第10話 愛という名の檻【第一部最終話】

 白いワンピースをまとった少女――夏月は、昴を見上げて微笑んでいた。


 その顔は、穏やかだった。

 怒りも、悲しみも、取り繕いもない。ただ、“そこにいる”だけの、奇妙な静けさがあった。


 「ずっと、こうしてくれるのを待ってたの」


 机の上に並べられた写真たち。昴のものだけで構成された、歪なアルバムのようなそれらの中央には、小さなガラス瓶が置かれていた。


 その中には――

 昴の使っていた歯ブラシの一部と、彼がかつて夏月に貸していたリップバーム。


 昴の背筋に、冷たいものが這い上がる。


 「夏月……お前、これは……どういうつもりだ」


 彼女はゆっくりと立ち上がった。

 背丈は小さく、華奢だった。だが、その目だけが、異様に深い闇を湛えていた。


 「昴くんが、他の子と一緒にいるの、すごく苦しかったの」


 「……それで、俺の部屋に勝手に入ったのか?」


 「“勝手に”じゃないよ。だって、昴くんは鍵を渡してくれてたじゃない」


 「返しただろ、あれはもう……終わったんだ」


 「終わってないよ。昴くんの心は、まだ私の中に残ってる。私、ずっと……一緒にいたの。あの夜だって、昴くんが悪い夢を見た時、そばにいたんだから」


 昴は目を見開いた。


 ――まさか、あのときも……。


 夏月はさらに一歩近づいた。


 「ねえ、わたしのこと、まだ少しは好き?」


 「……」


 「答えて。……少しでも、ほんの少しでも、私を“忘れられない”って思ったこと、ある?」


 昴は、言葉を探した。


 だが――そのとき、背後からドアの開く音がした。


 「昴!」


 駆け込んできたのは、奏だった。

 息を切らし、睨むように夏月を見ている。


 「……何してるの、この子に」


 夏月はゆっくりと奏に視線を向ける。

 その瞬間、彼女の瞳から光が消えた。


 「邪魔……しないで。あなたがいると、昴くんが曇るの」


 「“曇る”? それって、都合の悪い現実から隠したいだけじゃないの?」


 「昴くんの目には、私だけが映っていればいいの」


 奏は一歩も引かない。むしろ、その場に立つことで、昴を守るように体を張っていた。


 夏月が静かに、鞄から小さなナイフを取り出す。

 光沢のない、銀の刃先がゆっくりとこちらを向けられた。


 「昴くんを連れて行かないで。……彼は、私の“もの”だから」


 奏が息を飲む。昴は即座に夏月との間に割って入った。


 「やめろ、夏月!」


 「どうして……どうして私を“選ばない”の? どうして……“わたしだけ”じゃ、ダメなの……?」


 夏月の腕が震え、ナイフの先が昴の胸元にかすかに触れた。

 が、そのとき――


 「やめなさい」


 第三の声が、静かに響いた。


 扉の外から現れたのは、斎賀凛だった。


 白のシャツに黒のパンツ、乱れない髪。

 そのまなざしは、夏月を包むように冷たい。


 「夏月さん。あなたが求めているのは、愛じゃない。“所有”よ。それは誰も救わない」


 夏月の手からナイフが滑り落ちた。


 音もなく、カランと床を転がる。


 夏月は警察に保護された。精神的に不安定な状態が続いていたこともあり、しばらく医療機関での治療を受けることになったという。


 昴は、その夜ひとり、部屋のベランダで夜風に当たっていた。


 隣では、奏が静かに彼の肩にもたれている。


 「……怖かったよ、私。ほんとに」


 「……ごめん」


 「違うよ、謝らないで。……私は、昴のそばにいられてよかったって思ってる」


 昴は静かに、彼女の頭を撫でた。


 何かが壊れて、何かが始まるような――

 そんな静かな夜だった。

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そして夜が明けるまで 麒麟倶楽部 @kirin03

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