殴られる幸福

夜白(やしろ)ゆき

プロローグ:痛みの芽生え

 僕の名前は、水瀬千尋みなせ・ちひろ、十二歳。中学一年生。この世界で、僕は、誰にも名前を呼ばれないまま、生きている。

 僕の名前の『千尋』は、よく女の子だと間違われる。本当は、母が“女の子だったらつけたかった名前”らしい。

 生まれた時に父が勝手に出生届を出して、そのままになったとかなんとか。でも、僕はこの名前が嫌いじゃない。“深くて広い”って意味があるらしいし。たとえ、誰も呼んでくれなくても。僕は、僕の名前を知ってる。

 目覚ましが鳴ったわけでもないのに、目が覚めた。いつも通りの朝。冷蔵庫のモーター音と、壁越しの隣人のせき払い。台所には朝食も声もない。母はまだ寝ている。あるいは、もう起きて出ていったのかもしれない。どちらでもいい。食パンを一枚、口に放り込む。乾いた生地が口内を裂き、喉の奥で引っかかる。痛い。けど、痛みは、そこだけだった。

 ――音がしないな。自分の声すら、空気に弾かれる気がする。この家には、もうずっと、“音”がない。

 

 千尋が音を失ったのは、小学二年生(八歳)の冬だった。父が暴れ、ガラスが割れ、母の悲鳴が響いた夜。あの夜から、家は変わった。会話は減り、笑い声は消えた。代わりに残ったのは、静寂と皿が割れる音、時々、怒鳴り声。父は怒るたびに物を投げ、母はそれを受け止め、翌朝には「ごめんね」と笑っていた。口の端に青アザを浮かべたまま、笑っていた。

 千尋は、言葉をしまった。声を上げることが、誰かの怒りを引き寄せることだと知ったから。そのうちに、声は喉に沈んでいった。

 父が出て行ったのは、千尋が小学三年生(九歳)のときだった。残されたのは、壊れかけた母と、感情の置き場をなくした少年だけ。それでも、誰も助けてはくれなかった。誰も、名前を呼んでくれなかった。

 母は、僕を“目”で呼ぶようになった。眠たげなまぶたの奥で、感情の死んだ視線だけを向けて、「……わかるでしょ」と口を動かす。声にはならない。そのほうが楽なのだろう。僕も、もう聞こうとしなくなった。

 父がいた頃は、まだ怒鳴り声があった。怒鳴られたほうが、感情が動いた。今は、なにも起きない。

 名前は、生きてる人にしか使われない。「千尋」って、誰かが言うたびに、世界のどこかに、僕という存在があるって思えてた。でも、その音は、もう何年も聞いていない。

 だからだ、この世界には、“音”がしない。正確には、“僕に向けられた音”が、一つもない。テレビの音も、車の音も、隣人の咳払いも聞こえる。でも、それは“世界の雑音”でしかなくて、その中に僕の居場所は含まれていなかった。

 中学に上がっても、世界は無音だった。千尋は話さなかった。誰も話しかけてこなかった。机にはゴミが置かれ、上履きは片方だけ無くなる。それでも、何も言わなかった。だって、意味がないから。訴えたところで、何も変わらないから。

 でも――ある日、放課後の廊下で、上級生と肩がぶつかった。「てめぇ、どこ見てんだよ」そう怒鳴られて、次の瞬間、拳が腹に食い込んだ。肺が圧迫され、呼吸が止まる。うずくまりながら、千尋はこの苦しさが、生きているって証なんだと思った。痛かった。苦しかった。でもそれ以上に、はっきりと“自分の存在”を感じた。視界が歪み、吐き気が込み上げ、脳が叫んでいる。でも、それすらも心地よかった。心が震えたのは、何ヶ月ぶりだろう。

 それが、“最初”だった。恐怖じゃない。救いだった。その瞬間だけ、世界が自分を見てくれた気がした。そこから、千尋は考えるようになった。痛みを選ぶことで、存在を証明できるなら――僕は、殴られたい。殴られたのは、あの日が初めてじゃない。でも、“救われた”と感じたのは、あの日が初めてだった。

 

 殴られることでしか見つけられなかった、僕の幸福の物語です。

 ただの暴力でも、ただの快楽でもありません。痛みの中にしか“自分”を感じられなかった僕が、それでも、生きた証を探し続けた記録です。誰かに名前を呼ばれることで、ほんの一瞬でも――ここにいる。と思えた記憶。殴られたことでしか見えなかった景色。それら全部が、僕にとっての“幸福”でした。

 読む人によっては、胸を締めつけられる場面もあるかもしれません。この痛みの先にある、“祈り”が、あなたの中にも届きますように。

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