覗かせ、途端に激しく出血する。リシュナスは倒れながらも、魔力を治癒に回し止血を試み、近くのソファーに背を預け腰を落とす。

「あっ…ぐぅ……」

 口から漏れ出た音を噛み殺し、血の勢いが緩む。

 バンは一歩引いた位置からリシュナスに照準を合わせる。リシュナスは自身に向く銃口を見た途端に流動装甲へ魔力を回すと、乾いた炸裂音が、三度、ホールに響く。

 弾丸は逸れるも、緩んでいた出血が再び激しくなる様子を確認し、リシュナスは一つ息を吐いて両手を上げる。

 「降参ですよ、こんな仕事に命を賭けるつもりはありませんよ」

 顔が蒼白に成りながらも、流動装甲を緩めない様子のリシュナスを見て、バンは一声をかける

「……何に誓う」

 リシュナスは目を僅かに見開き、眉をひそめ、少し考える様に視線を落とし、一呼吸を置いてから流動装甲を解除し、バンに真剣な視線を送り、口を開く。

「十三柱の神々と……元騎士の誇りに誓って」

 バンは魔導輪ウォッチのポケットからスプレー缶の様な物を取り出し、リシュナスへ投げ渡す。

「肉体充填剤だ、魂の傷までは治らないがな」

 そう言うと拳銃を下げ、構えを解くと目的地を探すように辺りを見渡す。

「あっちですよ」

 リシュナスが指差した先には、壁のようだが、よく見れば引き手が付けられている。


 私に覆いかぶさる男と古い記憶が重なる。落ちてくる拳に大きな声、縮こまるばかりで動かない体――パンッ軽い音が頬に響いて現実に引き戻された。

 目の前には客として私を指名した男がニヤニヤと覗き込む顔が視界いっぱいに広がっている。

「っひ……いや」

 咄嗟に顔を逸らし、目を動かして辺りを見る。本来なら他の店員さんも居るはずのバーに、男が連れた女性バーテンダーがグラスを磨くばかりで誰も居ない。

 組み伏せられている事、ここには三人しか居ない事、そしてこれから私が何をされるのかを理解してしまった。

 ここで叫んでも意味はない。喉の奥が詰まり、声にならない悲鳴が漏れそうになった、その時だった。

 ダゴンッ と、バーの出入口から、何かが強引に叩きつけられたような、凄まじい破壊音が響いた。続いて、ガリガリと金属が削れるような音が連続し、破壊された扉の隙間から、一条の光が差し込んでくる。

 カウンター内の女性が驚いたように両手を上げる、入ってきた影が右手を振るったかと思うと、ピシャリ、と奥の壁から何か生々しい音がした。

 次の瞬間、女性は顔からテーブルへと叩きつけられ、数度、痙攣するように跳ねて、動かなくなった。

 私は既に恐怖の対象を変えてしまっていた。痛いほどに押さえつけきた手の主よりも、燃える様に魔力を迸らせ、こちらを睨みつける影の方が、只々恐ろしかった。

 瞬間に私の上に居た男は弾き飛ばされ奥に叩きつけられていた。

「ひゅい……」

 私の口から細やかな悲鳴が漏れた。

 先程まで筋骨隆々とし、自信に満ちていた、あの男は何が起こったか分からないような顔で、左腕は関節がいくつも増えたようにグラグラと揺らしている。男は状況を飲み込み始めたように口を大きく開け、喉の奥から音が絞り出てくる。

「あっ…ああ…あー」

 が、悲鳴となりきる前に、男へ箱らしき物が叩きつけられた事で途中で止まった。

 両肩を抱いて震えている内に、地に伏した男に二回、三回とアタッシュケースを振り下ろす影の顔を覗き見てしまった。古い記憶の――父と呼んだ、あの人の顔は……泣きそうで、苦しそうで……。私は影の背に向かって飛び出していた。


 呻いて踠く男へもう一撃入れようと左手を振り上げる。叩きける前に、背に温かい何かが、そっと触れていた。震える手が回されている事に気がついて、ゆっくりと左手を下ろす。

「や……止めて下さいっ……それ以上は」

 背後より弱々しくも、覚悟ある声に少しだけ頭を冷やすと、力が抜けたように力が緩む。魔導輪ウォッチを起動させ、マイクロゲートを開いて小箱と吸入器を落とす。

「……薬がある」

 バンは微かに呟いた。 

 バンは気絶した二人に最低限の治療を済ませ、誰も居ないホールで抑制用リキッドを吸入し、落ち着きを取り戻していた。

「あの……すみません」

 先程までに気丈に立っていた十和狐がペタンと腰を落としている。

「腰が……抜けました」


 十和狐を抱えたバンは通路を抜け、階段を一歩づつ上がる。切り取られた白む空が見え始める程登ると、外からのガヤガヤとした人の声が聞こえてくる。共に甲板へ出ると海燕の周りには小舟がひしめき、二人を確認すると誰ともなく声を上げ、やがて歓声となった。

 徐々に光が満ち、キラキラと海面が照らされ、島影がはっきりとし太陽が昇る。

 背後で片足を引き摺るような足音が聞こえ、止まる。前に抱いた十和狐が回した腕に力が込められ、空が蒼くなるとバンが声を漏らす。

「……騎士だな」

 フッと笑ったような鼻息が聞こえ、一息置き、こう響いた。

「“元”騎士ですよ」

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