そして夜が明けるまで
麒麟倶楽部
第1話 静寂と雨の午後
アスファルトに打ちつける雨の音が、まるでノイズのように耳にまとわりついていた。
午後三時過ぎ、灰色に濁った空が、大学の構内を鈍い色で染めている。梅雨入りしたばかりの空模様は不安定で、朝の晴天が嘘のように変わっていた。傘の持ち合わせがない昴は、講義棟の軒先でじっと雨が弱まるのを待っていた。
ひとり、壁に背を預けながら、スマートフォンの画面をぼんやりと眺める。通知は何も来ていない。時間だけが静かに流れていく。SNSを開いては閉じる。それを何度も繰り返す無意味な動作に、少しだけ自己嫌悪が混じる。
「……やっぱ、止まないか」
昴――壮馬 昴は、濡れた髪をかきあげ、小さく息を吐いた。誰かを待っているわけでもない。ただ、自分の部屋まで歩いて帰るには、今の雨脚では気が進まない。それだけだった。
けれど、心の奥にはもう一つ、気の進まない理由があった。
──最近、誰かに見られている気がする。
明確な証拠があるわけじゃない。ただ、部屋に戻る道すがら、信号待ちの背後、コンビニの防犯ミラーに映る視線。偶然を装った誰かの存在。そんな“気配”が、日に日に強まっていた。
「……気のせい、か」
そう自分に言い聞かせながら、昴は講義棟を離れようと足を踏み出した。だがその瞬間、誰かが傘を差し出した。
「ほら、入んなよ。風邪ひくぞ?」
明るい声とともに現れたのは、バイト先の同僚――一ノ瀬 奏だった。
淡いピンクの傘の下、奏は気取らず笑っている。シンプルなワンピース。髪を後ろで束ねていて、素朴な雰囲気を醸し出していた。
「……奏?」
「そう。今日のシフト、被ってるでしょ? 一緒にバイト先まで行こ。雨、ひどいしさ」
差し出された傘に戸惑いつつも、昴は無言で頷いた。二人分にはやや小さめの傘。自然と肩が触れ合う距離になったが、奏は気にする様子もなく、「この雨、明日まで続くらしいよ」と軽やかに話を続けていた。
雨音が、わずかに和らいで感じられる。
バイト先は大学から徒歩十五分のコンビニ。昴と奏はそこで週に数回、夜のシフトを共にしていた。明るく、接客も丁寧な奏は常連からの人気も高く、同僚との関係も良好だった。一方の昴は、どちらかと言えば無口で淡々としたタイプ。けれど奏は、そんな昴にも分け隔てなく接してくれる稀有な存在だった。
「そういえば、昴ってさ、大学の近くで一人暮らしだよね。部屋、どんな感じ? 片付いてる?」
「……普通だよ」
「ふーん、じゃあ今度遊びに行こうかな。……なんて、冗談。あ、引いてない? 今の」
軽口を叩く奏の横顔には、ふざけたような、けれどどこか照れ隠しのような色が混じっていた。昴は少しだけ、口元を緩める。
バイト先に着く頃には、雨は弱まっていた。夕方のコンビニには、学生や帰宅途中のサラリーマンがぽつぽつと立ち寄っていた。昴と奏は、いつものようにスムーズに業務をこなす。だが、その日の終業間際――
レジカウンターに並んだ一人の客が、昴の目に止まった。
長い黒髪に、大学の指定鞄。背は低く、華奢な体つき。口元に浮かべた微笑みだけが妙に印象に残る。
──夏月。
視線が交差した瞬間、彼女は小さく手を振った。
「……なんで、ここに」
昴が思わず呟いた声に、奏が振り返る。
「え? 知り合い?」
昴は言葉に詰まり、曖昧に頷いた。夏月は、何も言わずに商品だけをレジに置き、奏が対応するのを見届けてから、ゆっくりと店を後にした。
その背中を見送りながら、昴は冷たい汗が首筋を伝うのを感じていた。
──また、現れた。
破局して、もう一年が経っている。電話番号も、SNSも遮断していたはずだった。だが彼女は、いつだって突然に現れる。あたかも、“偶然”を装って。
「昴、大丈夫? 顔色、悪いけど……」
奏の声に我に返る。小さく首を振り、「なんでもない」とだけ答えた。
けれど、頭の中ではひとつの疑問が蠢いていた。
──本当に、偶然か?
そしてその夜、部屋に戻った昴は、自宅アパートのポストに一枚の紙切れが挟まれているのを見つけた。濡れた紙はわずかに文字が滲んでいた。
《ひとりの夜、気をつけてね。》
差出人はなかった。
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